第八十四幕 或る家令の決断
ネリーが静かに覚悟を決めた時、リチャードが口を開いた。
「おじさん。それ、シャーロットにわたしておいて」
血に塗れたナイフを示され、ネリーの動きが止まった。
「シャーロット?」
「そう、シャーロットのナイフ。あれ、ウィリアムだっけ。どっちかな」
自分で言っておきながら、リチャードは自分の言葉に不思議そうだ。意味の通らぬ言動は、少なからずネリーを混乱させた。
「そのウィリアムとシャーロットは何処へ?」
リチャードはメアリーの傍へとしゃがみ込んでいる。開いたままの彼女の眼を閉じると少しだけ、生きていた頃の美しい面影が戻った。
「ミセス・メアリーを殺した成果を披露しに、父の元へ行ったのでしょう。彼女はトマス・ラインという男を盲信しています。男になり、親族さえ殺せば爵位が継承できると信じているのです」
ネリーは新しく何者かが現れたのではないかと周囲を見渡した。しかし、相変わらずネリーの前には幼子と、メアリーの死体しかない。
ネリーが噂に聞く交代を見るのは初めてであった。
淡々とした口調は、幼い子供に似つかわしくない。表情が読めない子供なら、なおさら薄気味悪い。ネリーは動揺を悟られないよう子供を見下ろした。
リチャードがメアリーを殺したのだと、ネリーとアーサーは考えていた。しかし今の言葉はまるで「メアリーを殺したのはシャーロット」とでも言わんばかりだ。
アーサーは犯行を目撃し、リチャードが犯人であると断言した。そうネリーは考えていた。
しかし、リチャードによく似た別人と見間違えたなら。そんな疑問がネリーの頭を掠める。
オフィーリアとネリーの下の子は今年で八歳だ。ヴィクトリアは父親であるネリーに似ていたが、下の娘もネリーに似ているとは限らない。
そして、目の前のリチャードは、幼い頃のオフィーリアに面立ちが似ていた。
外から中を覗いたアーサーが、リチャードとシャーロットを見間違えたという可能性を、ネリーは否定できずにいた。
そして、メアリーが一突きで殺されていたこと。
彼はじっと子供を見つめるが、相手がそれに気がついた様子はない。消毒薬の強い匂いがネリーの元まで届く。
幼いリチャードの顔は包帯で包まれていた。顔をあげた拍子に顔の上半分を覆った白い布の隙間から赤く引きつった皮膚が露わになる。火傷の痕であるのは、疑うまでもなかった。
「僕はもう、ライン卿が求めた存在では無い」
今から走れば、その向こうに行ったと言うウィリアム、またはシャーロットなる人物に会えるのだろうか。ネリーの意識を戻したのは服の裾を引くリチャードの存在だった。
「ところで、ぼくのくまさんを、みませんでしたか?」
「いいえ、見ていませんよ」
「そうですか」
先程までの明瞭さは影をひそめ、彼はふらふらと前方に手を伸ばしていた。
今の「彼」は、アーサーと会話していた時の子供だろうとネリーは思った。この子供は何かを知っている。だが、正確な情報を得る事はできないだろう。
「うん、いいよ。かしてあげる」
幼い子供は一人で誰かと話し続けている。この子供は、心を病んでいる。ネリーがそう結論づけるのは、自然なことであった。
ライン伯爵が、不老不死を求め、自分自身を造り出そうとしていた事は今までの調査から分かっていた。
性格とは、即ち魂である。生まれた子供の魂を消し、自分の魂を上書きする。そうすれば、新たな「自分」が生まれる。
それが架空の話であれば笑い飛ばせただろう。笑えないのは、相手が本気でそう思い、既に実行している為だ。
トマス・ライン卿に必要なのは「自分に良く似た存在」だった。メアリーやその息子の金の髪や翠目は必要ない。オフィーリアとトマスはライン家に珍しい茶髪である。
自分を造るには妹の腹が必要だ。トマスがそう結論付けるまで、さしたる時間は必要なかった。生まれた子の名はリチャード。
リチャードはおかしな子供だった。
良く言えば想像力が豊かで、目に見えない友人と話していた。トマスから教育を受ける様になって、それが加速した。人が変わったように性格も喋り方も変わる。それは大抵、彼の前から消えた人物であった。
ジャックとアーサー。顔が似ていない。たったそれだけの事で実の父親から命を狙われた二人の兄。リチャードは想像上の彼らに依存していた。
そして、もう一人リチャードの中に存在する何か。
庭に増える真新しい土の山。近くを通れば隠しきれない腐敗臭が漂った。
「ミスター、メアリーさんが貴方に伝えようとしていたのは、恐らく彼女のことです。彼女を連れて逃げてください」
「君は」
包帯で覆われた子供は露わになっている口元で微笑んだ。彼が壁を触ると、最初からそこにあったかのように黒い洞穴がぽっかりと口を開ける。
「さようなら、ミスター。また、気が向いたら殺しに来て下さい。彼女にもそう伝えて」
ネリーが走り出した頃には、子供はメアリーの傍らに寄り添い、見えない誰かと遊び始めていた。
【1855年 英国/ロンドン/聖メアリー病院】
シスター・ケイトリンはゆっくりとした足取りで廊下を歩いていた。
白で統一された廊下には、長年に渡って刻みこまれた清貧が染み付いている。数人の修道女と目礼を交わしても、誰も彼女が異物だと気づかない。
彼女は人を探していた。
第一棟、第二棟、隅から隅まで。日が暮れるまで、彼女は病院の中を歩き続けた。
彼女が探し物を見つけたのは、雪花石膏で囲まれた円形劇場でだった。
財が注がれた、かつての神殿を愛でる者はいない。死に瀕した者たちが並べられた無骨な寝台の上で眠っているだけだ。
彼女は時計回りに病室の中を周り、患者の顔を順に確認していった。アルコールと血の香り。皆、死んだように眠っている。
その一人の前で、彼女は足を止めた。その病人は目を開き、虚ろな視線を天に向けていた。
「ミス・ケイトリン」
シスターは来た時と同じく、ゆっくりと患者に近づいた。
相手の視線もまた、ゆっくりと動く。
心此処にあらずといった年若い青年は相手の名を呼んだ。今にも消えそうな囁き声だった。
声の代わりに彼女は、答えを掲げる。
表情を失った彼女の手にあるのは、夕日に照らされた銀のナイフだった。




