第八十三幕 或る家令の過去(1840年)
メアリー・ラインは気の弱い女性であった。
謙虚さと忍耐強さを美徳と讃える人間にとって、彼女は間違いなく美徳をかねそなえた人間であると言えた。その美貌から、社交界では至上の天使、春に咲く水仙の花と讃えられることも多く、けれど彼女が自分の意思で言葉を発する事は、一度も無かった。
旧姓はメアリー・ハートフォード。家柄は良いものの、変化の波に乗れず没落しつつあるハートフォードの家に、長女として生を受けた。嫁いだ先のラインとは遠縁にあたる。しかし彼女が自らの家名を口にすることは滅多になかった。
「下層階級の人間と親しく接するなど、何て下品な家だ」
そう言われるのは目に見えているからだ。ハートフォードの家は代々医者を輩出してきた。大航海時代から船医として海軍からの覚えも厚く、様々な新天地から齎された莫大な富と、成功に奢る事なく研鑽して来た知識で頭角を現した一族だ。
しかし貴族でありながら医学に携わるなど、貴族にあるまじき愚行である。根深く残った職業の貴賎はメアリーの幼少時代に暗い影を落とした。
人の顔色を伺い、他者の期待に沿うべく生きて来た少女であった。彼女は家の人間ほど誹謗中傷に耐えられる精神的な強さを持っていなかった。
彼女は自分達に向けられる悪意に気づかないよう、無知を装い続けた。
年月を経るごとに、無関心と無知は装いから本物へと変化していった。
彼女は無知で、無垢で、夫の望む夫人へと成長した。それは間違いではない。貴族の家の女はそういう風に作られ、育てられるのを良しとしている。彼女の本質は次第にねじれていった。
彼女と夫の間には、期待していた跡継ぎが生まれなかった。
ただ、それはライン卿にとって期待していた跡継ぎに恵まれなかっただけであり、彼女は二人の優秀な男児をもうけていた。
どちらも容姿端麗、頭脳明晰な子供であった。彼らが成長すればさぞ立派な人材となり、英国に多大な貢献をしていただろう。
長男のジャックは不器用で寡黙だったが、周囲への気遣いを忘れない子供であった。
次男のアーサーは無鉄砲ではあるが口が上手く、人の心の機微を察するのが上手い子供であった。
しかし実際、そうはならなかった。ライン家を継ぐのは末子であるリチャードだ。
何故なら、ジャックもアーサーも存在しないからだ。ジャックは十四の時、アーサーは十一の時、寄宿学校から忽然と姿を消した。
「あの子達の最大の不幸は、私に似てしまったことね」
最初にネリーと会った時、メアリーは虚ろな眼差しで語った。
「どんなに恐ろしくとも信じていたの。あの人が、トマスが、自分の息子にまで手をかけるはず無いって。でも今ならはっきりと言える。あの人は正気じゃない。狂気が回って正気に見えているだけ」
忍耐強く臆病なメアリーも、我慢の限界であった。だからネリーの計画に彼女も一枚噛んだ。例えその先に破滅が待っていようと。
妻と子を奪われた夫、子を奪われた母。二人は同じ痛みを抱え、同じ人物を憎み、これ以上の犠牲者を出さないようにと共犯者関係を結んだ。
今夜呼び出されたのは、恐らく殺されたメイベルの件だとネリーは考えていた。いつも通り鍵の開けられた窓から侵入したが、待ち合わせに使った居間に、メアリーの姿は無かった。
「メアリー様?」
ライン卿は会合で遅い。人気も灯りも無い部屋の中、明々とした暖炉の炎が燃えている。雪が降りそうな、身体の芯まで凍りそうな夜だった。
ネリーの足は暖炉の前で横たわる人影へと向かっていた。
床に倒れていたのはメアリー・ラインであった。普段は結い上げられた細い金細工のような髪を絨毯の上にばら撒いている。濃い緑のドレスからしみ出した、腹部を染めるどす黒い液体と、驚きに見開かれた両の眼を見れば、彼女が既に事切れているのは明白であった。
その前に佇む怒りに燃える、金髪の美しい青年を見た。ネリーが彼の存在を見るのは初めてであったが、メアリーから伝え聞いた話とその面立ちから、間違いなく彼女の息子の内のどちらかであると確信していた。
その傍らには、茫然とした様子の茶髪の幼子がいた。血に塗れ、銀のナイフを握った両の手は、まるでトマス・ラインという男の罪を象徴しているようだった。
「リチャード、何故母さんを殺した?」
問われた子供はオロオロとしたまま青年を見上げた。
「それは、なぞなぞですか? アーサーにいさん」
「こんな時まで、ふざけるのか。お前は」
失望を色濃く固めた翠の眼で、アーサーは相手を見下ろした。
「お前の事だけは、絶対に許さない」
地獄の底を思わせる低い声でそう呟くと、ネリーを一瞥した。彼の怒りはネリーにも向けられていた。
「あんたも同罪だ、ネリー・アッシャー。あんたの復讐に、どうして母さんを巻き込んだ。あんたさえ、あんたさえ居なければ、母さんは死なずに済んだ。だから僕は、お前のことも、許さない。絶対に」
叫んだ拍子に、青年の眼から大きな涙が零れた。彼が震える声で自分の名前を呼んだ事に、ネリーは大して驚かなかった。
「そうです。私が彼女を巻き込んだ。しかし、メアリー様が立ち上がったのは、貴方の為だ。その事をお忘れなきよう。アーサー様」
ネリーは一度言葉を区切った。
「貴方が何故生きているのか。何故今日ここにいらっしゃるか存じません。しかし、早く立ち去ることです。すぐにトマス様の息のかかったものがやって参ります」
アーサーはもう一度、リチャードを睨みつけると足早に窓辺へと近づき、振り向く事なく出て行った。その後ろ姿が庭の暗闇に紛れたのを見送ってから、ネリーは困惑した様子のリチャードへと振り返る。
「リチャード様」
幼子を怖がらせぬよう、優しい声色でネリーは呼びかけた。本来なら、アーサーと同じようにネリーも屋敷から逃げ出すべきであった。しかし、どこかオフィーリアの面影が残る少年を、ネリーは無視する事などできなかった。
今年で六歳になると聞くリチャードの振る舞いや精神性は一見して分かる程未熟だった。善悪は勿論、人の生き死にすら理解できているのか疑わしい。
「あなたはだれ?」
「ネリーです。そのナイフを、此方に渡して頂いてもよろしいですか?」
「いいよ」
少し迷った後、リチャードはナイフをネリーへと手渡した。
次期、ライン家当主となる男児。彼はトマスの教育を色濃く継ぐであろうとネリーは考えた。
メアリーを危険分子と判断し、無意識の内に殺めたのかもしれない。そうだとすれば、この子供を生かしておくのは危険だ。
今ならメアリーの死と結びつけ、強盗の仕業としてリチャードを殺すことができる。そうすれば、ライン卿は大きな痛手を負うだろう。
今しがた生存を確認したアーサーは、書類の上では行方不明となっている。彼がラインの家に戻る可能性は低い。
ライン家を継ぐものが誰一人として、いなくなる。そう考えた瞬間、抗いがたい誘惑がネリーを襲った。




