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奈落の帰還者 ― 黒鎧の門  作者: 山本田38ページ
第4章 誰も燃やさない門
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第48話 雨の駅名

 兜を叩く音がした。


 一つではなかった。細かい音が重なり、肩を濡らし、足元へ落ちた。レンは顔を上げかけて、先に杖を握り直した。


 雨だった。


 灰の臭いがしない。濡れた石と、錆と、知らない草の臭いがした。靴の周りに浅い水が溜まり、輪になった雨粒が重なって消えた。


 右膝が震えていた。


 レンは左足へ重さを移した。左腕は胴へ固定されたまま、指がどこにあるか分からない。痛みまで向こうへ置いてこられたわけではなかった。


 数歩先に、屋根があった。


 柱が三本見えた。屋根の端は欠けていたが、奥の床は雨に濡れていない。そこまでの間に段差がないか、杖先を滑らせて調べた。


 一歩進んだ。


 水の下の石は硬かった。二歩目で杖が継ぎ目に入り、身体が前へ傾いた。右足を急いで出すと膝が痛んだ。止まり、杖を抜き、広い面へ置き直した。


 誰も肩を貸さなかった。


 屋根の下へ辿り着くまでに、二度止まった。


 柱へ右肩を当て、そのまま身体を滑らせて座った。左腕を揺らさないようにするだけで、息が切れた。雨が屋根を叩く音の中で、自分の呼吸がやけに近かった。


 しばらく足元だけを見ていた。


 杖は右手の届く位置へ横にした。膝の外側へ手を当てても、鎧の内側の痛む場所には届かない。ミオなら、動かす前にどこが痛むか聞いただろうと思った。


 手を離した。


 水筒と食料の結び目を右手で探った。濡れていたが、外れてはいなかった。鞘は左腰にある。鉤の先は留めに収まり、索も垂れていない。


 胸の袋には板があった。


 ここまで持ってきた物を確かめてから、レンは振り返った。


 自分が立っていた水溜まりの向こうに、二本の柱があった。上をつなぐ梁は途中で折れていた。その間を雨が真っ直ぐ落ちている。


 薄い面も、輪の灯りも見えなかった。


 奈落の門と同じ形だったかどうか、通った時には見ていない。柱へ戻って調べるには、また膝を使わなければならなかった。


「ガド」


 小さく呼んだ。


 雨音が続いた。


 もう一度呼ぶ代わりに、レンは背を柱へ戻した。向こうへ聞こえる道があるとは限らない。大きな声が、こちらの何かを呼ぶかもしれない。


 点検室の机が思い浮かんだ。三十と書いた紙、受話器、ミオの指。最後に聞いた数字は二十二だったと思う。


 第二炉は通常側へ戻った。防護は維持されていた。他の二基も返事をした。それが、レンの聞けた最後だった。


 その先を確かめることはできなかった。


 彼らなら戻る、と言い切りたくなった。だがガドが人を数える姿を思い出し、レンも今ここにある物を数え直した。


 水。食料。刃の欠けた刀。杖。


 雨を避けられる屋根。


 急いで立つ理由はなかった。


 水筒を膝に挟んで蓋を緩め、少しだけ飲んだ。口元が開く隙間へ冷たい空気が入った。水の味は燈杭で飲んだものだった。


 蓋を閉めると、上の屋根から大きな雫が落ちた。


 顔を上げた先に、細長い板が下がっていた。


 端が傾き、片方の吊り金具だけで支えられている。表面には黒い汚れが走り、白かったらしい塗装が剥がれていた。


 文字がある。


 雨の筋の向こうで、二つの形が見えた。


 水瀬。


 レンは水筒を下ろした。


 昨日、セナへ話した名前だった。紙へ廉と書いた時、濡れたホームの上に浮かんだ駅名だった。


 見間違いかもしれない。


 もう一度、最初の字から見た。縦に引かれた線。横へ分かれる形。次の字の細かい部分は錆で欠けていたが、残った線は読めた。


 水瀬。


 息を吸うと、喉が詰まった。


 帰ったのか。


 声にはならなかった。右手が柱を掴み、身体が勝手に起きようとした。膝の痛みで止まった。


 レンは座り直した。


 駅名だけでは、分からない。


 そう考えることが、今はひどく難しかった。読めた二つの字を手放せば、また何もない場所へ戻るような気がした。


 雨の音を聞いた。


 記憶の雨は屋根を叩き、ホームの縁へ流れていた。足元に黄色い線があり、その向こうを見ていた。誰かが廉と呼んだ。


 今の床にも、剥げた黄色の帯があった。


 そこから先は低くなり、二本の鉄の線が雨に光っている。枕木の間から、色の薄い草が伸びていた。


 似ていた。


 けれど、あの夜のホームには、こんな草があっただろうか。


 レンは線路の先へ目を向けた。


 屋根の切れたところから空が見えた。煤で塞がれた奈落の空より明るい。低い雲の向こうに、もう一本、太い橋のような影があった。


 それは途中で折れていた。


 折れた先が、支えも見えないまま雲の中へ続いていた。遠すぎて浮いているのか、奥に柱があるのか判断できない。下の線路は、その影へ向かって緩く上がり、雨の中へ消えている。


 見覚えはなかった。


 向かいのホームには建物があったが、窓が何層も重なり、上の階ほど外へ張り出していた。入口らしい暗がりの位置も、記憶にはない。


 故郷だと呼ぶには、知らないものが多すぎた。


 それでも、駅の名は同じだった。


 レンは右手で胸の袋を開いた。紐を指へ掛け、板を引き出す。濡らさないよう掌で覆って、刻み目を見る。


 廉。


 セナが一本ずつ確かめた線が残っていた。今ここで目を閉じても、この字の形は分かる。


 駅名の下に、自分の名があった。


 誰かに呼ばれた場所へ、少し近づいたのかもしれない。そう思った。近づいたと確かめるには、この駅がどこにあるのか知らなければならなかった。


 板を袋へ戻した。


 視界に問いかけても、新しい説明は出なかった。なぜこの名前があるのか。ここは元の世界なのか。呼んだのは誰なのか。


 答える声はなかった。


 レンは屋根の下を見渡した。


 柱の向こうに、壁の残った小部屋がある。戸はなく、中は暗い。床には紙のような物が貼りつき、壁に四角い枠が見えた。案内図かもしれなかった。


 そこへ行く前に、周りの音を聞いた。


 雨。雫。どこかで軋む金属。


 足音は分からない。人がいない証拠にはならなかった。奈落の静刻がここにもあるのか、それさえ知らない。


 レンは食料を少しだけ口へ入れた。急いで飲み込まず、噛んで水を足した。包み直した結び目は不格好だったが、落ちなければよかった。


 膝の震えが収まるのを待った。


 次はあの柱まで。その先は、着いてから見る。


 杖を立て、右手で身体を支えた。途中で左腕が持ち上がりそうになり、添えが止めた。頼ってはいけない方の手を忘れずに、足を揃える。


 立てた。


 駅名の板が風で揺れた。白い面を雨が洗い、文字の下へ黒い雫が落ちる。


 レンは最後にもう一度読んだ。


 水瀬。


 もう、思い出の中だけにある名前ではなかった。


 杖先で次の石を確かめた。右足を出し、左足を寄せる。誰かに急げと言われたわけではない。帰る道を探すために、自分で次の一歩を選んだ。


 雨は降り続いていた。


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