第48話 雨の駅名
兜を叩く音がした。
一つではなかった。細かい音が重なり、肩を濡らし、足元へ落ちた。レンは顔を上げかけて、先に杖を握り直した。
雨だった。
灰の臭いがしない。濡れた石と、錆と、知らない草の臭いがした。靴の周りに浅い水が溜まり、輪になった雨粒が重なって消えた。
右膝が震えていた。
レンは左足へ重さを移した。左腕は胴へ固定されたまま、指がどこにあるか分からない。痛みまで向こうへ置いてこられたわけではなかった。
数歩先に、屋根があった。
柱が三本見えた。屋根の端は欠けていたが、奥の床は雨に濡れていない。そこまでの間に段差がないか、杖先を滑らせて調べた。
一歩進んだ。
水の下の石は硬かった。二歩目で杖が継ぎ目に入り、身体が前へ傾いた。右足を急いで出すと膝が痛んだ。止まり、杖を抜き、広い面へ置き直した。
誰も肩を貸さなかった。
屋根の下へ辿り着くまでに、二度止まった。
柱へ右肩を当て、そのまま身体を滑らせて座った。左腕を揺らさないようにするだけで、息が切れた。雨が屋根を叩く音の中で、自分の呼吸がやけに近かった。
しばらく足元だけを見ていた。
杖は右手の届く位置へ横にした。膝の外側へ手を当てても、鎧の内側の痛む場所には届かない。ミオなら、動かす前にどこが痛むか聞いただろうと思った。
手を離した。
水筒と食料の結び目を右手で探った。濡れていたが、外れてはいなかった。鞘は左腰にある。鉤の先は留めに収まり、索も垂れていない。
胸の袋には板があった。
ここまで持ってきた物を確かめてから、レンは振り返った。
自分が立っていた水溜まりの向こうに、二本の柱があった。上をつなぐ梁は途中で折れていた。その間を雨が真っ直ぐ落ちている。
薄い面も、輪の灯りも見えなかった。
奈落の門と同じ形だったかどうか、通った時には見ていない。柱へ戻って調べるには、また膝を使わなければならなかった。
「ガド」
小さく呼んだ。
雨音が続いた。
もう一度呼ぶ代わりに、レンは背を柱へ戻した。向こうへ聞こえる道があるとは限らない。大きな声が、こちらの何かを呼ぶかもしれない。
点検室の机が思い浮かんだ。三十と書いた紙、受話器、ミオの指。最後に聞いた数字は二十二だったと思う。
第二炉は通常側へ戻った。防護は維持されていた。他の二基も返事をした。それが、レンの聞けた最後だった。
その先を確かめることはできなかった。
彼らなら戻る、と言い切りたくなった。だがガドが人を数える姿を思い出し、レンも今ここにある物を数え直した。
水。食料。刃の欠けた刀。杖。
雨を避けられる屋根。
急いで立つ理由はなかった。
水筒を膝に挟んで蓋を緩め、少しだけ飲んだ。口元が開く隙間へ冷たい空気が入った。水の味は燈杭で飲んだものだった。
蓋を閉めると、上の屋根から大きな雫が落ちた。
顔を上げた先に、細長い板が下がっていた。
端が傾き、片方の吊り金具だけで支えられている。表面には黒い汚れが走り、白かったらしい塗装が剥がれていた。
文字がある。
雨の筋の向こうで、二つの形が見えた。
水瀬。
レンは水筒を下ろした。
昨日、セナへ話した名前だった。紙へ廉と書いた時、濡れたホームの上に浮かんだ駅名だった。
見間違いかもしれない。
もう一度、最初の字から見た。縦に引かれた線。横へ分かれる形。次の字の細かい部分は錆で欠けていたが、残った線は読めた。
水瀬。
息を吸うと、喉が詰まった。
帰ったのか。
声にはならなかった。右手が柱を掴み、身体が勝手に起きようとした。膝の痛みで止まった。
レンは座り直した。
駅名だけでは、分からない。
そう考えることが、今はひどく難しかった。読めた二つの字を手放せば、また何もない場所へ戻るような気がした。
雨の音を聞いた。
記憶の雨は屋根を叩き、ホームの縁へ流れていた。足元に黄色い線があり、その向こうを見ていた。誰かが廉と呼んだ。
今の床にも、剥げた黄色の帯があった。
そこから先は低くなり、二本の鉄の線が雨に光っている。枕木の間から、色の薄い草が伸びていた。
似ていた。
けれど、あの夜のホームには、こんな草があっただろうか。
レンは線路の先へ目を向けた。
屋根の切れたところから空が見えた。煤で塞がれた奈落の空より明るい。低い雲の向こうに、もう一本、太い橋のような影があった。
それは途中で折れていた。
折れた先が、支えも見えないまま雲の中へ続いていた。遠すぎて浮いているのか、奥に柱があるのか判断できない。下の線路は、その影へ向かって緩く上がり、雨の中へ消えている。
見覚えはなかった。
向かいのホームには建物があったが、窓が何層も重なり、上の階ほど外へ張り出していた。入口らしい暗がりの位置も、記憶にはない。
故郷だと呼ぶには、知らないものが多すぎた。
それでも、駅の名は同じだった。
レンは右手で胸の袋を開いた。紐を指へ掛け、板を引き出す。濡らさないよう掌で覆って、刻み目を見る。
廉。
セナが一本ずつ確かめた線が残っていた。今ここで目を閉じても、この字の形は分かる。
駅名の下に、自分の名があった。
誰かに呼ばれた場所へ、少し近づいたのかもしれない。そう思った。近づいたと確かめるには、この駅がどこにあるのか知らなければならなかった。
板を袋へ戻した。
視界に問いかけても、新しい説明は出なかった。なぜこの名前があるのか。ここは元の世界なのか。呼んだのは誰なのか。
答える声はなかった。
レンは屋根の下を見渡した。
柱の向こうに、壁の残った小部屋がある。戸はなく、中は暗い。床には紙のような物が貼りつき、壁に四角い枠が見えた。案内図かもしれなかった。
そこへ行く前に、周りの音を聞いた。
雨。雫。どこかで軋む金属。
足音は分からない。人がいない証拠にはならなかった。奈落の静刻がここにもあるのか、それさえ知らない。
レンは食料を少しだけ口へ入れた。急いで飲み込まず、噛んで水を足した。包み直した結び目は不格好だったが、落ちなければよかった。
膝の震えが収まるのを待った。
次はあの柱まで。その先は、着いてから見る。
杖を立て、右手で身体を支えた。途中で左腕が持ち上がりそうになり、添えが止めた。頼ってはいけない方の手を忘れずに、足を揃える。
立てた。
駅名の板が風で揺れた。白い面を雨が洗い、文字の下へ黒い雫が落ちる。
レンは最後にもう一度読んだ。
水瀬。
もう、思い出の中だけにある名前ではなかった。
杖先で次の石を確かめた。右足を出し、左足を寄せる。誰かに急げと言われたわけではない。帰る道を探すために、自分で次の一歩を選んだ。
雨は降り続いていた。




