8 辺境の山頂(最終組手)
朝焼けが、雲海を赤く染めていた。
辺境の山頂。切り立った岩場の上に、二人の剣士が向かい合っている。足元は切り立った崖で、一歩踏み外せば百尺の谷底だ。
グレイと、ダグラス。
師弟は、無言で対峙していた。
風が吹いた。岩場の端に生えた枯れ木から、木の葉が一枚、剥がれ落ちた。
葉が地面に触れた——その瞬間、二人が動いた。
音はなかった。
踏み込みの音すら消えていた。岩を蹴る足が空気を切り、二つの影が交差した。
鉄剣と鉄剣が交わった。だが——金属がぶつかる音は鳴らなかった。
代わりに聞こえたのは、空気が高速で切り裂かれる、鋭い悲鳴のような高音。
ダグラスの横薙ぎが、山頂の岩を削った。刃が通過した軌道に沿って、岩の表面が紙を裂くように剥がれ落ちた。
グレイはそれを——避けなかった。
師匠の剣の軌道に、自身の剣を沿わせた。逆らわず、受け止めず。刃が描く弧に自分の刃を重ね、力の流れの中に滑り込む。
ダグラスの目が光った。
連撃。上段から振り下ろし、そのまま切り返して横薙ぎ、さらに突き。三連撃が、人間の目では追えない速度でグレイを襲った。
グレイは全てを捌いた。
剣が剣に触れるたびに、高音が鳴る。空気が切り裂かれる音だけが、朝焼けの山頂に響いた。
最後の突きを、グレイの剣が横から払った。払った勢いのまま、体を回転させ——首筋に、切っ先を寸止めした。
朝日が、二人を照らした。
ダグラスの首筋から、指一本分の距離に、グレイの鉄剣が止まっていた。
静寂。
ダグラスが、息を吐いた。
「……届いたか」
低い声。どこか——寂しそうな。
剣を下ろし、グレイの顔を見た。老いた顔に、微かな笑みが浮かんだ。
「お前はもう、空でも斬れるだろうよ」
グレイは剣を引いた。言葉が出なかった。
「下山しろ、グレイ」
ダグラスは背を向けた。雲海を見下ろし、朝日に目を細めた。
「儂が教えることは、もう何もない」
◇
辺境の村の広場に、血相を変えた行商人が駆け込んできた。
「大変だ——! 王国軍が——全滅する——!」
グレイは、村の井戸の傍に立っていた。ダグラスから免許皆伝を受け、山を下りてきたところだった。背中には分厚い鉄剣を背負い、使い込まれた旅装を纏っている。
行商人は息を切らしながら、途切れ途切れに状況を伝えた。
王国の平原で、大魔族が結界を張った。魔力が一切使えなくなる結界。騎士たちの魔剣が全て鉄くずになり、一方的に殺されている。このままでは——国が滅ぶ。
村人たちがざわめいた。恐怖に顔を青ざめさせる者、泣き出す子供。
グレイは、黙って聞いていた。
魔力が使えない結界。
つまり——魔剣が無力化される空間。
かつて自分を追放した連中。「素振りしかできない案山子」と嘲笑した者たち。
救う義理は——あるだろうか。
グレイは空を見上げた。遠く、王都の方角の空だけが、不自然な暗闘に覆われている。
怒りはなかった。復讐心もなかった。使命感すら、明確にはなかった。
ただ——一つだけ、考えた。
「魔力が使えないなら——俺の得意分野だな」
淡々と。まるで天気の話をするように。
村人たちに向き直った。
「留守を頼む」
それだけ言って、背中の鉄剣を確かめた。ヒビ一つない、使い込まれた分厚い刃。ダグラスから渡された、魔力を一切帯びない、ただの鉄の塊。
歩き出した。
王都の方角へ。一人で。鉄剣一本を背負って。




