五里霧中
男は街頭にぼんやりと立っていた。石造りの街並み。荷車に積まれた巨大な猪。その横を、戦果を誇るように胸を張って歩く弓を背負った狩人たち。
初めて見るはずなのに、どこか懐かしい風景だった。
「参ったな……自分が誰かも分からん」
記憶を丸ごと失っていると気づいた瞬間は軽くパニックになったが、腹が据わっているのか、ただの脳天気なのか、男は頭を掻きながら呟いた。
「とりあえず、ここはどこなんだ?」
露店の店主に声をかけようと歩み寄る。しかし、店主はまったく反応しない。
「おい」
身を乗り出した瞬間、違和感が走った。
男の足は野菜の並んだ籠の中に突っ込んでいるのに、感触がない。
「は?なんだこれは……幻か?」
周囲を見回し、近くの壁に手を押し当てる。
手は石をすり抜け、男は前のめりに転んだ。
「痛くない……でも地面はある」
気恥ずかしさから素早く立ち上がると、そこは雑貨屋の店内だった。
どうやら壁そのものが幻だったらしい。
「なんにせよ気持ち悪い夢だな。さっさと起きろ俺……」
自分の名前すら出てこない。考え込んでいると、雑貨屋の客が男の体をすり抜けていった。
「……一体どうなってんだ?」
男は店を飛び出し、街路を駆け回って異常の原因を探したが、答えはどこにもなかった。
「不味いぞ。怪異なら、この後俺は死ぬんじゃないか?」
突拍子もない物言いだが、説明のつかない現象だらけのこの世界では、怪異のせいにでもして理解したつもりにならないと、その先の考えが浮かばないのだろう。
「畜生……どうするかな。そうだ、こういう時こそ神頼みだ。大丈夫だ、俺はやれる」
怪異といえば神様。そんな短絡的な理屈にすがりながら、男は教会を探そうと街路を歩き出した。
すると、知らない街にも関わらず、まるで足だけが覚えているかのように導かれ、自然と教会へ辿り着いた。
「ますます、変なことになってきたなあ」
男は無意識に、扉を開けようと踏み出すと、素通りして中に入ってしまい、慌てて手足が無事なのかを確認し始めたが、理解を諦めたのか、男は、ふわふわとした足取りで通路を進み、聖堂に入る。
「お祈りに来たのですが、宜しいでしょうか」
だが、祈りを捧げる老人も、掃除をする修道士も、誰一人として男に気づかない。
試しに壁の装飾に触れようとするが、手は石をすり抜けた。
さらに祭壇の聖書を開こうとしても、触れることはできず、新たな違和感に気付いた。
「あれ、文字も読めないのか?」
聖書の文字がぼやけて読めない。胸の奥がざわつき始める。
―世界が幻なのか、自分が幻なのか。
覚めない夢の中に閉じ込められたようで、男は激しく混乱した。
「どっちが本物なんだ……この世界が夢で、俺が寝てるのか。それとも俺が……」
頭を抱え、祭壇の前でへたり込んだその時、柔らかな温かみを感じて、続けて、声が降ってきた。
『ああ、可哀想に』
振り返ると、祭壇の上に淡い光をまとった女性が浮かんでいた。
白銀の髪、透き通る白い衣、そして翼。
まるで絵画から抜け出したような美しさだった。
「おお!天使様でしょうか。やはり持つべきものは信心なのですね」
祈ってすらいないのに図々しいことを吐く男は、夢だと決めた様子で、軽口で平静を保とうとし、天使はそれを哀れむような目で見守っている。
『戸惑っているようですが、あなたは死にました』
澄み渡る声で告げられたのは、あまりに無慈悲な事実だった。
「嘘!どうやって?」
『さあ? たまたま見かけただけのあなたのことは何もわかりません』
「ええ…頼りない天使様だな。すると、これは夢じゃないのか…って死んだの!?」
天使は男が落ち着くのを待ち、静かに語った。
『きっとあなたにはやり残したことがあったのでしょう。それを見つけるまでは天界の門は開きません』
「だ、だけど俺には記憶がない、見つけようがないですよ!」
『少しはあるはずです。落ち着いて最後の言葉を思い出してみてください』
「言葉……?」
霧のような記憶の奥底から、ひび割れた自分の声が浮かび上がる。
「この戦いが終わったら……ダメだ、それしか思い出せない」
天使は深くため息をついた。
『なんということでしょう、よりによって最後にそれを口にするとは』
「そんなこと言われても」
『あなたを縛るのは未練。別の世界で“死亡フラグ”と呼ばれる禁忌の呪詛なのです』
「しぼ……別の世界? よく分からないのですが、助けてください、お願いします」
『困りましたね。助けようにも未練があっては無理なのです。ただ、捨てるにも記憶がなくてはままならない。ならば見つけるために、ほんの少し世界に干渉する力を授けましょう』
「ありがたい。それで、どんな力でしょうか」
『念じれば物を動かせる力。ただし、身につける努力は必要です』
「努力すれば岩を動かしたりできるのですか?」
『いえ、生前のあなたが手足でできることに限られます』
「思ってた以上に、頼りない力ですね……まあいい。世界と全くつながっていないのは、生きた心地がしないし」
『あなたは死んでいます』
「そうでした。実感がなくてつい……てか傷つく言い方ですよそれ」
『ごめんなさい。それはそうと、力には使命がついて回ります』
「使命、ですか?」
『あなた同様に死亡フラグ――いえ、呪詛を吐いた人を救う使命です。うまくいけば記憶の欠片が手に入るでしょう』
「いわゆる神の試練というやつか」
『はい。無償で力を与えることは禁じられているので、私が今考えました』
「今考えたって……断ったら?」
『未練が果たされるまで永遠にそのままというだけです』
「……」
『さあ、どうしますか?』
天使は早く決めて欲しそうだった。
男は短く息を吐き、そして覚悟を決めた。
「いいでしょう。力を授けてください」
天使は、力の使い方の基礎を説明し、使命は時がくれば分かるとだけ告げた。
男はあれこれと質問を始めたが、天使は首を振るだけで何も答えず、男は降参した。
『ご承諾ありがとうございます。これより力を与えます』
天使は優しく微笑み、男の頬にそっと口づけをした。
その温もりは不思議なほど柔らかく、淡い光が男の体に染み込んでいく。
『使命を果たしなさい。――ポルターガイストさん』
天使の姿は光とともに霧散し、教会は再び静寂に包まれた。男は頬を触り、自分が少しだけ特別な存在になれたと前向きに解釈し、小さく笑った。
「……ポルターなんとか……それも別の世界のなにかかな。よし、今から俺はポルターだ」
続




