77話 顕現の刻
トクタールは目を細め、数歩先で刃物を手に対峙する大男を睨みつけた。
目の前の無礼な輩には見覚えがない。だが、どこか見覚えがあるようにも思える。長年培ってきた戦闘の勘が、この老将にすぐさま動くことを許さなかった。神経を張り詰めさせ、周囲に漂う異様な兆候を素早く視界へと収めていく。
――奇妙な曲線を描きながら滑り落ちていく、まるで透明な壁に阻まれたかのような氷の欠片。
――死者も同然であるはずなのに、何事もなく立っているカンガルの青年と、ディユ家の狂女。
――大男の目立つ体躯にほとんど隠されるようにして、その足元に寄り添う銀髪紫眼の幼女――
トクタールは息を詰まらせた。
「まさか……!」
「ははは、もう逃げ場はないぞ!さっさとメルバノを引き渡せ!」
何ひとつ異変に気づいていないファロクが、声を上げて笑った。欲望に満ちたあからさまな視線が真っ直ぐメルバノへと向けられる。その様は、まるで戦利品を愛でる収集家そのものだった。
その視線を浴びた当人は、吐き気を催すほどの嫌悪を覚え、怒りに歪んだ表情を隠すため俯いて口元を手で覆った。震える両肩は周囲の者たちから恐怖によるものと受け取られ、皆がファロクを睨みつける。三人の王室の女たちはさらに素早く駆け寄ると彼女を取り囲み、その姿をファロクの視線から完全に遮った。
……ただし、ウスタドだけは少し反応が違った。その視線には、こんな状況でもなお体面を気にせざるを得ないメルバノへの呆れと、あのクズに直接怒りをぶつけることすらできない彼女への同情が、半分ずつ入り混じっていた。
「お姫ちゃん、俺の動きに合わせてくれ。」
「うん!」
――踏み込み、突進。
一瞬のうちに、ブエンビの刃先がなおも笑みを浮かべるファロクへと迫った。
「させるか!」
トクタールはほぼ同時に腰の短刀を抜き放った。彼の目には、相手の突進はあまりにも一つの標的に偏りすぎており、隙だらけに映っていた。鋭い刃が手首を狙う。可愛い孫を傷つけようとしたその手を、斬り落とすつもりだった――
「!?」
指先へ伝わった震動に、トクタールは愕然とした。斬撃は見えない障壁にぶつかり、本来なら大男へ届くはずだった刃を阻んでいる。この奇妙な受け止められ方に、彼はすぐさま、あの憎き学者が張り巡らせていた結界を連想した。
驚きと怒りに駆られたトクタールは、視線の端でその場から動いていないリフを捉えた。その幼い顔には、恐怖も緊張も微塵もない。それどころか、目の前の光景に全神経を集中させているかのような、真剣で厳かな表情を浮かべていた。
その瞬間、トクタールは胸中に抱いていた疑念を確信した。
だが、ブエンビの長刀はすでに標的へ向かって振り抜かれていた。
「うわあっ!?」
ファロクが手にしていた奇妙な像――氷壁の封印を破壊するための「古代遺物」が、真っ二つに断ち割られた。
彼が慌てて仰向けに倒れ込むより早く、凶悪な拳風を伴った一撃が顔面を正面から捉え、その身体を吹き飛ばした。
空中で手足をめちゃくちゃに振り回す人影は、後方の兵士たちや破れた紗幕、壁柱を一直線に飛び越えていく。そして何ひとつ緩衝となるものを掴めぬまま宴会場の壁へと激突し、悲鳴とともに無数の砂埃が舞い上がった。
砂埃が晴れると、そこには瀕死の金髪の青年が、ゆっくりと地面へ滑り落ちる姿があった。反対方向へ折れ曲がった手足は力なく垂れ下がり、まるで壊れてしまった関節人形のようだった。
「ファ、ファロク!ファロク――――――!!」
「将軍!」
孫の惨状に心を引き裂かれたトクタールは、短刀を投げ捨ててそのまま後方へ駆け出した。数名の側近たちが慌てて刀を拾い、その後を追う。一方、他の将校や兵士たちは目の前の大男へ武器を向けた。
「狙撃手!狙いを――ぐあっ!?」
号令を下した将校が苦痛に顔を歪め、その場に膝をついた。震える右手を掲げると、赤熱した長針が手のひらを貫いている。そこから漂う肉の焼ける香ばしい臭いが、彼の吐き気を誘った。
「銃を持った坊主ども、手を出す前によーく考えたほうがいいぞ!こいつらは随分とお転婆でな、次は誰かの眼球に潜り込むかもしれんぞ!」
凶悪な笑みを浮かべたショルパンが大股で前へ進み、右手を大仰に突き出した。開いた掌には、同じく真っ赤に焼けた、ムビナが丹念に鍛え上げた特製の長針が数本浮かんでいる。
炎に炙られた熱気によって揺らめきながら浮遊しているように見えるが、実際には、風を浮力として操るナスリンとファリバが後方に気配を隠し、遠くの兵士たちを絶えず監視していた。
「ぐっ……ショルパン・ディユ!お前は将軍に右腕を斬り落とされたはずだろう!」
「ふん、この婆さんはしぶとくてねぇ!だが、お前らにはそんな運があるかね?トクタールのあの野郎は、いったい何人分の眼球を買えると思う?」
「そんな低俗な揺さぶりに乗るものか!将軍は誰一人見捨てたりしない!」
将校は負けじと言い返した。しかし、後方の兵士たちの表情には、すでに動揺の色が浮かび始めていた。何しろ、トクタールに付き従ってここまで来た者たちは、決して経験の浅い新兵などではないね。
彼らは戦場で手足を失った戦友たちを幾度となく目にしてきたばかりか、地下市場における再生薬の相場にも精通している。目の見えなくなった兵士への年金を支払うだけなら、ハミド家の財力をもってすれば造作もない。
だが、失われた光を彼らに取り戻せるかどうかとなれば……それは、信頼を揺るがすほどに重い現実の壁だったよ。
「役立たずめ!下がれ!」
別の年嵩の将校が負傷者を乱暴に後方へ引きずり、殺気立った様子で腰の佩刀を抜き放った。
「お前たちの企みは見抜いている!物陰に隠れた風術師が数人、細工をしているだけで優位に立ったつもりか?笑わせるな!どれだけ役立たずを集めようとも、将軍に選ばれたこの逸材には勝てん!」
言葉が終わるや否や、烈風に巻き上げられた赤熱した長針が数本、その将校へ向かって飛来した。しかし、攻撃は少し離れたところで巻き起こった暴風に絡め取られ、そのまま刀の一振りで叩き落とされた。
曲がり、折れた長針の残骸を見下ろし、将校の顔に浮かぶ笑みがいっそう嘲笑的なものへ変わる。
「見ろ、恐れるに足りん!近接部隊、俺に続け!姫以外は皆殺し――」
――刀光が閃いた。
将校は刀を振り上げて攻撃する姿勢のまま、その場で静止した。
右手が佩刀とともに地面へ落ち、ガランと音を立てる。その直後、ブエンビとリフの前へ転がってきた首は、なおも怒り狂ったように顎を何度も開閉していた。ブエンビはそれを一蹴し、視界の外へと蹴り飛ばした。
首を失った死体が倒れると、ブエンビもまた一歩前へ踏み出した。
長刀を身体の脇へ垂らしたその無造作な立ち姿には、殺気など微塵もない。それでも兵士たちは、思わず後ずさった。
「先に言っておく。お前らは全員、俺の『仕事相手』だ。近づいたら死ぬ。」
「我々を『仕事相手』だと?そんな品のない言い方をするとは、急遽雇われた護衛の傭兵か……!」
応急処置を終えた負傷した将校が、歯を食いしばりながら前へ出て、ブエンビを睨みつけた。
「雇い主からいくらもらっている?将軍なら倍額、それどころかもっと有利な条件を提示できる!よく考えるんだな。どちら側につけばより確実に生き残れるか、間違えるなよ!」
「ああ――俺の言い方じゃ、確かに誤解を招くな。大事なことを一つ付け加えておこう。」
ブエンビはその場にいる将校と兵士たちを見回し、それから目を細めた。
「俺に命を奪うことを許された『仕事相手』は、罪人に限られる。そして、お前らは全員、その条件を満たしている。」
「罪人だと!?貴様、思い上がるにもほどがある!」
「トクタール・ハミドが与えた、いろんな口実は便利だったろうな。ミクアンと繋がりを持ち、メンナ諸島から技術を密輸し、軍隊として操れる翼竜を育てる。どれも長い年月をかけて積み重ねる必要のある反乱計画だ。だが、『可哀想な坊ちゃんの願いを叶えるため』、『将軍に忠誠を尽くすため』、『国家の予備戦力を強化するため』――そんな大義名分を掲げれば、私欲を追い求めても心を痛めずに済む。」
「な……」
「形あるものへの欲、形なきものへの嫉妬、そして他者を踏みにじることで得られる優越感と満足感。それがお前らをここまで駆り立てた原動力だ。お前らもトクタール・ハミドと同じように、『大義名分』で私欲を覆い隠している。だが、そんなものはただの徒労だ。」
「出鱈目を言うな!我々は――」
「アルティク。サルガドンの、とある商家の四男。両親と兄弟は、商売の旅の途中で砂嵐と魔獣の襲撃に遭い、命を落とした。その後、軍に入ることを選んだお前にトクタールが目をつけ、三勢力の間を取り持つ交渉役を任せた。お前は資源と技術の調達に成功し、チラント翼竜の大規模な人工繁殖と改造研究を実現させた。」
若い将校の顔から、みるみる血の気が引いていった。
「お、お前……何を言って……」
「あそこで身体だけが残っているアザマトは、あらゆる汚れ仕事を専門にしている。ファロク・ハミドの悪事への加担や犯罪証拠の隠滅だけじゃない。魔獣襲撃による死者の名簿を『調整』し、臓器売買に利用する商隊や旅人を集める役目も担っていた。お前は彼のために隣国の闇市場との取引経路を取り持ち、利益の五分の一を報酬として受け取り、残りの金をハミド家へ秘密計画の資金として渡していた。」
今度こそ、その場にいた全員の顔色が変わった。フェレドゥンは、怒りに駆られて今にも飛び出しそうなレザを押し留め、全身を震わせるアルティクを冷たく見つめた。
ハミド家を数年にわたって調査してきた彼らは、この将校が密輸と巨額の横領に関わっている証拠をすでに掴んでいた。だが、密輸していた「商品」に、まさかこれほどの真実が隠されていたとは思いもしなかった。
そして、何よりも耐え難いのは……ハミド家の当主であるトクタールが、それを何も知らなかったはずがないということだった。
フェレドゥンは密かにため息をついた。父の代から続いてきた情誼を断ち切る決意を固めるのが、あまりにも遅かったことを悔やみながら。同時に、ほど近い場所に立つ、あの屈強な背中へ向ける視線には、懐かしさが滲んでいた。
雄大な体躯を誇る巨人、死の神の使者――それこそが、伝説に語られる姿そのものだった。事態が最悪のところまで進んでしまったとはいえ、ウルクイ王室の守護神が真の姿を現すところを目にできたことは、むしろ彼の胸に希望を満たしていた。
「黙れ、スリの悪魔め!!権力者という飼い主を見つけたからといって、調子に乗るな!!」
張りのある怒鳴り声が、その場にいる全員の注意を一瞬で引きつけた。怒り心頭のトクタールが足早にこちらへ歩いてくる。その後ろでは、側近たちが左右から、まだ少し足を引きずっているファロクを支えていた。
「顔を変えたところで、その体つきは隠せん!よくもまた私の孫を傷つけたな……お前も、その背後にいる憎き飼い主も、決して許さん!」
「そんな嫌な言い方で『飼い主』なんて呼ぶあなたのほうが許せないよ!変な口実をでっち上げて、私とブエンビを中傷したのもあなたでしょう!」
積み重なった昔の恨みに新たな怒りまで加わり、リフの怒気は一気に限界へ達した。大股で前へ出て、トクタールを指差しながら言い返す。
だが、ブエンビはすぐさましゃがみ込み、呆れたようにその高々と突きつけられた指を押し下げた。
「近くでもう一度見れば、やはり間違いない!あの世にも珍しい紫の瞳は、二十年前、浮界大議会で見た『ケルレイティン』とまったく同じだ!お前は間違いなく、噂に聞く天族の姫だ!学者『ナセル』というのは、ただの偽装だったのだな!」
「えっ、本当に?えへへ……それって、わたしが一目でパパの娘だって分かるってことだよね……」
激しい糾弾を受けたはずのリフは、怒りから一転して嬉しそうになり、恥ずかしそうにブエンビの外套を引き寄せて顔を隠した。
その光景を目にしたトクタールは、血が頭へ上るほど激昂した。その両端では、それぞれ見た目こそ似ていながら、意味するところが正反対の物理現象が生じていた。
「ふざけるな!!天族は我々に守るよう様々な規則を定めているというのに、その姫が率先して規則を破るだと!?これは明らかな人間国家の内政への干渉行為だ!今すぐウルクイから出ていけ!さもなくば、ルサナティに抗議するだけではない、お前の横暴な行いを他国にも公表してやる!天族の信用は、お前のせいで地に落ちるぞ!」
「私は派遣された天族じゃないもん!それに、悪いことをしてるのはあなたでしょう!」
「そんな理由で言い逃れするとは、恥知らずにもほどがある!皆もよく聞け、外見に惑わされるな!天族は外見も年齢も自由に変えられるのだ。この者は幼子の皮を被った老いたる怪物にすぎん!」
「失礼すぎるよ!!わたし、まだ未成年なんだからね!!!」
……ついさっきゼロまで下がった怒気が、また振り切れてしまったようだね。リフが本当にトクタールへ殴りかかるのを防ぐため、ブエンビは仕方なく彼女をしっかり抱きかかえ、その体格差を利用してリフの動きを封じるのだった。
「――お前は根本から勘違いしている、トクタール・ハミド。天族の姫は、ウルクイの内政に介入してなどいない。」
フェレドゥンが音もなく、ゆっくりと前へ歩み出た。相手からフルネームで呼ばれたことに、トクタールは一瞬呆気に取られたものの、すぐに鼻で笑った。
「最低限の敬意すらなくなったか、フェレドゥン。忘れるなよ。こうなったのは、すべてお前たちのせいだ。大人しく王権をファロクに譲れば、王族の命だけは助けてやる。」
フェレドゥンは険しい表情を浮かべるトクタールを一瞥し、すぐに視線を逸らした。
狂気に陥り、反省の色すらない老人と交わす言葉はもうない。今この時、彼が果たさなければならないのは、ウルクイ国王としての責務だった。
「私が天族の姫に依頼したのは、負傷者の治療だけです。しかし、彼女の傍らにいるブエンビ様は、ウルクイと浅からぬ縁を持つお方。この内乱に介入するに十分な資格があります。」
「ふん、戯言ばかりだ。ウルクイの民なら誰もが知っている。スリ一族こそ、悪魔の象徴だ!隠されていた黄金碑文など、何の証明にもならん。そもそも最初から、天族の姫が偽造した証拠かもしれんぞ!」
「私、そんなことしてないもん!ファルザドの想いまで偽物だなんて言うなんて、絶対に許さない!!」
「リフ様、ブエンビ様。」
落ち着いた声が、再び怒りに燃え上がろうとするリフを絶妙なところで制した。
二人が同時に振り向くと、そこには静かな表情があった。すべての感情が、あまりにも澄み切った灰色の瞳の中へ凝縮されている。
その視線が自分へ向けられていることに気づき、ブエンビはわずかに面食らった。
「フェレドゥン、お前……」
「ハミド家は、もはや許されるものではありません。ウルクイは、すでに堕ちてしまった縁を断ち切らなければならない。ブエンビ様――どうか、この救いようのない罪人たちを裁いてください。ファルザド王が遺した意志を、これ以上穢させないために。」
衣擦れの音が響いた。
フェレドゥンは両膝、両手、額、そして鼻先までも地面にぴたりとつけ、前方へ伏して礼を捧げた。
その姿勢が、先ほどのブエンビと少し似ているように思えたリフが首を傾げた。その直後、周囲から無数の息を呑む音が響き渡った。
「なに!?お前、正気か、フェレドゥン!?」
驚愕のあまり叫び声を上げたトクタールを見て、リフの頭上には無数の疑問符が浮かんだ。いつものようにブエンビの外套を引っ張り、答えを求める。
……しかし、今のブエンビには謎解きをしている暇などなかった。ひそかに鎖を駆動させ、胸の奥で絶え間なく巻き起こる荒波のような動揺を、必死に押し留めていたからだ。
大荒漠に暮らす砂漠の民にとって、それは人に対して行う礼ではない。太陽と月の像、あるいは死の神の像を崇める時だけ、このような叩拝の礼をもって祈りを捧げる。だが、フェレドゥンが崇めている対象は「天族の姫」ではない。「ブエンビ」なのだ。
しかも、これは形だけの礼ではなかった。そこに込められた敬意と崇拝の念は、日月神殿で祈りを捧げる信徒たちのものと、もはや何ひとつ変わらない。
だから――ここまで来てしまった以上、どれほどブエンビが望まなくとも、彼は決意するしかなかった。
彼は司刑の権能を動かし、フェレドゥンがこれまで歩んできた人生を読み取ろうとした――
「――おじい様、なんでぼさっと突っ立ってるんだよ!奴らに時間稼ぎをさせるな、あのスリの悪魔をさっさと殺せばいいだろ!」
恨みのこもった顔で、ファロクは左右から支えていた手を振り払い、右足を引きずりながら前へ進んだ。トクタールは慌てて歩み寄り、孫の肩を慎重に支える。
「すまんな、ファロク!もう少しだけ爺さんを待ってくれ。まずは天族の姫の問題を片付けなければ……」
「邪魔をしているのは天族だ、ならばなおさら許せない!天族は運命や未来を見通せるんだろう?それなのに、このガキはスリの悪魔を連れ回して好き勝手に暴れ、俺とメルバノの運命の縁を引き裂こうとしている!少しでも恥を知っているなら、手下に自害させて詫びさせるべきだ!」
得意げに言い放ったファロクは、周囲が言葉を失った反応を自分への畏敬だと受け取り、当然のように目の前の者たちが謝罪するのを待った。
一方、リフの反応はというと……無意識にブエンビの胸元へ身を寄せ、その屈強な身体を盾にする。
「ブエンビ……なんだか、チャルを百杯も飲んだような気分……」
「……お姫ちゃん、俺の後ろに隠れていろ。フェレドゥンも、他の者たちと一緒に戻っていろ。ここは危険だ。」
「はい、ブエンビ様。」
頭を下げた姿勢のまま後退していくフェレドゥンを見つめ、ブエンビの胸中には複雑な感情が渦巻いた。
その後、彼は素早く立ち上がり、リフが身を隠せるだけの十分な空間を空ける。
「何だと、俺様を無視するのか!?やはりスリの悪魔は下賤な奴だな。骨の髄まで先祖の野蛮さを受け継いでやがる!」
「他人から何を罵られようと、俺は気にしない。だが、ニューバウの顔に泥を塗り続けることだけは許せない。彼は『運命』などという口実で女に付きまとうような真似は絶対にしない。お前のように、言動のどこにも品格がない男でもない。」
ブエンビは刀の柄を強く握り締めた。その身から放たれた威圧感に、ファロクは一瞬身を竦ませる。だが、目の前に立ちはだかるトクタールが十分な安心感を与えてくれるのか、すぐに先ほどの尊大な態度を取り戻した。
「はっ!奇襲しか能のない奴め、同じ手がおじい様に通用すると思うな!あのガキも手下の足元に縮こまってやがる。天族も大したことねぇな!」
「ファロクよ……お前は先に下がって、傷を治していなさい。残りは爺さんに任せてくれ。な?」
「嫌だ!俺は偉大なるニューバウ将軍のように、聖女メルバノと伴侶になるはずなんだ。それなのに、分を弁えない下賤な民が次から次へと湧いてきやがる。どうやって我慢しろっていうんだ! 全部こいつらのせいだ、皆殺しにしろ!」
「はいはい、身体に障るから、そんなに怒るんじゃない。爺さんがお前の嫌いな奴らを皆殺しにしてやるから、もう少しだけ待っていなさい。な?」
「だったら今すぐやれよ!!」
トクタールは懸命に孫を宥めていた。だが、甘やかされて育ったファロクはその苦心をまるで察することなく、むしろ怒りを募らせていく。
その傍らで、ブエンビは周囲の者など存在しないかのように繰り広げられる、この祖父と孫の滑稽なやり取りを見つめ続けていた。先ほどまで燃え上がっていた怒りは、次第に呆れへと変わっていく。
「小僧、歴史の授業を受けたことはないのか?ニューバウはメルバノと交際などしていない。妻はゴーシャンだ。ニューバウの末裔を名乗るなら、ここまで無知なのはあまりにも恥ずかしいぞ。」
「無知なのはお前だ、下賤な民め!あれは我が家の書庫に秘蔵された貴重な文献に記されていることだ。地面を這いずり回るしか能のない下賤な民が、知るはずもないだろう!」
「なるほど、お前の妄想小説ってわけか。くだらない代物はさっさと燃やして、これ以上哀れな人間になるな。」
「忌々しい下賤な民め、この俺様がお前の愚かな誤りを正してやる!!あれはニューバウ将軍麾下の第一の忠臣――オパルスが残した直筆の回想録だ!」
「……お前、オパルスと言ったか?」
「そうだ!回想録には、ニューバウ将軍がカレスの聖女に恋慕し、求愛したこと。そして、本来ならカレスの聖女と伴侶になるはずだったのに、恥知らずな『赤血修羅』に横槍を入れられ、良縁を逃してしまった経緯が記されている!そのせいでニューバウ将軍は、粗野な女戦士などで妥協する羽目になり、生涯それを悔やみ続けたんだ!」
興奮のあまり、ファロクは思わず両腕を広げた。
「『聖女の再来』と称えられるメルバノと俺が同じ時代に生まれたんだ。これが運命でなくて何だ!俺たちは結ばれるべくして生まれたんだ。ニューバウ将軍がかつて抱いた無念を、俺たちが埋め合わせる!カンガルのクソ野郎も、スリの悪魔も、邪魔をすることなんて――ぎっ!?」
ファロクは勢いよく後ろへ倒れ込み、耳障り極まりない悲鳴を上げた。
だが、周囲から次々と響き渡る、膝が地面を打つ音によって、彼の醜態は大勢の兵士たちの間に紛れてしまった。
傍らのトクタールは、孫を受け止めることができず、その場に立ち尽くしていた。額から流れ落ちた汗が目に染みても、彼はなお大きく目を見開き、目の前の巨漢を睨みつけている。凄まじい威圧感を伴って押し寄せる殺気の奔流に、必死に抗いながら。
「はは……ははは、ははははは!」
「確かに、オパルスがそう考えていたとしても不思議じゃない!後から加わった俺がニューバウの功績を横取りしたと思っていたらしく、俺に対する敵意を決して隠そうとしなかった!それに、あいつはザミン一族の戦士たちともひどく折り合いが悪かったから、ゴーシャンのことも嫌っていた!」
「ニューバウとゴーシャンが婚約した時なんて、オパルスは皆の前で『ザミン一族の粗野な女戦士が、我らの族長に釣り合うはずがない』とまで言い放った!ナフカルカンに叱責され、ニューバウにこっぴどく殴られても、それでも頑として考えを改めなかった!」
「だが!あれほど戦士の誉れを重んじていた男が、ニューバウのために自らの戦士としての生涯を断ったんだ!好きになれない奴だったとしても、ニューバウに対するあの忠誠と献身だけは、俺も敬服している!」
「なのに……なのに!よくもこんな偏見に満ちた事実無根の記述を残しやがったな!!オパルスーーーーーー!!!」
――魂の奥底から迸った咆哮が、宴会場全体を震撼させた。
驚いたリフは大股で後ろへ飛び退き、全身を烈火に包まれたブエンビを呆然と見つめた。数秒してようやく我に返ると、慌てて魔力を集め、熱を冷まそうとする。
「ニューバウが生涯を悔やんだだと!?この愚か者の所業は、ニューバウとゴーシャンを侮辱しただけじゃない!二人に祝福を捧げた者たちまでも侮辱したんだ!!お前が残したものなど、すべて完全に焼き尽くして灰にしてしまえ!!」
「ブエンビ!落ち着いて、ブエンビ――!また碑文会議の時みたいになっちゃうよ!」
溢れ出した魂の炎は結界によって遮られていたものの、地面を焼き焦がすほどの熱は一向に下がらない。純白の外套の裾が焦げた色に染まり始めていることに気づいたリフは、焦ってその場で足を踏み鳴らし、ついに切り札を繰り出した。
「ブエンビ!今すぐ落ち着かないと、わたしはここで転げ回って泣いちゃうからね――!」
……見た目だけを見れば、とりあえず効果はあったようだ。
炎は瞬く間に消え去った。振り返ったブエンビとリフの視線が重なる。あらゆる感情を押し隠したその瞳は、凪いだ水面のように静まり返っていた。
「お姫ちゃん。泣いて脅すような癖をつけてはいけない。」
「じゃあ、心配させるようなことをしなければいいのに――わっ!?」
突然抱き上げられ、リフは再び驚いた。顔を上げてブエンビの表情を窺うが、何も読み取れない。
「ブエンビ……?」
ブエンビが自分を抱いたままフェレドゥンたちのもとへ歩いていくのを感じ、リフの胸にはますます不安が募った。その様子は、ヴァンユリセイの感情の揺らぎを読み取れなくなる、あのブラックホールのような状態を思い起こさせる。何かよくないことが起きようとしている――そんな気がした。
リフをそっと下ろすと、ブエンビは身につけていた外套を、ほかの魔道具と一緒に手甲の空間へ収納した。リフは黙って差し出された手甲を受け取り、視線を相手の右腕に浮かぶ、淡い光を放つ布の塊へと向ける。
「お姫ちゃん、しばらく預かっていてくれ。予備の魔道具まで焼けてしまったら、レイに申し訳が立たないからな。」
「ブエンビ……大丈夫?」
「心配するな、お姫ちゃん。」
次の瞬間――強烈な光を放つ鎖が布の塊を突き破り、四方八方へと伸びていった。
隙を突いて奇襲を仕掛けようとした兵士の一部が鎖に薙ぎ倒され、そのまま動かなくなる。敵を倒した鎖はそれきり戻ることなく、リフが先ほど張った結界の範囲に沿って、周囲を取り囲むように巡り続けた。
「ブエンビ!?その鎖――」
「遠流もこういう使い方をしていた。正常な用途だ。」
「で、でも!」
「少しだけ待っていてくれるか?先に、あの二人と少し話したい。」
「え?う、うん……」
リフは、すぐ傍を通り過ぎていく大きな背中を見上げ、無意識に胸元の鎖を握り締めた。
彼女の視界には――初めて出会ったあの日に見た、あの怒りの炎が、今まさにブエンビの魂を激しく焼き焦がしている姿が映っていた。
「ウスタド、今までいろいろなことを隠していてすまなかった。今夜の騒乱が片付いたら、すべてを包み隠さず話す。北脊山脈でお前の記憶を俺が消したことも、俺が知っているカンガル一族の過去も、全部だ。」
「ブエンビさん……?」
困惑するウスタドを残し、ブエンビは反対側にできた人垣へと歩みを進める。メルバノは自らルクサーナ王妃とパリーサ王太后の後ろから歩み出ると、少し不安そうに振り返った。
「いいか、お嬢ちゃん。俺は今でもお前が好きじゃない。俺の妻とよく似た姿と名を持っているという点だけは、どうしても生理的に受け付けない。」
「あんたって、どうしていつも場の空気を読まないのよ!!!今ここで私への不満をぶつける必要がある!?」
ほんの少しだけ期待を滲ませていた気持ちは、一瞬にして怒りに燃え上がり、まるで獅子の咆哮のような怒声へと変わった。そのあまりの剣幕に、周囲の者たちは一時呆然とした。
だが……親しい王族たち以上に見ものだったのは、二人の青年の反応だった。
ファロクは大口を開けたまま、想いを寄せる女性を呆けたように見つめている。一方のウスタドは、「これでこそメルバノだ」とでも言いたげな安堵の表情で力強く頷き、ブエンビへ敬意に満ちた眼差しを向けていた。その仕草の一つ一つに、二人の性格が見事なまでに表れているね。
「だが、これはあくまで俺個人の感想だ。お前は聡明で、強くて、とても立派な子だ。もし彼女が、ファルザドにお前のような子孫がいると知ったなら、きっと心から喜び、同じ名を持つお前に祝福を捧げるだろう。ああ――彼女が人々から聖女と呼ばれていた時にそうしていたようにな。」
「いったい何をわけの分からないことを言ってるのよ!いつもそうよね、最初に人を貶しておいて、そのあとで褒めるんだから――」
「カレス一族の加護があらんことを。幸せで素晴らしい未来が、お前に訪れんことを。メルバノ。」
初めて正しく名前を呼ばれたメルバノは、呆然と立ち尽くした。
無意識に、先ほど撫でられた頭へ手を添える。すでに背を向けたその姿を、彼女は目で追い続けた。
その言葉に込められた祝福によって、メルバノは初めて、自分もウスタドと同じ立場に立てたような気がした。――同じように、あの人の心の中で、大切な存在として受け入れられたのだと。
「お姫ちゃん。これから、ウスタドを治療した時と同じ結界を張ってくれ。しばらくの間、あいつらと一緒に中にいてくれ。」
「……視界と音を遮断する結界?」
「ああ。十分もあれば終わる。それまでは見ない、聞かない。分かったな?」
「分かった。ブエンビ、あなた……」
「どうした?」
大気中から集められた魔力が性質を変え始め、もともとの空間結界を黒い影が覆っていく。内と外の視界が完全に遮られる直前、言いかけて口をつぐんだリフは、なおも光を放ち続ける鎖と、異様なほど穏やかな表情を浮かべるブエンビをもう一度見つめた。
「ブエンビ……絶対に、無茶しちゃ駄目だからね!」
「心配するな。いつも通りの仕事だ。」
最後にもう一度しゃがみ込み、リフの頭を優しく撫でる。
それからブエンビは振り返ることなく歩き出し、閉じていく結界の向こうへと、その姿を消した。
――駄目。やっぱり、ブエンビはどうにも不安な感じがする。あの布が破れてからは、ブエンビの魂の奥底で恐ろしい炎が渦巻いているのが見えてしまった……。
それに、鎖が光っている時の様子は、ウテノヴァの時とほとんど同じだ。ブエンビも司刑の仕事を兼ねているから、身につけている幽魂の鎖が、似たような呪いを抑えているのかな?どうしてブエンビの執念は、まるで世界そのものを焼き尽くせそうなほどの怒りを生み出しているんだろう?
もう結界は閉じた。ブエンビも「見ない、聞かない」って言ってた。でも……空間感知を使っちゃ駄目とは言われてないよね。
うん、決めた!
あとで空間感知を使って、外の様子を観察しよう。もしブエンビに何かあったら、すぐに外へ出て助けに行くんだから!
⋯⋯⋯⋯
やっぱり、リフらしい決断をしたね。
また少し天然黒への道を進んでいるような気もするけど、このくらいなら大丈夫かな?それじゃあ、ここからしばらくリフの視界を遮断して、観測範囲をブエンビの側だけに絞ることにしよう。
感慨深いなぁ……。大荒漠を旅しながら観測を続けて、もう何年になるんだろう。ついにリフが、ブエンビが仕事をしている時の、あの狂気じみた姿を目にすることになるんだ。
ねえ、リフはどんな反応をすると思う?
怖くて泣いちゃうことはないと思うよ。むしろ――完全に逆の反応をするんじゃないかな。
⋯⋯⋯⋯
黒影の結界が形を成した瞬間、伸びていた鎖はたちまち光となって消えた。ブエンビの右腕に巻きついていた幽魂の鎖も光を失い、何の変哲もない鎖へと戻る。
ただし――トクタールを除けば、すでに立っていられる者は誰もいなかった。
そして、幾多の戦場をくぐり抜け、殺気の奔流に耐え抜いた歴戦の老将軍も……ついに胸中の恐怖を抑えきれなくなり、孫の襟首を掴んで必死に後ずさっていた。
「お、お前……やはり悪魔だったのか!従順なふりをして、天族の姫まで騙していたのか!?」
「騙した?はは、はははは……馬鹿なことを言うな!お姫ちゃんは純真な子供だ!罪人の処刑を直接目にさせるべきじゃないに決まっているだろう!」
長刀を肩に担いだブエンビは、出口へ向かってゆっくりと移動する祖父と孫の二人を気にも留めず、その場に立ち尽くしていた。
――もはや自制する必要のない彼には、これ以上何もする必要はない。
濃密な血煞の気が瞬時に噴き出し、宴会場全体を覆い尽くす。大半の生者は、それに触れた瞬間、生きようとする意思を失った。わずかに精神力の強い者たちも、もがき苦しみながら地面を這うことしかできない。
ある意味では……リフの推測は正しかったと言える。ウテノヴァもブエンビも、その役目ゆえに殺生の業を幾度となく繰り返してきた。その積み重ねは、生者の感情や怨念を絶えず吸い寄せ、やがて呪いへと変わっていく。
しかし、ブエンビが生前に歩んできた人生は、ウテノヴァとは根本的に異なっていた。それが、彼の魂にまったく異なる方向性を持つ呪いを背負わせている。
それは――たとえ幾度となく血海へ身を投じ、業力を削ぎ落としてきたとしても、魂から引き剥がすことのできない気配だった。
「よく聞け、ハミド家のクズども!俺の本当の名は、ブエンビ・イェグライエイ!スリ一族最後の血呪術の継承者にして、『赤血修羅』と呼ばれた大罪人だ!」
「せ……赤血修羅だと?ふざけるな……!五百年前の亡霊だとでも言うつもりか!」
「その通りだ!俺は死の神と契約を結び、大荒漠を見回る幽魂使となった!だが、今この場では、幽魂使として振る舞うつもりはない!」
「幽魂使だと!?そんなはずが……あれは異界災禍にまつわる伝説のはず……!」
すでに息苦しさを覚えていたトクタールの視界は、血のように赤く染まっていた。その目は、遠くにぼんやりと浮かぶ巨影を、ただひたすらに見据えている。
あの黄金碑文の調査会議が始まった時から、事態はすでに制御不能へと向かい始めていた。
初代国王が隠し続けていた荒唐無稽な歴史。それを何の疑いもなく受け入れるフェレドゥン王の態度。そして、学者に扮していた天族の姬が、この場に姿を現したこと――あまりにも予想外の展開が続き、トクタールが取れる手段は次々と塞がれていった。
天族の姬を怒らせ、その横暴な姿を部下に広めさせるつもりだった。ところが、記録用に用意した魔晶石は、なぜか正常に機能しなかった。そして何より最悪だったのは、その天族の姬が、自らを「赤血修羅」、「幽魂使」と名乗る怪物に、ひどく従順だったことだ。
トクタールはこれまで、状況を思い通りに動かすための策を巡らせることに自信を持っていた。だが今は、どこから手をつければいいのかすら分からない。どうしようもない無力感だけが、胸の内に重くのしかかっていた。
もはや、すべての計画を捨てるしかない。今はただ、孫の命を守ることを最優先にするしかなかった。
満身創痍となったトクタールがファロクを連れて、なおもゆっくりと移動を続ける一方、ブエンビは相手の動きを完全に無視していた。
その意識は、右腕に絡みついた幽魂の鎖へと向けられている。
何の反応もない。
「幽魂使として振る舞うつもりはない」と宣言したにもかかわらず、幽魂の鎖には、彼を拘束しようとする気配が一切現れなかった。
二人の逸脱者が互いに影響を及ぼしたことで、一時的に制限が解除されているのか。それとも、依然として司刑が罪人を裁く権限の範囲内なのか……。何の警告も届かないということが、ただ一つの事実を示していた。
――クソボスが、これから行うことを黙認している。
「はは……はははっ!はははは、ははははは――!!」
「そういうことだ!今の俺は第五幽魂使じゃない!ファルザドの叔父として、あいつが残したものを守る!あいつの子孫も、受け継がれてきたものも、そしてこの清らかな水の都もな!」
「ダリヤチェに手を出そうとするクズども!あの時の裏切り者たちと同じように、血呪術の力と呪いをその身で思い知れ!」
肩に担いでいた長刀が、素早く滑った。
――人を殺すための武器というものは、敵に向けるのも自分自身に向けるのも、何ら変わりはない。ほんの一瞬、首のほぼ半分を断ち切るほどの傷口から血が噴き出し、柱のように吹き上がった。周囲の地面が一気に赤く染まる。
「お……お前……お、お前……!」
ブエンビの傷口がみるみる塞がっていく様を目の当たりにし、トクタールは目を見開いたまま、言葉を失った。
彼を恐怖させたのは、怪物じみた再生能力ではない。
目の前の人の姿をした存在は、まるで痛みなど感じていないかのように、狂気じみた歪んだ笑みを浮かべながら、何度も自分の喉を切り裂いていた。しかも途中で出血量に不満を覚えたかのように、刃の角度を変え、より乱暴な力で傷口を引き裂いてみせる。
わずか数秒のうちに、目を覆いたくなるほどの血溜まりがトクタールの足元にまで広がった。
「くくくく……ははははは!トクタール・ハミド!これくらいで怖気づいたのか?翼竜の改造実験をしていた時、お前は血肉が飛び散る光景を、それこそ何度も見てきただろうが!!」
ひとしきり狂ったように笑ったあと、トクタールへ向けられた視線が、そのまま九十度に傾いた。
急速に再生する肉組織と、頸骨まで断ち切った長刀が互いに押し合い、頭部と首の間に残ったわずかな皮と肉だけで、かろうじて繋がっている。絶えず開閉する顎からは声すら出ない。歯の隙間から、血の泡だけがぶくぶくと流れ落ちていく。
それでもトクタールには分かった。ブエンビは、自分を嘲笑っている。
常識ではあり得ないその頭部には、依然として笑みが浮かんでいたからだ。その顔の輪郭は先ほどよりもさらに狂気じみて、歪みきっている。
そして、その目には一切隠すことのない嘲弄が宿っていた。
トクタールはもはや迷わなかった。狂風を巻き起こし、自分と孫を包み込む。
二人は凄まじい速度で外へ飛び出し、そのまま宴会場の入口にある階段へと転がり落ちた。外で待機していた砲兵隊長は、トクタールの顔中から血を流す凄惨な姿を目にした瞬間、顔面から血の気を失った。
「将軍、いったい何があったのです!?」
「か、砲撃を!最大火力で……!」
「ですが、まだ他の者たちが王族を連れ出せていません!」
「砲撃しろ!あの悪魔を殺さなければ――うっ、お、おえっ!」
「将軍!!」
数人の衛生兵が慌ててトクタールの気道を確保しながら、彼とファロクを後方へ運んでいく。
砲兵隊長は、地面に散らばった血の塊の混じった吐瀉物を睨みつけた。そして顔を上げた時、その視線は目の前の建物へと向けられ、凍りつくような冷たさを帯びていた。
「全員、命令を聞け!王家の宴会場を狙え!」
「……はっ!」
一部の兵士たちは躊躇いを滲ませていた。だが、砲弾を装填する手つきは、熟練した兵士そのものだった。
ここまでついてきた彼らも、もう後戻りできないことは分かっていた。
「撃て!!」
十門の魔導砲が、一斉に火を噴いた。国王の寝宮と繋がる、長い歴史を持つ宴会場は、瞬く間に炎の海へと変わった。
風の防壁を展開して熱波を防ぐ砲兵隊長の顔には、嘲笑と愉悦が浮かんでいた。自分たちが敬愛する将軍を傷つけた者への、当然の報いだ。
――だが。その笑みは、すぐに消え失せた。
徐々に炎と煙が晴れていく中、彼の理解を拒む異物が姿を現した。
奇怪な半球状の黒い球体。そして、上半身が黒焦げになり、内臓まで露出しているというのに、なおもケラケラと笑いながら歩いてくる「死体」。
「はは……ははは!砲撃か!いい考えだ!実に素晴らしい考えだ!」
「だがな!こんな程度の炎だけで、血呪術の媒介を焼き尽くせるわけがないだろう!」
「何しろ、これは赤翼の神の子が技術の粋を結集し、丹念に作り上げた『完璧な呪い』なんだからな!!」
鼻を突く焦げ臭さを撒き散らしながら、その「死体」は部隊の前へと跳び出した。
「近接隊、奴を仕留めろ!」
無数の風刃と銃弾が敵へと叩き込まれる。黒焦げになった肉塊や血肉、手足が四方八方へと吹き飛び、瞬く間にブエンビの姿は見るも無残なものへと変わった。
だが、次に起きた光景によって、兵士たちもまたトクタールと同じ恐怖を味わうことになった。
地面に落ちた手足や肉片は、触れた瞬間に理屈ではあり得ないほどの勢いで血液へと変わっていく。どれほど攻撃を浴びせようとも、見る影もなくなったその肉体は瞬く間に再生していく。
そして何より兵士たちを震え上がらせたのは、戦場に響き渡る狂笑が一度たりとも途切れなかったことだった。
「ははは……軽すぎる!これじゃ足りない!敵を打ち倒したいなら、急所を直接狙うんだ!」
胸部に大きく開いた傷口から手を差し込み、内臓を守る頑丈な肋骨を素手でへし折る。
掌に収まった鮮やかな赤色の心臓は、次の瞬間には熟れきった果実へと変わった。無数の新鮮な汁が四方へと飛び散り、呆然と立ち尽くす砲兵隊長や兵士たちの身体を赤く染め上げる。
「はは、はははは!ほら、続けろ!頭と心臓を狙え!もっと俺の血を流させてみろ!!」
引き裂かれた胸部も、抉り出された心臓も、三秒と経たずに完全に再生した。
だが、ブエンビはそれでも止まらなかった。
自分へ向けられた攻撃が途絶えても、再び高熱で赤く焼けた長刀を手に取る。そして、首を断ち切る。心臓を抉り出す。それを何度も、何度も繰り返してみせた。
……あまりにも現実離れした光景と、皮膚へと染み込んでくる血液の生温かさ。
視覚と触覚、その両方から叩き込まれる凄惨な刺激に、兵士たちの胸の奥に生まれた恐怖は、ついに悲鳴へと変わった。
「ひ、ひいいいい!撤退だ!全員、撤退しろ!」
「悪魔だ!悪魔なんだ!」
「王族が不死の悪魔を飼っていたんだ!」
「誰があんなものと戦えるっていうんだ!こんなところで死ぬのは嫌だ!」
兵士たちは混乱の中で武器を投げ捨て、我先にと無我夢中で逃げ出した。
まだわずかに理性を残していた砲兵隊長は、トクタールとファロフのいる方向へ駆け出し、二人を連れて撤退しようとする――。
次の瞬間。
その場にいた全員が、一斉に倒れた。
身動きも取れず、言葉を発することさえできなくなった人々は、空へと浮かび上がっていく無数の血文字を目にした。
「戦うのを諦める?逃げる?ははは……そんなこと、許すわけがないだろうが!クソども!」
首の中央から長刀を引き抜くと、ブエンビはそれを無造作に放り捨てた。
宴会場から流れ出し、彼の足元まで広がった鮮血は、とうに一人の人間が流せる血液の総量を遥かに超えていた。
全盛期のスリ一族でさえ、これほど大規模な血呪術を同時に発動するには、百人もの血呪術の継承者を必要とする。当然、それだけの術を一人で行えば、百人分の代償を同時に背負うことになる。
だが、ブエンビはそんなことなど、まるで気にしていなかった。
「……はは。」
かつてよりも広くなった街。
かつてよりも遥かに多い敵。
そして――かつてよりも多くなった、生きている守護すべき者たち。
もし生前の自分だったなら、今のダリヤチェを守ることなどできなかっただろう。
だからこそ、すでに死んでいる今だからこそ。
もう一度、守る機会を得られたのだ。
宙に浮かんでいた血呪術の文字は、なおも高く昇り続け、やがて大気の中へと溶け込んでいった。
すべての準備が整った。
術式範囲――ダリヤチェ全域。
術式対象――ダリヤチェに悪意を抱く、あるいは住民に危害を加える存在。
術式内容――術式対象に応じ、以下の可能性を調整する。
身体が正常に活動する可能性を消滅させる。
――都市各地を占拠していた部隊が、次々と倒れた。上空を旋回していた翼竜も失速し、力なく地面へ墜落する。弱々しい鳴き声が、その口から漏れた。
四肢の健全な細胞が生存する可能性を消滅させる。
――倒れた人間と翼竜の身体が、部分的に急速な腐敗を始めた。生命力の強い変異翼竜は、必死にもがきながら這いずり、腐り落ちた肉を引きずった血の跡を残していく。
逃走、あるいは証拠を隠滅する可能性を消滅させる。
――いくつかの秘密の邸宅では、緊急脱出用のボタンが一斉に機能しなくなった。隠された金庫や秘密の部屋が自動的に開き、その奥深くに秘匿されていたものを、惜しげもなく晒していく。
外力による制裁を受ける三日以内に死亡する可能性を消滅させる。
――毒を飲んで死のうとした者たちは、苦痛に身をよじらせながら地面を転げ回った。剥がれ落ちた腐肉の隙間からは、白い骨が覗いている。中には、すでに銃弾で頭を撃ち抜かれ、身体まで炎に包まれているというのに、地面を這いずりながら、死の神が一刻も早く恩寵を与えてくれることを願う者もいた。
その悪意によって負傷した者が、本日中に死亡する可能性を消滅させる。
――内乱の中で真っ先に包囲された研究施設では、医療従事者たちが負傷者の容態に驚いていた。どうやら傷の状態が、わずかに改善している。決して楽観できる状況ではない。それでも、救援が到着するまで生き延びられる可能性が、そこには生まれていた。
「う、ああ!あああああああああああああ!!!」
血呪術が完成した瞬間。
耐えられる限界を遥かに超えた融解するような激痛が、ブエンビの魂を襲った。
⋯⋯⋯⋯
「ブエンビ――!!ブエンビ、しっかりして!!」
衝撃があまりにも大きかったせいで、一時的に機能停止して再起動する回数が少し増えてしまったものの、リフはなんとか行動できるまでに回復した。
一方のブエンビはというと……鎖が遮蔽と拘束の役目を果たしてくれているおかげで、全裸という無様な姿を晒すことにはならなかったものの、現時点では、ただ咆哮を上げるだけの人型の何かと化している。
自分が背負うことになる結果については、彼もずっと覚悟していた。ただ、リフが下した決断だけは、さすがに予想外だったようだ。なにしろ彼の基準からすれば、これは子供に見せていい光景ではないのだから。
だが!何年も共に旅をし、強い絆を築いてきたリフは、そんな一般論で語れる存在ではない!今この瞬間も、リフの視界はブエンビへの心配でいっぱいだ。いい子度がまた上がったよ!
「ブエンビ……!ヴァンユリセイ、ブエンビは一体どうしたの?どうすれば助けられるの?」
「この馬鹿は、幽魂使の不滅の加護に頼りすぎた。自分自身が耐えられる限界を遥かに超える血呪術を使ったせいで、今は『不滅』と『消滅』の状態が互いに拮抗している。回復させるには、彼を幽界へ戻す必要がある。」
「だったら、早くブエンビを戻して!」
「君はしばらく、一人になることになる。」
「あなたがずっと一緒にいてくれるでしょう?私のことは心配しなくていいから、早くブエンビを助けて!」
「分かった。」
瞬間伸びた鎖が空間を切り裂き、ブエンビの身体をその中へと引きずり込んでいく。
リフは空間の裂け目が閉じていく場所をじっと見つめ、それから胸元の鎖を握りしめて温もりを確かめると、ゆっくりとその場から立ち上がった。
その時、すぐ脇を氷柱が伸びてきて、リフはびくりと身を震わせた。
振り返ると、ウスタドが砲撃の余熱の残る地面を冷やしながら、こちらへ全速力で駆けてくるところだった。そのすぐ後ろにはフェレドゥンが続き、レザもそれを見て驚いた様子で駆け寄ってくる。
「リフ様!!ブエンビさんは先ほど一体どうされたのですか?どこへ行かれたのです?お怪我をされたのですか!?」
「ブエンビは幽界に戻ったよ。」
「幽界?まさか……そ、それはつまり……」
「お前が考えているのとは少し違う、ウスタド。ブエンビ様はもともと、死の神と深い繋がりを持つ御方なのだ。」
リフはぱちぱちと瞬きをしながら、フェレドゥンがウスタドの肩を叩いて慰める仕草を注意深く観察した。
これまでのフェレドゥンの言動や感情の揺れを思い返すうちに、リフの中にある種の違和感が生まれる。
「リフ様。先ほど、ブエンビ様が鎖に拘束されているのを見ました。あれは、我々を守るために死の神の怒りを買ったということなのでしょうか?」
「違うよ。ブエンビは幽界で少し休む必要があるだけ。すぐに戻ってくるから。」
「そうですか……よかった。しかし、ブエンビ様は結局、私の願いを引き受けてくださったからこそ、あのような苦しみを。子孫の身として、ファルザド王や歴代の祖先に、誠に申し訳なく思います。」
リフは、罪悪感に満ちたフェレドゥンの顔をじっと見つめた。
そこにあるのは、純粋な感謝、尊敬、罪悪感。そして……懐かしさ。
さらに深まった違和感が、自然と口からこぼれた。
「フェレドゥン。もしかして、ずっと前からブエンビが幽魂使だって知ってたの?」
「はい、リフ様。ブエンビ様は、ウルクイ王室に代々伝えられてきた守護神なのです。」
「ブエンビって、本当に見えないのおじいちゃんだったんだ――!?」
「見えないのおじいちゃん……?」
フェレドゥンには、リフとブエンビが二人きりで交わしていた会話など知る由もない。困惑した表情で、その場をぴょんぴょん跳ね回るリフを見つめている。
その一方で、驚愕したレザが足早に近づいてきた。
「父上!守護神のことなど、私は聞いたことがありませんが?」
「第八代の王の時代から、それは代々の国王だけに伝えられる秘密となったのだ。本来なら明日の朝、お前にもまとめて説明するつもりだった。だが、計画というものは、なかなか思い通りにはいかないものだな。」
「なるほど、だから私たちを朝食に誘ったのですね!……あれ、待てよ……」
あることを思い出したリフの表情から、瞬く間に感情が消えた。
「フェレドゥン……まさか、ブエンビが『赤血修羅』だってことも知ってるの?」
「はい、存じております。それもまた、ファルザド王が残した伝承の一つです。」
「それってどういうこと!?ウルクイ王室が知ってたのなら、どうして国民がブエンビの評判を落とすのを放っておいたの!?あんな馬鹿げた劇や小説まで!ブエンビが気にしてなかったからよかったものの、そうじゃなかったら全部焼き払いたいくらいだよ!ちゃんと説明して!!」
リフから真っ直ぐ向けられる殺気のこもった視線だけではない。レザとウスタドまで、信じられないものを見るような目でフェレドゥンを振り返っていた。
三人分の重圧に満ちた視線を浴び、フェレドゥンは思わず小さく息を吐いた。
「それが、第八代の王が伝承を制限した理由なのだ。ブエンビ様は、決して受け入れないだろう。」
「第八代?あなたたちの史書によれば、黎瑟暦693年から719年まで在位していた王だよね。彼は――」
ある可能性に思い至ったリフは、信じられないものを見るように大きく目を見開いた。
「まさか……異界災禍の時に、ブエンビと会ったの?」
「おっしゃる通りです。あの時、彼らは……」
リフが答えを待ちきれない様子で見つめていると、フェレドゥンの身体が突然、横へと傾いた。
レイザとウスタードが咄嗟に支える。しかし、次の瞬間にはレイザまで力を失って倒れ込んだ。
ウスタードは歯を食いしばって二人を支え、なんとか衝撃を和らげながら、その場に座らせる。
「フェレドゥン?二人ともどうしたの?」
「寒……い……。ものすごく、寒い……」
「寒い?確かに、周囲の温度が急に下がってるね。」
「リフ様……これは普通の寒気ではありません。カンガル一族である私ですら、この寒さが魂の奥深くまで染み込んでくるように感じます。他の者たちは、おそらく……」
「人間種にとって、そんなに深刻なの?ちょっと待ってて。すぐにこの辺りに暖を保つ結界を張るから!」
「ありがとうございます……リフ様。」
魔力の結界が瞬時に展開され、宴会場跡地の周囲を覆い尽くした。皆の震えが止まったことを確認すると、リフはほっと息を吐く。
結界は少し離れた場所にいるハミド家の祖父と孫、それに何人かの兵士たちまで包み込んでいたが、彼らはすでに氷に拘束されていたため、リフはそれ以上気に留めなかった。
リフは寒さを恐れているわけではない。しかし、ウスタドたちがこれほどまでに寒さの影響を受けているのを見ていると、ある記憶が蘇ってきた。
魂にまで染み込んでくるような寒気。
それは幽界の寒さと、とてもよく似ていた。
「ヴァンユリセイ、もしかして――」
「リフ、空間の揺らぎに注意しろ。亡霊の都が出現する。」
「えええ!?」
考える暇もなく、リフはすぐさま空間感知の範囲を広げた。
現実の空間に異常なほど重なり合う、巨大な存在を捉えた瞬間、リフは思わず目を見開いた。
「どうして座標がダリヤチェとほとんど重なってるの!?亡霊の都って、荒野に出現するものだって聞いてたのに!」
「ファルザド・ジャブクフがウルクイの首都を築いた際、内乱によって滅びた、とある都市の名を受け継いだ。その都市は黎瑟暦483年から485年にかけてモテナヴォ帝国の首都だった。亡霊の都という形を構築する集団的な思念、その源の一つでもある。」
「そんな大事なこと、次からはもっと早く言ってよ――――!!」
リフの不満の声が響く中、都市全体を取り囲む空間の揺らぎは、ついに頂点へと達した。
冷たい白い霧が大地から立ち上る。
朦朧とした霧の向こうから、モテナヴォ帝国様式の建築物が音もなく姿を現した。まるで幻影のように、それらは現在のダリヤチェの街並みの中へと入り混じっていく。
揺らぎが次第に収まっていくと、無数の人影が霧の中から浮かび上がった。
一見すると生者と何ら変わらない姿をした亡霊の都の住民たちが、次々と影のような建物から外へと出てくる。彼らは街路に立ち止まり、都市の中央にある、王権を象徴する場所を遠く見つめていた。
その中でも特に強大な気配を放つ者たちは、示し合わせたかのように王権の地へと向かい始めた。
ある者は疾走し、ある者は穏やかな足取りで歩く。
だが、全員の目的だけは完全に一致していた。
――古く、強大でありながら、とうの昔に歴史から消え去った。血の気配に満ちた、ある呪術の痕跡。
亡霊の都の住民たちは皆、その気配がどこから生じたものなのかを知っていた。
それは、彼らが――そして彼らの王が、数百年もの間追い求め続けてきた、故人の面影だった。




