76話 運命の代償
リフ一行が凍てついた宴会場の内部に姿を現した瞬間、すべての視線が彼らへと集まった。
王宮に住まう王族たち――フェレドゥン王とルクサーナ王后、パリーサ王太后、レザ王太子とその妻や子供たちが一堂に会している。わずかな隙間から、メルバノの背中と、ひときわ目に痛い血の赤がのぞいていた。
国王の背後を囲む宰相や数名の重臣たちは警戒の色を浮かべ、近衛兵や暗衛も一斉に武器を抜く。だがフェレドゥンの合図によって彼らはすぐに退き、駆け込んできたブエンビたちへと道を開けた。
「メルバノ!」
リフは肩から飛び降りると、床に膝をついている若い女性へと急いで駆け寄った。救いを待ち望んでいたその瞬間、灰色の瞳に溜まっていた涙が再び決壊する。
「リフ様……!本当に、私たちを助けに来てくださったのです……!」
「ウスタドとショルパンの状態は!?彼らは――」
目の前の惨状を認識した瞬間、全員の言葉が途切れた。
若者以上に活力に満ちていたはずのショルパンは、顔面を蒼白にして目を閉じたまま倒れている。全身には風刃による大小の傷が刻まれ、最も深刻なのは肩の付け根から右腕が切断されていることだった。応急処置として止血はされているものの、その断面は今も生々しく、ナスリンとファリバが各所から集めた布切れを細く裂き、包帯代わりにしている最中だった。
ウスタドもまた全身がすでに布で覆われ、幾重にも巻かれている。だがそこから滲み出る暗い血の色、そして肘から下と膝から下が失われた姿は、見る者にその重さを否応なく理解させた。
「い、今のままじゃ駄目だ!もっと精密な器具が必要です!」
動揺したムビナがショルパンの傍らに跪き、メト一族の異能で身につけていた金属装飾を変形させ、鋏やメス、ピンセットといった医療器具へと作り変える。他の者たちもそれに続き、それぞれの異能で簡素な現場を少しでも治療向きの環境へと整えていった。
グルラクとイモナは協力して簡易の家具を作り出し、さらに葉の厚い植物を数株生やして、サリムロドが清水を溜める容器として利用する。リフはブエンビの足元に寄り添いながら、彼がウスタドを仮設の寝台へと運ぶ様子を、ただ黙って見つめていた。
……はぁ。ただ布を何重にもきつく巻き付けただけの程度では、リフの観測能力にとっては障害にすらならない。クルシフィア大陸を旅する中で、それ以上に残酷な傷痕を見てきている――だが、それとは比較にならないものだ。致命を意図的に避け、ウスタドの苦痛の時間だけを引き延ばすために作られた「悪意」が、すでにすべてはっきりとリフの視界の中へと落ちている。
というより、欠損した四肢そのものはもはや問題ではない。青年の顔と身体は大小さまざまな切創と刺創で埋め尽くされ、文字通り「満身創痍」という言葉に完全に一致する姿へとされている。もともと美しかった氷のような青い瞳は、今や凹凸のある血の窪みだけを残している。咬筋が切断された顎には、止血と固定のための布が詰め込まれているが、それもすでに舌の断面から流れ出た血で染み切っている。
旅に出て以来、リフにこれほどの怒り――燎原の火にすらなり得る感情が生まれるのを観測したのは初めてね……。幸い、これまでのブエンビの振る舞いで、ある程度は抑え込めているようだけれど。さて、私たちはこのまま静観しましょうか。
⋯⋯⋯⋯
「メルバノ。ウスタドにこんなことをしたのは、昨夜あなたを襲ったあの者なのですか?」
メルバノの目尻から、大粒の涙が再びこぼれ落ちた。
「……あの外道……わざとウスタドを殺さず、私の目の前でいたぶったのです。私のせいです……私が彼を巻き込んでしまった……」
リフは何も言わずに振り返り、ブエンビの長衣の裾を強く引っ張った。意図を察したブエンビは膝を折り、小さな女の子の言葉を待つ。
「ブエンビ。今!私はとても、ハミド家のその祖孫を罵りたい気分です!約束通り、私の代わりに罵ってください!!絶~~~対に、できる限り思い切り罵って!!!」
「了解した。」
――次の瞬間、可愛らしい毛皮のイヤーマフがリフの頭に装着された。
興味深そうにその感触へ手を伸ばしている間に、ブエンビの視線はレザ一家へと向けられる。
「レザ、子供たちの耳を塞げ。」
「何?」
「レザ、言う通りにしろ。早く。」
フェレドゥンが真っ先に孫の耳を塞ぎ、息子夫婦へと視線で促す。レザとその妻は顔を見合わせた後、それぞれ双子の娘の耳を手で覆った。
その場の子供たち全員の耳が守られているのを確認すると、ブエンビはイヤーマフを押さえながら、抑揚のない声で一気に言葉を吐き出した。
「人としての一線を捨て、自ら▉▉になることを選んだ。先祖の顔に泥を塗るだけでは飽き足らず、▉▉と▉▉▉の▉▉行為を世界記録として刻み込み、永遠の恥を残した。千刀万剮にされようと、▉▉▉▉されようと、▉▉▉▉がさらに▉▉▉▉▉▉されようと、その罪は贖えない。人間のクズ、外道、ゴミ、蛆虫、▉▉、▉▉、▉▉▉、▉▉▉▉といった形容すべてを用いてもなお足りないほどの汚れ具合だ。その▉▉▉で▉▉な、▉▉▉▉のハミド家のその祖孫が、ウスタドをこのような姿にした元凶というわけだな?」
「……あ、は、はい。そうです。」
メルバノだけでなく、その場の全員が呆然としていた。そんな空気を無視して、ブエンビはリフのイヤーマフを外す。
途端に、期待に満ちた紫の瞳がこちらを見上げた。
「ブエンビ、罵り終わった?」
「終わった。子供には聞かせられない低俗な語句を多用したので、聞かせることはできない。」
「大丈夫!他の人の感情の揺れを見れば、ブエンビがすごく上手に罵ったって分かる!」
「はは……確かに見事な罵倒だな、ブエンビ。実に覇気のある顔だ……」
「ショルパン?」
目を開いた老婦人は、包帯を巻き終えたばかりのファリバを押しのけるようにして、無理やり上体を起こした。ナスリンと治療器具の細部を確認していたムビナが慌てて病床へ駆け寄り、今にも崩れそうなその身体を支える。
「ショルパン、動くな!その傷は軽くない!」
「ブエンビ、それにリフ様……ですよね?私の右腕、ウスタドの手足……トクタールが切り落としたものです。あの外道がウスタドを好き勝手に痛めつけていたのも、あいつです。あいつとその孫は……もう人間ではありません。」
ショルパンは呼吸を乱しながらも、それでも言うべきことを途切れさせずに伝えた。
無表情のブエンビはまず、ショルパンの腱を断たれた左脚へ視線を落とし、次にメルバノが胸に抱く血に染まった氷鏡を見やり、最後にウスタドの判別もつかない顔へと目を止めた。
「いかなる拷問を受けても、ウスタドは屈しなかった。彼は機を見て、カンガルの鏡を使い、お前たちのための避難所を作り出した。」
「その通りです。ここにいる全員が、彼に命を救われています……ごほっ、ごほっ……」
「いいから寝ていろ!借りがあるなら、無駄にする資格はない!」
ムビナは小柄な体格からは想像できない力でショルパンを寝台へ押し戻した。友人の本気の怒りに、ショルパンはそれ以上逆らえず、素直に横たわる。
「ショルパンの言う通りです。ですから我々には、この代償を償う義務があります。」
「陛下……」
フェレドゥンはゆっくりと歩み出て、後ろについて来ようとする者たちを手で制した。静まり返った空気の中、リフとまだしゃがんだままのブエンビの前まで来ると――その場で片膝をつき、最大限の敬意を示す姿勢で礼を取った。
「正式にご挨拶申し上げます、天族の姫様。私はウルクイの十八代国王、フェレドゥン・ジャブクフ。ここにウルクイ王家を代表し、貴女へ依頼を申し上げます。ウスタドとショルパンの傷を治してください。いかなる代償が必要であっても、王家はそれを支払う覚悟です。」
フェレドゥンの行動は、周囲に一瞬の混乱と動揺を生んだ。しかしパリーサとレザも同じように膝をついたことで、他の者たちも迷いを捨て、一斉に跪く。負傷者を除き、全員が跪拝する光景は、リフにとって少し複雑な感情を呼び起こした。
「フェレドゥン、クリティはあなたに私のことを説明していましたか?」
「プルークリティ様からは、『あの二人の良い子たちを大切にし、必要な時はできる限り便宜を図ってほしい』とのみ伺っております。説明がなくとも、その輝く紫の瞳と、ブエンビ様の呼び方を見れば十分です。」
その呼び方を聞いた瞬間、ブエンビの表情がわずかに固まった。
「おい、『様』扱いする必要はない……」
「とにかく、みんな立ってください!わたしはこういうの好きじゃない。『姫様』とかもいりません、メルバノみたいに名前でいいですよ。」
「承知いたしました。そのように。」
フェレドゥンが立ち上がると、周囲も元の姿勢に戻った。しかしリフへ向けられていた好奇の視線は、そのままブエンビへと集中し、彼は思わず頭皮がむず痒くなる。
「リフ様、依頼をお受けいただけますか?」
「もちろん!もともと助けに来たんだから。代価なんていらないよ、ちゃんと全部治す!」
フェレドゥンとブエンビは同時に固まった。
その間に、リフはすでに腕輪から薬包を取り出している。正気に戻ったブエンビは慌てて蓋を閉じさせ、これ以上中身の薬剤を確認させないよう止めた。
「待て!お姫ちゃん!」
「ん?どうしたの?」
「軽々しく『代価はいらない』なんて言うな!これは薬を一、二本でどうにかなる状況じゃない!ウスタドの治療だけでも、君にレアーが渡した薬を使い切る可能性がある!」
「大丈夫だよ、なくなったら兄ちゃんにまた作ってもらえばいいし。」
「駄目だ!レアーは――あいつは、あいつは……!」
震える音がブエンビの舌の上で途切れた。だが結局、その言葉はすべて飲み込まれる。
――ここで真実を口にしてはならない。そうすれば、これまで幽魂使たちがリフを連れて旅してきた努力が、すべて自分の手で崩れ去ることになる。
「そういえば、兄ちゃんとブエンビは知り合いなんだよね?これらの薬が役に立つって知ったら、きっと喜ぶよ。」
「レアーなんて奴は関係ない!ただ一度会っただけの他人だ!」
「もう、ブエンビってやっぱりひねくれてるよね。もし本当に見知らぬ人なら、どうして兄ちゃんを族名ではなく本名で呼ぶの?」
「それは……それは……」
「それにね、一番彼らを助けたいと思ってるのはブエンビでしょ?感情を抑えてないから、見ればすぐ分かるよ。」
「……!」
「大丈夫、私もブエンビを全力で手伝うから!ヴァンユリセイ、再生用の薬はどの区画にあるの?……ヴァンユリセイ?」
リフは鎖を外し、手のひらの上でくるくると確かめる。鎖は隔絶状態に入っていないのに、彼女の呼びかけにはまったく反応しない。そのためリフの頭上には、見えない小さな疑問符がいくつも浮かんでいた。
リフが困惑している間、傍らのブエンビは拳を固く握りしめていた。
普段なら「クソボスがまたおかしくなっている」と切り捨てるだけだっただろう。だが周囲の空気と人々の反応を把握したことで、彼はこの状況が何に由来するものかを完全に理解していた。
――ナスリンと他の暗衛は、お姫ちゃんが無条件に自分を信頼している姿を見て、そこに疑念と不信を抱いている。
――宰相と他の官僚たちは、お姫ちゃんが自分に見せる依存と親密な態度を観察し、そこから様々な思惑を巡らせている。
――ムビナたちは、自分の本心をお姫ちゃんに見抜かれたことに対し、感謝と期待の眼差しをこちらへ向けている。
……推測するまでもない。
隔絶状態に入っていないにもかかわらず沈黙しているボスは、彼が最もよく知るあの感情を抱えている。
「違う……!最初から間違っていたんだ!!」
「ブエンビ?」
短い地響きとともに、両膝をついたブエンビはリフの肩に手を置いた。深く垂れた頭は彼女と視線を合わせようとせず、その表情を暗い影の中へ隠している。
「運命を変えるには……代償を払わなければならない。だが、その代償を負うべきなのは君でもフェレドゥンでもない!最初に北脊山脈でウスタドの運命へ介入した、この俺だ!」
肩越しに伝わる震えとともに、激しい悲しみと自責の念がリフの視界へ流れ込んでくる。だから彼女は、こっそりと空間感知を使い、ブエンビの表情を確かめた。
それは、リフが今まで一度も見たことのない顔だった。いつもは力強く、それでいて優しいその顔が、今は深い悲痛に満ちている。
「ウスタドが『王殞の地』で俺たちと再会してから、すべてが狂い始めた。あの日から……大荒漠の命軌は極度に乱れ、時界星空ですら読み取れないほどになった。ウルクイと関わりを持つ者たちは、皆この変化に巻き込まれていった。」
「『逸脱者』である俺が歪みの始まりを作り出した。それなのに、運命を変えた代償を支払っていない。ウルクイへの旅の間、お姫ちゃんはずっと自分とは関係のない代償を背負わされていたのに……俺はそのことにまるで気づいていなかった!」
「『ナセル』を演じる君に後始末を押しつけ、人前で天族の身分を晒させた!さらには、本来起こるはずのなかったこの内乱まで引き起こした!俺は何一つ君のためにできなかった……ただの無能な同行者だったんだ……!」
「何言ってるの、ブエンビ!?何もしてないなんてことないよ!」
リフは肩から手を払いのけると、慌てて小さな両手を彼の頬へ当てた。
「ブエンビは私を連れて南荒の砂漠を渡って、南脊山脈も北脊山脈も越えてくれた!旅の間だって、ずっと私のことを大事にお世話してくれたじゃない!そんなにたくさんしてくれたのに、どうして自分を価値がないみたいに言うの!?」
「それは俺の役目だ!話を混同するな!!」
視線を交わした二人の間に、一瞬の沈黙が落ちた。
ブエンビは頑なに掲げられた小さな両手をそっと下ろす。その「どうしてそんなに怒るの……」とでも言いたげな悲しそうな表情を前に、彼は膝を強く握り締め、慰めたい衝動を無理やり押し殺した。
「よく聞け、お姫ちゃん。天族である君は数え切れないほどの宝を持ち、人間にはできないことを容易く成し遂げられる。だが、それは無条件に他人へ与え続けていいという意味じゃない。」
「君は純粋で優しい子だ。目の前の惨状に怒りを覚え、自分から誰かを助けようとする。だが――今回のすべての発端は、俺とウルクイの繋がりにある。」
「この間違いは、君のこれからの旅路を歪めてしまう。だから……俺はここで、すべてを正さなければならない。」
その巨体が勢いよく床へ落ちた。
額がリフの足元の石床へ叩きつけられ、「ドンッ」という重い衝突音が響き渡る。
「ブエンビ、何してるの!?早く起きて、起きてよ――!」
驚愕に顔を強張らせたリフが必死に引き起こそうとするが、地面へ完全に伏して跪いた大男は微動だにしない。
「お姫ちゃん。俺は、レアーが君に残したものがどれほどの意味と価値を持つのか知っている。だからこそ、俺はずっと、君の兄の想いを無駄にしてほしくなかった。」
「だが俺は、自分では代償を支払えない無能な人間だ。こんな恥知らずな姿で、君に頭を下げて頼むことしかできない。」
ひび割れた床石が、さらにわずかに沈み込む。
「頼む……お姫ちゃん。運命の変動に巻き込まれたあの二人を治してやってくれ。そして、本来あるべき人生を取り戻させてほしい。」
「俺は幽界の主の名にかけて誓う。どれだけの時間が必要になろうと……君に負わせた代償は、必ず返し切る。」
沈黙がしばしその場を支配した。
呼吸の荒い二人の負傷者を除き、周囲で見守る者たちは誰一人として息を呑み、目の前の二人を邪魔することを恐れていた。
――リフが突然、両手を掲げるまでは。
「うおっ!?」
ブエンビの身体が、周囲の床石ごと宙へ浮かび上がる。そのまま正面へ向き直らされたかと思うと、次の瞬間には倍増した重力によって容赦なく地面へ叩き落とされた。
肉体へかかっていた圧力は消えたものの、四肢にはなお強烈な重圧がのしかかり続け、ブエンビは身動きひとつ取れない。
そこへリフが勢いよく胸の上へ飛び乗り、小さな拳を握って滅茶苦茶に叩き始めた。
「ブエンビの大馬鹿――!どうしていつもそんなに自分を大事にしないの!馬鹿、馬鹿――!」
「お、お姫ちゃん……」
幼い拳は、人間種の成人男性に匹敵する威力を持っている。
その一撃一撃が容赦なくブエンビへ叩き込まれる。肉体への損傷こそ大したことはないが、その代わりに彼の心を痛いほど打ち据えていた。
何十発も殴り続けた後、ようやくリフはぷりぷりと怒りながら拳を下ろした。
四肢を拘束していた重圧が消えると、ブエンビは少し躊躇いながら上半身を起こし、真っ赤に膨れた小さな顔をおそるおそる覗き込む。
「お姫ちゃん……」
「もう二度とこんなことしちゃ駄目だからね!じゃないと……じゃないと……」
リフは少しだけ言葉に詰まった。だが、すぐに自信満々に胸を張る。
「じゃないと、わたしはその場で泣いてみせるから!そのあとパパにも言いつける!」
「そんな恐ろしい脅しを気軽に口にするな!?第三世代の天族が総出で暴動を起こすぞ!」
「だったら、もう無茶しないってちゃんと約束して!それから、わたしは頭なでなでとぎゅーもしてほしい!」
「今それを要求する場面じゃないだろ、お姫ちゃん!」
「……うぅ……」
「待て待て待て待て、即実行に移そうとするな!分かった、頭も撫でるし抱っこもする!だから今すぐ目の水分を引っ込めろ!!」
⋯⋯⋯⋯
さっきまで死ぬほど重苦しかった空気が、一転して育児教室みたいな光景になってしまったわね。
どう反応すればいいのか分からなかった傍観者たちは、当然のように集団で石化状態へ突入している。天族に関する知識を最も多く持ち、事情も一部知っているフェレドゥンですら、あまりの衝撃に言葉を失っていた。
一方、周囲の様子などまったく気にしていないリフはというと……普段ブエンビと二人でいる時そのままの態度で、思う存分甘えていた。遠慮なくあれこれ指示を出し、好き放題に振る舞っている。こんな滅多に見られない我儘な姿は、きっとあなたの世界記録収集ランキングでも上位に入るんじゃないかしら?
とはいえ……リフの「良い子度」は、相変わらず「我儘度」をしっかり上回っているのだけれど。
育児教室の開講時間は一分ほどだった。慌てふためくブエンビを十分堪能したリフは、満足したようにその胸へ顔を埋め、静かに抱きつく。
「自分を大切にしないところはすごく怒ってるけど、伝えたかったことはちゃんと分かったよ。ブエンビ、ずっと私のことを考えてくれてありがとう。」
銀髪を撫でていた大きな手が止まった。その掌はゆっくりと背中へ移り、小さな女の子を優しく叩いて応える。
「礼を言うべきなのは……俺の方だ。お姫ちゃん、君は世界で一番優しい良い子だよ。」
ああ、なんて心温まる光景なのかしら……。ほんの数分前まで激しく揺れ動いていた大小二人の感情は、この瞬間ようやく静かな均衡へと戻っていた。まるで戦場の真ん中に咲いた一輪の花みたいね。短く、小さく、それでも人の心を慰めるには十分な。
それはそれとして――あなた、本当に採点基準が厳しいわね。たぶんブエンビの対応では少し物足りないのでしょうけれど、私から見れば十分に合格点よ。
だって、あそこまでひねくれた彼が、ようやくウルクイとの「縁」と正面から向き合ったのだから。だからね――ある可能性は、もう固定され始めているのよ。
「再生薬剤は右側の三段目から五段目に集中しています。上から数えて、三段目は眼球、鼻、口腔、耳、胴体。四段目は四肢、生殖器、骨格、筋組織、皮膚。五段目はラベルごとに分類された各種臓器です。再生薬剤と鎮痛薬の混合比率は一対四。切除と薬剤交換の作業は、魔力による遠隔操作で行ってください。」
二人は同時に顔を伏せ、突然長々と説明を始めた鎖を見下ろした。
それと同時に、ブエンビの魂の奥底へ、もう一つの冷淡な声が響く。
「――ブエンビ・イェグライエイ。お前はまだ、救いようのない愚か者というわけではないようだな。」
「……ヴァンユリセイ、お前……」
魂越しに返された言葉は、そのまま深淵へ沈み込み、返事はなかった。
複雑な表情を浮かべながら、ブエンビはリフが再び鎖を外して調べる様子を見守る。彼女は何度もひっくり返して確認し、鎖が今度こそ隔絶状態へ入ったことを確かめてから、ようやく胸元へ掛け直した。
先ほど閉じられた薬包が再び開く。
無数の薬瓶が中から飛び出し、繊細な魔力操作によって一定の円軌道を描きながら空中を巡り始めた。その様子は、絶えず輝き回転する水晶のシャンデリアのようだった。
宴会場の人々は目を見開いてその光景を見上げる。行動を制限されているショルパンでさえ、思わず身を起こして見入っていた。
「お姫ちゃん、これは……」
「わたし、ブエンビのお願いを受けることにしたから。このお薬でウスタドを治そうね!でも、人間種の治療経験はあまりないから、隣でちゃんと手伝ってほしいな。」
小さな女の子の晴れやかな笑顔に、ブエンビは一瞬言葉を失った。それから困ったような、それでいて安堵したような笑みを浮かべ、立ち上がってリフの隣へ並ぶ。
「ああ、分かった。天族が重傷者を治療する際の実例を、君に伝えよう。」
ブエンビは素早く記憶を探り、ウテノヴァがかつてウチェヴォトで負傷者を治療していた方法を詳細に呼び起こす。
もっとも、その記憶には「時間がない」という理由で飛び散る切断肢や鮮血、絶叫が大量に含まれており、それらの映像が脳裏をよぎった瞬間、彼の口元は思わず引きつった。
「天族の薬には『逆転』の原理が込められている。身体を負傷前の最も健康な状態へ戻す効果があるんだ。治療の際は、まず魔力の刃で不規則な傷口の組織を切除し、その整った断面へ薬を振りかける。再生の過程で患者は負傷時の痛みを追体験することになるから、それに見合った量の鎮痛薬も必要になる。」
「なるほど、さっきヴァンユリセイも割合がどうとか言ってたもんね。」
「それと……お姫ちゃん。視覚と音を遮断する結界は作れるか?ウスタドの傷だと、おそらく全身を一度切り直す必要がある。切除した組織は即座に焼却しなければならないし、その過程は他人に見せるべきものでもない。」
「おお~、やっぱりブエンビは物知りだね。治療用の結界かぁ……あっ、そうだ!わたし、漪路の影の結界を真似してみよう!ちょっと待ってね!」
隠蔽の性質を帯びた魔力がウスタドの寝台を中心に広がり、やがて黒い高壁のような結界へと変化していく。
リフが結界の調整を進めている間に、ブエンビは籠手の収納空間から着替えを一式取り出し、その場にいる人々を見回した。
「ウスタドに合う大きさへ服を仕立て直したい。誰か手伝ってくれる人は――」
「ブエンビ様、その役目は私とファリバにお任せください。」
ブエンビの眉がぴくりと引きつる。彼は服を両手で持ち直し、丁寧にナスリンへ差し出した。
「頼む。それと、敬語は必要な――」
「これはあなた様へ向けるべき礼節であり、お詫びでもあります、ブエンビ様。私はこれまで息子の人を見る目を疑い続けていました。見る目がなかったのは、私自身だったようです。あなた様は、敬意を払うに値するお方です。」
服を受け取ったナスリンは一礼すると、すぐに作業へ取りかかった。
ファリバへ的確に役割を割り振り、神器継承者たちへ道具の準備を指示していく手際の良さを見て、ブエンビは思わず口を開く。
「ジャスルも、ガシムという執事と同じだ。相当な実力者だし、そう簡単には死なない。」
作業の手を止めたナスリンが、ゆっくりと振り返る。
厳格な表情に一瞬驚きが浮かび、それはやがて穏やかな微笑みへと変わった。
「まさか、あの子をガシムのような歴戦の者と並べて評価してくださるとは。久しぶりに、あの子が照れる顔を見られそうで楽しみです。」
「……現状を客観的に評価しただけだ。他意はない。」
ナスリンは何も言わず微笑んだまま、再び作業へ戻る。一方のブエンビは、背中に冷や汗を流していた。
つい勢いで余計なことを言ってしまったと、少し後悔している。先ほどまでは半数ほどの者が結界を作るリフへ意識を向けていたというのに、今ではその視線がそっくり彼へ戻ってきてしまっていた。
「結界できたよ~!ブエンビ、わたしを手伝って!」
「今行く!!」
突風が吹き抜け、一同の目に残ったのは残像だけだった。
視線がその逞しい背中を捉えた時には、閉じた影の幕が二人と寝台ごと包み込み、外からは一切窺うことのできない黒い手術室を形作っていた。
同時に、空中へ浮かぶ薬瓶が次々と黒い結界の中へ吸い込まれていく。服の仕立て直しに追われるナスリンたちを除き、他の者たちは薬瓶が一本ずつ減っていく様子を固唾を呑んで見守っていた。
見上げるメルバノは唇を固く結び、胸に抱くカンガルの鏡をさらに強く抱き締める。
やがて、最後の一本が結界の中へと消えた。
治療も終盤に差しかかったのだと察した人々は、息を潜めたまま、黒い結界の変化を見守り続ける。
黒い帳が、すっと降りた。
視界を遮っていた幕が消えると、三人の姿が再び人々の前に現れる。ブエンビはウスタドの身体を支え、リフは寝台の縁によじ登って彼の様子を覗き込んでいた。
ウスタドは腰に巻かれた一枚の布以外、何も身につけていない。しかし、そのおかげで傷一つ残っていない肌と四肢がいっそう際立って見えた。先ほどまで血に染まっていた寝台もすっかり清められ、あまりの変わりように、青年は最初から怪我など負っていなかったのではないかと錯覚するほどだった。
「ウスタド、話せるか?俺たちが誰か分かるか?身体に違和感はないか?」
虚ろだった瞳に、少しずつ光が戻っていく。
ウスタドはブエンビとリフの顔を順番に見つめ、まだぎこちない動きながらも、小さく頷いた。
「……はい。ブエンビさん、リフ様。もう、身体は痛くありません。」
「よかったぁ!治療、大成功だね!」
先ほどまでブエンビの指示に従って位置を確認し、自分の手で一つひとつ処置を行ったことを思い返し、リフの胸は達成感でいっぱいになる。
彼女はブエンビを見上げると、大げさな仕草で額に存在しない汗を拭った。
「ふぅ――ウスタドをイケメンに戻すのって、すっごく大変だったね。ブエンビ、わたしの出来はどうだった?」
「いっぱい褒めてほしい」と言わんばかりの表情を向けられ、ブエンビは思わず笑みを漏らす。彼はしゃがみ込み、優しくその銀髪を撫でた。
「最高だった。お姫ちゃんの魔力操作は芸術の域だ。さすがはウテノヴァで一番優秀な教え子だな。」
「えへへ~」
「ほら、手術の後は体力補給のおやつだ。」
「わぁ~!パルバルダがこんなにいっぱい!」
夜食を「あーん」と食べさせてもらうのは初めてのリフは、待ちきれない様子で甘いお菓子を頬張る。その小さな身体からは、幸せそうな空気がふんわりと溢れていた。
――ぽたっ、ぽたっ。
その音に、ブエンビとリフは同時に振り返った。
青年の顎を伝った涙が、固く握り締められた拳へと次々に落ちていく――静かな氷青の瞳が、激しい怒りと悲しみに染まっているのを見た瞬間、二人は揃って慌てた。
「ウスタド、お前はもう十分頑張った!あとは俺があの罪人どもを徹底的に叩きのめす!!」
「覚醒薬もまだ何本か持ってるよ!飲んで元気を出して――!」
数本の薬瓶がウスタドの前へ飛び、早く飲むよう促す。しかし、ウスタドはゆっくりと首を横に振り、ブエンビを真っ直ぐ見つめた。
「……ブエンビさん。リフ様へお願いしていた、あのお話は全部聞こえていました。」
「意識があったのか!?すまない、もっと早く気づくべきだった……」
「どうして謝るんですか!あなたが自分を責める必要なんてありません!」
振り下ろされた拳が、仮設の寝台の土台にひびを走らせる。赤くなった拳など気にも留めず、ウスタドの感情はさらに激しさを増していった。
「オアシスに滞在していた時、私にそう言わなかったですか!?北脊山脈を自分の意志で下りた、その覚悟と決断を誇るべきだと!だから私は、ウルクイへ来ると決めたことを一度も後悔していません!ここで経験したすべては、自分自身が選んだ道の結果です!」
「それなのに、あなたはご自身の尊厳も誇りも捨てて、他人の選択の代償を背負おうとしている……!私は認めません!そんなものをあなたが背負う必要なんて、どこにもありません!」
ブエンビは、一瞬言葉を失った。
燃え上がるような氷青の瞳を静かに見つめ、やがて小さく息を吐く。
「ウスタド。俺が運命へ介入したからこそ、お前の前にその分岐が現れたんだ。」
「本来なら、お前の人生は北脊山脈で穏やかに幕を下ろしていたはずだった。俺の余計な行動が、お前に本来味わう必要のなかった苦しみを与えてしまった。だから俺は、あの日の選択に責任を負わなければならない」
「勝手に決めないでください!私は、あなたに自分の人生を犠牲にしてまで償ってほしいなんて思っていません!」
「犠牲じゃない。ただ、運命を変えた代償を引き受けるだけだ。お前の時間の方がずっと価値がある。だから俺は、お前をこんなところで立ち止まらせるつもりはない」
「……私の人生は、あなたの時間より価値があると、本気でそう思っているんですか?」
「もちろんだ。前にも言っただろう?お前には才能がある。きっとアワミルとは違う、新たな輝かしい功績を築けるはずだ。」
――わセイ、さすがにツッコミを入れたくなっちゃうわね。幽魂使の立場だけで考えれば、ブエンビの言っている「時間」の価値は別に間違っていないのよ……。でも、この場でそんな言い方をしたら、百パーセント不正解でしょう?
ブエンビの正体を知っているのは、リフとフェレドゥンだけ。だから、それ以外のみんなは当然に言葉どおりの意味で受け取るしかない。その結果――ブエンビの目には「大人しくて可愛い子犬」にしか見えていないウスタド、心の中ではもう完全に大暴走しちゃってるわ。
カンガル一族は、主と認めた相手にはこの上なく忠実な一族。だけどね、それは決して「愚かに従うこと」を信条としている、という意味じゃないのよ。
「リフ様。お願いがございます」
「うん?どうしたの?」
涙の名残は氷の粒となって、ウスタドの頬からさらさらと零れ落ちる。洗い清められたような澄んだ瞳には、揺るぎない決意が宿っていた。
「カンガル一族のウスタドは、大荒漠の太陽と月、そして死の神に誓います。この身が生涯をかけて生み出すすべての価値を、治療の代償としてリフ様へ捧げます。どうか、ブエンビさんが先ほど立てた誓いを、お取り消しください。」
「何を馬鹿なことを言ってるんだ、ウスタド!?」
勢いよく立ち上がったブエンビが、ウスタドの肩を掴む。だが青年は少しも揺らぐことなく、まっすぐリフだけを見つめ続けていた。
その視線を受けたリフは、彼の感情の揺らぎをじっと観測し、何かを考えるような表情になる。
「お姫ちゃん、そんな話は聞き流せ!彼は治ったばかりで頭が回ってないんだ!少し休ませれば元に戻る!」
「うん、ウスタドのお願いは受けるね。その代わり、あなたがこれからどんなことを成し遂げるのかを見届けてから、それに見合う代償を受け取ることにするよ。」
「ありがとうございます、リフ様。」
「お姫ちゃん!?そんな戯言を簡単に――」
「ブエンビの気持ちを尊重したように、私もウスタドの覚悟を尊重したいの。それに、ブエンビも言ってたでしょ?ウスタドはこれからすごい人になるって!だったら、ブエンビが先にウスタドへ投資して、私があとでその返してもらうはずだった代償を受け取るって考えればいいんだよ!ほら、何の問題もないでしょ!」
「大ありだ!俺は最初から、彼に何かを求めるつもりなんてない!」
「だめ、このまま決まり!まだ反対するなら、わたしは泣いちゃうからね!」
「うっ……!」
さすがはリフね~必殺技が綺麗に決まって、ブエンビは一撃でノックアウト。完全敗北した彼はウスタドの肩から手を放し、自分の頭を片手で押さえた。
「まったく……!お姫ちゃんはともかく、お前までどうしてアワミル以上に頑固なんだ!」
「どうか、ご先祖様と私をいつも比べないでください!あなたが知るべきなのは、今を生きている私です!何百年も昔の人ではありません!」
「…………」
あら、これは思いがけず急所に入った一撃ね。ブエンビが「どっちも知っている」なんて本当のことを言えるはずもないもの。だから、おとなしく黙るしかなくなっちゃった。
それにしても……後ろに立っているフェレドゥン、口元を押さえて笑いを堪えているじゃない。こんな状況でも見物を楽しむ余裕があるなんて、本当に食えないおじいさんなんだから。
「ブエンビ様。仕立て直しが終わりました――」
「よし、ウスタド、着替えだ!お姫ちゃん、更衣用の、ちゃんとプライバシーに配慮した結界を頼む!」
ブエンビはナスリンの手から服をさっと受け取ると、そのままウスタドへ押し渡し、自分は素早く結界の外へ退いた。影の幕が立ち上るのを見届けて密かに安堵していると、ちょうどリフが何とも言えない目でこちらを見ていることに気づく。
「……どうした、お姫ちゃん?」
「ううん。ただ、ブエンビって細やかなところと不器用なところが、どっちもすごく目立つなぁって思っただけ~」
「待て、それどういう評価なんだ……」
「ショルパン、お待たせー!今すぐ手を生やしてあげるね!」
リフはブエンビの疑問を置き去りにし、そのまま一直線にショルパンの寝台へ駆け寄る。
ショルパンは、自分のひ孫よりも幼く見えるその小さな女の子を見つめ、目元も口元も柔らかく弧を描いた。
「全然待ってなんかいないよ……まだ五分しか経っていないもの。最前線で怪我をしたら、何日も待たされるのが当たり前なんだからねぇ……」
「そんなにかかるの!?人間種の戦場医療って、私が思ってたよりずっと遅いんだね。」
「なかなか手厳しいお姫様だねぇ。実は、ひとつお願いがあるんだけれど……」
「もうお願いは禁止!大人しく寝たまま治療を受けて!」
「お願い」という言葉に過剰なまでに反応したブエンビを見て、ショルパンは思わず吹き出した。肩を小さく震わせながら、力のない、それでも心から楽しそうな笑い声を漏らす。
「ふふっ、そんなに身構えなくてもいいよ……。ただ、治療の様子をみんなにも見せてあげてほしいんだ。ウスタドと比べれば、私の怪我はそこまで重くないからねぇ。」
「そういうことか。じゃあ、今回は結界は張らなくてもいいかな?」
「本人が気にしないと言うなら、その意思を尊重しよう。ただ、ほかの子どもたちは少し離れさせておこう。」
ブエンビが王族の方へ目を向ける――その時にはすでに、フェレドゥンが孫たちを促してその場を離れ始めていた。傍らの王族の女性たちは、あまりにも手際の良い彼の行動に驚いた様子を見せたものの、すぐに後を追って子どもたちの様子を見に行く。
ただ一人、その場に残ったレザは父と視線を交わしてから、リフとブエンビの前へ歩み寄った。
「これで準備は整いました。子どもたちへのご配慮は誠にありがとうございます、ブエンビ様。」
「だから、敬語はいらないと――」
「そうだよ!ブエンビって本当に気が利くんだから!旅の間も、いつもわたしの三食とおやつを作ってくれるし、いろんな歴史や物語も教えてくれるの!夜は一緒に遊んでくれたあと、大きなクマさん抱き枕にもなってくれるの!本当に何でもできる完璧な子守さんなんだよ!」
「今そこは重要じゃない、お姫ちゃん!!まずは治療を終わらせろ!!!」
「はいはい~。ブエンビって、やっぱり今日も素直じゃないね~」
「…………お姫ちゃん。右腕と左脚の腱の再生を頼む。外傷薬と鎮痛薬を少し渡してくれ。細かい傷は俺が処置する。」
「はーい~」
リフの笑顔があまりにも眩しく、ブエンビのこめかみに青筋が浮かぶ。
彼女が何を企んでいるのかは分かっていた。だが、反論しても無駄だということも分かっている。だから彼は余計なことは考えず、治療へ集中することにした。
ムビナから器具を借りると、神器継承者たちも次々に集まり、手伝いや見学の準備を始める。そこでブエンビは、薬を塗る作業を普段からショルパンと親しい者たちへ任せ、自分は鎮痛薬を染み込ませた術刀で損傷した皮膚や肉を切除することに専念した。
ウスタドの治療時とは違い、今回はリフが魔力で切除を行う前に、ことさら頻繁にブエンビへ確認を求めてくる。その「何も分かっていません」と言わんばかりの無垢な顔を前に、ブエンビは心の中でため息をつきながら、人体の正確な位置を一つひとつ丁寧に指示していくしかなかった。
その結果、本来なら二分もあれば終わるはずの治療は、五分近くまで引き延ばされることになった。
ショルパンの右腕と左脚が完全に元へ戻ると、感極まったムビナはそのまま親友へ飛びついた。皆の意識がその騒ぎへ向いた隙に、術刀を置いたブエンビは静かに人混みの後ろへ下がる。
息を潜め、気配をできる限り薄くする――もっとも、リフはそんな願いを叶えるつもりなどなかった。
突然、胸元をくいっと引っ張られたことに気づいたブエンビは、一瞬だけ慌ててリフを受け止め、そっと地面へ降ろす。
「お姫ちゃん、次から瞬間移動する前には一声――ぐふっ!?」
「治療お疲れさま!今度はわたしがブエンビに元気の出るおやつをあげる番だよ~」
絶妙な角度で飛び込んできたバクラヴァが、見事にブエンビの口を塞ぐ。彼は慌てて咀嚼して飲み込んだものの、その味が王太后の宮で振る舞われた菓子と同じであることに気づいた。
「お姫ちゃん。好きな菓子なら、自分で食べていればいい。俺に気を遣わなくていいんだ。」
「でも、ブエンビの方がわたしよりエレフのお菓子が好きでしょ~?だから、これはブエンビのために取っておいたの。おいしい?」
「……ああ、とても美味しい。ありがとう。」
「えへへ、どういたしまして~。一緒にウスタドの様子を見に行こう!」
「……ああ。」
リフはブエンビの手を引き、そのまま横へ歩き出した。彼女の歩幅に合わせるため、逞しい体躯のブエンビは腰をかがめ、背中を丸めて歩かざるを得ない。その光景は傍から見れば、まるで大人と子どもの立場が逆転してしまったかのようだった。
周囲の感情の揺らぎを感じ取ったリフは、「ブエンビのイメージアップ大作戦」が大成功したと確信する。弾む気持ちは、そのままぴょんぴょん跳ねる足取りにも表れていた。
ウスタドの寝台の前まで来ると、ずっと傍らに立っていたメルバノが静かに頷く。リフは満面の笑みを返し、そのまま結界を解除した。
二人の前に姿を現したのは、すでに身支度を整え終えたウスタドだった。治療を終えたショルパンを一目見て安堵すると、彼は感謝を込めてリフとブエンビへ深く一礼する。
「リフ様、ブエンビさん。本当にありがとうございました。お二人には、感謝してもしきれません。」
「ウスタド、服のサイズは大丈夫?」
「はい。ズボンの裾は少しゆとりがありますが、動くのに支障はありません。」
「それならよかった。ここまで私の服を仕立て直せるなんて、ナスリンとファリバは本当に腕がいいな。」
「……これは、ブエンビさんのお召し物だったのですか?」
「ああ。俺の魔道具は他人には譲れないからな。普通の服を一着渡すしかなかった。ひとまずそれで我慢してくれ、騒ぎが収まったら捨てて――」
「ありがとうございます!ブエンビさん!」
ウスタドの表情が一気に輝く。
「今の私は、まるで無二の鎧を身にまとったような心強さを感じています!」
「おい、人の話を最後まで聞け。ただの服だぞ……」
「構いません!ブエンビさん、これは家宝として末永く大切にします!」
「……そうか……好きにするといい。」
ひとしきり葛藤した末に、ブエンビは結局、断り切ることができなかった。
昔、アワミルの長男が生まれた頃——見舞いに訪れた彼は、夫婦に頼み込まれ、子どもの護符代わりとして身につけていた私物を一つ置いていったことがある。その話が広まると、ほかのカンガルの族人も次々と真似を始め、ついには彼にゆかりのある品を専門に売買する闇市場まで生まれてしまったのだった……
そこまで思い返したブエンビは、目の前の青年のまっすぐな眼差しと無邪気な笑顔を見て、少しだけ心が軽くなる。少なくともウスタドは、ただ純粋に彼の服を護符として大切にしようとしているだけだ。先祖たちのように、あそこまで暴走しているわけではないのだから。
その時、それまで少し離れた場所で様子を見守っていたメルバノが、おずおずと歩み寄ってきた。
長い間胸に抱えていたカンガルの鏡を、そっとウスタドへ差し出す。鏡に広がっていた暗赤色の血痕は、浄化の力によって少しずつ消え去り、本来の白く澄みきった姿を取り戻していた。
「ウスタド……これ、返すね。」
「ありがとう、メルバノ。血ってこんなに簡単に落とせるんだ。カレス一族って、本当にすごいね。」
鏡を受け取ったウスタドは、晴れやかな笑みを浮かべる。その声にも表情にも、先ほどまでの陰りは欠片も残っていなかった。
その傷一つない顔を見つめながら、メルバノは思わず自分の腕をぎゅっと握り締める。
「……ごめんなさい。私のせいで、あなたがファロクに目をつけられて……あんなにつらい目に遭わせてしまって……」
治療があまりにも完璧だったからこそ、先ほど目に焼き付いたあの凄惨な光景は、かえってメルバノの脳裏から離れなくなっていた。
――ウスタドが周囲の誤解をあえて受け入れていたのは、仲間として彼女の秘密を守るためだった。彼女が口にしたわがままな願いが、かえってファロクにウスタドを宿敵と認識させ、あの理不尽な災厄を招いてしまったのだ……。
そう思った瞬間、メルバノの瞳から再び涙が溢れ出す。鏡をしまい終えたウスタドは顔を上げるなり、その光景を目にして慌てふためいた。
「ま、待って!泣くなって!これ以上泣いたら、すごくブサイクになるぞ!」
「慰め方が最低すぎるわよ!!淑女の敵にでもなるつもり!?」
「えっ!?ち、違う!悪気はないんだ!だって君はすごく綺麗なんだから!そんなことでブサイクになったら、もったいないだろ!」
「……もうっ!本当に、話し方ってものを知らないんだから!」
涙を引っ込める代わりに顔を真っ赤にしたメルバノは、うろたえるウスタドを思いきり睨みつけた。
ウスタドの言葉に嘘がないことくらい、彼女にも分かっている。だからこそ、その気遣いの足りない真っ直ぐさに、どう返せばいいのか分からなくなってしまうのだった。
……そのせいで、心をかき乱されていたメルバノは、周囲の空気が少しずつ変わっていることにも気づかなかった。
先ほどまで談笑していたショルパンたちはいつの間にか口を閉ざし、興味深そうに二人のやり取りを見守っている。レザも笑いを堪えるような表情を浮かべながら、ウスタドと年下の従妹へ向ける視線に、からかうような色を滲ませていた。
そして、リフの反応は言うまでもない。いつ暴走して飛び出していってもおかしくない彼女を止めるため、ブエンビは何気ない仕草で大きな手を伸ばし、気づかれないようその場へそっと縫い留めていた。
「何というか……私から見れば、メルバノはただ一方的にあのクズでなしに付きまとわれた被害者なんだ。だから、自分一人で全部背負い込む必要なんてないよ。」
「あなたの言いたいことは分かるわ。でも、本来あなたまで私とハミド家の因縁に巻き込まれる必要はなかったでしょう……」
「大丈夫。それに、あんなことになったのは私自身にも責任があるから。」
メルバノはぴくりと眉を動かした。
次の瞬間、彼女はぐっとウスタドの顔へ詰め寄り、思わず彼を仰け反らせる。
「さっき『全部自分のせいにするな』って言ったのは誰だったかしら?まだ若いのに、もう物忘れでも始まったの?」
「違うんだ!あの状況で囲まれていたなら、できるだけ時間を稼いで救援を待つのが正解だった。でも俺は冷静でいられなくて、作戦を台無しにしてしまった。」
ウスタドは苦笑を漏らす。
「あのクズ野郎でなしがブエンビさんを侮辱したのを聞いた途端、頭に血が上ってしまったんだ。そのせいで相手を完全に怒らせて、助けに来てくれたショルパンまで巻き込んでしまった。」
「もしリフ様とブエンビさんが助けに来てくれなかったら、私は何の意味もなく死んでいたと思う。だから、この件でメルバノが悪いなんて、私は少しも思ってないよ。」
穏やかに微笑むその表情を見て、メルバノの胸はちくりと痛んだ。
あの時、彼女だってファロクの言動には激しい怒りを覚えていた。けれど王女という立場上、それを露骨に表へ出すことはできなかった。その代わりに、ウスタドは彼女が本当はやりたかったことを、すべてやってくれたのだ。
だからこそ、当の本人が気にしていないほど、彼女の胸の罪悪感は深くなっていく。
「……でも、それであなたが味わった苦しみまで、なかったことにはならないわ。」
「どうせメルバノのことがなくても、私とあのクズでなしはきっと敵同士になってたよ。それに、今までメルバノにはたくさん助けてもらったし。これでお互い様ってことでいいじゃないか。」
「お互い様、ですって……。みんなを救ったあなたの功績は、あなたが思っているよりずっと大きいのよ。もっと自分が何を望むのかを考えるべきだわ。」
「いや、私はこれで十分なんだ。それに正直に言うと、場面ごとに君を王女として扱わなきゃいけないの、ずっと面倒だと思ってたんだよ。飛空艇の一件から数えれば、私たちもある意味、生死を共にした仲だろ?君さえ嫌じゃなければ、これからも対等な友達として付き合っていきたい。」
まっすぐ差し出されたその手に、メルバノは一瞬目を丸くした。
顔を上げてウスタドの表情を窺う——そこにあったのは、思わず呆れてしまうほど飾り気のない、真っ直ぐな笑顔だけだった。それを見て、彼女は危うく吹き出しそうになる。
「本当に、あなたはお人好しなのか大らかなのか分からないわね。ウルクイ王家に恩を売る絶好の機会を自分から手放すなんて……あとで後悔しても知らないわよ。」
「私が知っているのは高貴な王女様じゃなくて、メルバノだからね。これからも、今までみたいによろしく。」
二人の手がそっと重なる。それは、仲間としての絆を改めて結び直す握手――少なくとも、ウスタドにとっては。
けれど、その光景を見守っていた人たちは、すでに十分すぎるほど想像を膨らませていた。とりわけ、さまざまな感情の流れを観測できるリフの心は、まるで火山が噴火する寸前のような大興奮状態になっていた。
(ブエンビ、ブエンビ――!二人とも、今すっごくいい雰囲気だよ!本で読んだことがあるの!これってきっと、『恋の芽が土を押し分けて顔を出す瞬間』ってやつだよね!)
(恋と言うには、まだ少し早いな。でも、生死を共にしたことで結ばれた絆は、たいてい特別に強くなる。それに、あの二人はどちらも本当にいい子だ。これから先は、期待できそうだな。)
(わたしもそう思う!途中で金髪の人でなしが邪魔しに出てきたけど、それでも二人が本来進むはずだった道は止められなかったんだね!きゃー!こんな臨場感たっぷりの青春恋愛喜劇、わたし初めて見たよ!すっごくわくわくするー!)
(ははっ、飛び跳ねるな。実は俺も、悲劇より喜劇の方が好きなんだ。)
(やったー!わたしたち、好みが一緒だね!)
その場でぴょんぴょん跳ね回るリフを押さえながら、ブエンビは困ったように、それでいてどこか優しい笑みを浮かべた。
――お姫ちゃんに答えた通り、彼もまた喜劇の方が好きだった。とりわけ、ウスタドのように平和な時代を生きる若者には、幸せで明るい未来を歩んでほしい。自分のように、運命という悲劇から逃れられなかった者の物語は……過去の歴史の中だけに残っていれば、それで十分なのだから。
前方へ視線を向けたブエンビは、リフの銀髪をそっと撫でる。その眼差しは穏やかで、どこまでも慈愛に満ちていた。どんな未来を迎えようと、あの二人はきっと、生涯にわたって良い関係を築いていくのだろう――彼はそう思っていた。
その頃――少し離れた場所では、王族の年長者たちもまた同じ話題で盛り上がっていた。
リフが風魔法で周囲の音を遮断していたものの、読唇術のできるパリーサには会話の内容がすべて筒抜けだった。笑みを隠しきれない彼女は、さっそく息子夫婦と孫の妻へその内容を伝える。
二言三言と言葉を交わしただけで、一同の意見はあっさり一致した。その瞬間から、全員がウスタドへ向ける視線はがらりと変わる。
それは、獲物を見定めるような鋭い眼差し。「未来の孫婿(姪婿・従妹婿)は、絶対に逃がしてはならない」――そんな強い決意が、ありありと宿っていた。
もっとも……その視線を向けられている当の本人は、何やら意味深な目で見られていることには気づいても、その本当の意味を理解できるようになるまで、まだまだ長い時間が必要だった。
⋯⋯⋯⋯
立ちこめていた重苦しい空気は、すっかり消え去っていた。
命に関わる危機は去り、頼もしい救い手も現れた。たとえ即席で築かれた氷の城塞の外に敵が残っていようとも、この場の誰もが、すべてはきっとうまく収まると信じている。交わされる言葉にも、和やかな空気が満ちていた。
その想いは、決して間違いではない。――けれど、気を緩めるにはまだ早すぎる。
なぜなら、二人の『逸脱者』によって交錯した運命の節点は――その揺らぎも、その転変も、まだ完全には収束していないのだから。
⋯⋯⋯⋯
――激しい衝撃が、突如として大広間の床を揺るがした。
人々が互いに支え合って転倒を防ぐ中、轟音が立て続けに響き渡る。全員の視線の先で、この空間を隔てていた氷壁には大きな亀裂が走り、今にも崩れ落ちそうな様相を呈していた。
「防御陣形を組め!皆様は後方へ!」
「下がってたまるか!傷ならもう全部治った!むしろ真っ先に前へ出るべきは私だ!」
「ショルパン、俺たちも一緒に行こう。互いの異能なら連携できる。」
「ははっ、いつでも歓迎だ!」
布陣はわずか数秒で整えられた。
近衛と影衛が戦闘能力のない者たちを内側で囲み、ショルパン、ムビナ、イモナ、グルラクの四人が最前線で警戒に当たる。
その時だった――空間感知で外の様子を探っていたリフが、ある一角の氷壁へ向かって一目散に駆け出す。ブエンビも即座に後を追い、ウスタドもそれを見て迷わず駆け寄った。
「ブエンビ!ハミド家のその祖孫が魔道具でここを壊そうとしてる!私の重力魔法も、届く前に変な力場で打ち消されちゃったの!あれ、ウテノヴァが言ってた『古代遺物』だよ!」
「……青翼天族の遺産か。まったく、厄介な代物を持ち出してきたものだ。」
「でもね、ウテノヴァも『あれは耐久性の低い失敗作だ』って言ってたよ!ブエンビが翼竜をぶっ飛ばした時みたいに、『どーん!』って一発やれば、そのまま壊れちゃうって!」
「分かった。その程度なら、刀でも斬れる。」
穏やかな表情を崩さぬまま、ブエンビは心の中で「耐久性が低い」という言葉に思わず突っ込みを入れた。
彼が拳でチラント翼竜を殴り飛ばせたのは、あくまでレイが作った魔道具の力を借りていたからだ。普通の人間が本気で殴れば、待っているのは見事な骨折――医学教材にでもなりそうな負傷例くらいのものである。
「リフ様、ブエンビさん!今すぐ防御を強化します!」
数歩後方にいたウスタドは、氷鏡を傍らに浮かせ、さらに堅固な障壁を展開しようとする。だが、その視界は前方で掲げられた逞しい腕によって遮られた。
「やめろ、ウスタド。精神力を無駄にするな。」
「ですが、ブエンビさん……」
「奴らの相手は俺に任せろ。神器を持つお前は後方で皆を守れ。その方が、俺も安心して戦える。」
「……!はい!ご期待は絶対に裏切りません!」
信頼に満ちた光を宿した瞳で力強く頷くと、ウスタドは迷うことなく踵を返して駆け出した。その背中と、傍らを静かに浮遊する氷鏡を見つめながら、ブエンビは胸の内でそっと詫びる。
彼が生きていた時代では、前線に立つ将や兵のほとんどが、ああして自在に神器を操っていた。戦場を駆ける彼らにとって、最も効率よく精神力を引き出せるものは――純粋な「殺意」。しかも、それは意図して身につけるものですらなかった。
だが……それは、平和な時代を生きるウスタドが手にすべき力ではない。
――ハミド家のその祖孫は、彼が始末する。ウスタドに、不必要な覚悟を背負わせるつもりはない。
「……ブエンビ?大丈夫?」
気がつくと、長衣の裾は何度も小さく引っ張られていた。
「……ああ、大丈夫だ。」
「安心してね、私も一緒に戦うから!もう二度と、あの最低なやつにブエンビの指を切らせたりしない!」
ぷくっと頬を膨らませ、小さな拳を掲げるリフの姿に、ブエンビは思わず微笑む。
「安心しろ、お姫ちゃん。」
背へ回した手が柄を握り、鋭い長刀を静かに引き抜く。
「故人との縁など――あの腐りきった子孫どもが、とっくに踏みにじってしまった。」
次の瞬間、再び轟音が響き渡る。
大広間を囲んでいた堅牢な氷壁は、その一撃に耐えきれず砕け散った。
空間結界と降り注ぐ氷の破片を隔てて――ブエンビは真正面に立つトクタールへ、静かに刀を向けた。




