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19.王子の騎士は、愚かな娘に愛を伝える

 エリックがそっと手を伸ばし、仮面の下から露わになったアイラの頬に触れる。その瞬間、彼女は動きを止めた。


「……痛くない?」


 エリックの問いかけに、アイラは怯えるように小さく頷くだけ。

 その姿に、胸の奥に複雑な感情が込み上がる。彼女がどれほど孤独と偏見に苦しんできたのか、その深さを垣間見た気がして。


「俺が逃げ出すと思った?」

 少し笑って尋ねてみる。


 アイラは一瞬迷い、そしてまた小さく頷いた。

 その仕草に、心は再び締めつけられる。


(俺をそんなに信用していないのか? でも、それだけの経験をしてきたんだよな……)


 顔の傷なんて関係ない。

 アイラの存在は、そんな表面的なものじゃない。


「やっと会えたんだ、逃げ出すわけがない」

「? あ、あの、私はまだ父のことでご協力することがあるのでしょうか? それとも、エリック様は、私を……捕まえに?」


 エリックの胸の内で、アイラへの愛おしさが一層募った。

 彼女にとっての苦しみが、もうこれ以上増えないように、そしてそのままの自分でいられるように、守ってやりたいと思う。


 エリックが半歩離れ、触れていた右頬から手を離すと、アイラは酷く悲しそうな顔をした。

 その表情に、思わず口元がほころんだ。

 それは、自分の気持ちがアイラと同じだと分かったからだ。

 エリックだって離れたくない。


 それから、静かに片膝をつき、アイラに向き合った。彼女から離れたのは、こうしたかったからだ。


「アイラ、俺は君が好きだ。愛してる」


 その言葉に、アイラの表情は驚愕に染まり、間髪入れず、「嘘です」と否定の言葉が返ってきた。

 その即答ぶりに、エリックは苦笑しながらも、内心で少しだけ傷ついている自分を自覚する。


「嘘じゃないよ」


 心の奥底から湧き上がる感情を隠すことなく、エリックは真っ直ぐにそう言った。

 アイラの目にはまだ疑念が残っている。


「もう好きなふりは必要ありません。私、何でも協力します。逃げたりしません」


 その言葉に、胸が痛む。


 彼女がこれほどまでに自分を価値のない存在だと思い込んでいることが、何よりも辛かった。

 自分がここにいる理由は、もう王子の命令だけではないことを、彼女に伝えたくてたまらなかった。


「確かに王子の命で、アイラに近付いた。だけど、君の力になりたいと思ったのも、好きな気持ちも本当なんだ。……仕事とはいえ、酷いことをした。申し訳なかった。……本当にごめん」


 アイラが静かに首を振る。


 それはエリックの気持ちを信じられない、という意味なのだろうか。それとも、『許してくれる』と受け止めた、ということなのか。

 どちらにせよ、伝えたいことは変わらない。


「チャンスがほしい。俺にもう一度チャンスをくれないか?」


 アイラはエリックの手を見つめたが、無言で応えた。


 だが、その拒絶に傷つくことはなかった。

 いや、まったく傷つかなかったと言えば嘘になるのだが。


「私は罪人の娘です。今は名前を偽り、お世話になっている方々を欺いています。王子殿下に仕える近衛騎士様に釣り合う人間ではありません」


 エリックに挟む余地を与えない早口のアイラに、エリックはまた笑った。

 だって、アイラの顔を見れば、彼女の気持ちは一目瞭然だ。


 エリックは、立ち上がり、『どうして笑うんですか』とでも言うようなアイラの手を引き、右頬に唇を寄せる。


「アイラ、君は父上の悪事の証拠を王子に送ってくれた。領民のために手を尽くしてきた。アイラは『若輩者の考えるままごとのような商売』と言ったけど、そんなことない。君がやってきたことは全部、誇らしいことだよ」


 静かに息を飲む気配が伝わってくる。その反応にエリックは微笑むと、続けた。


「それに、家の金には手を付けず、使用人たちが困らないように手配をして出て行ったよね? そんな君を、罰する理由なんてどこにもないんだ」


 アイラは目を伏せて微かに唇を震わせていた。


「万一、罪に問われたとしても、俺には切り札がある」

「……切り札、ですか?」

「うん。俺の実の父親が、一度だけ俺に手を貸してくれる約束があるんだ」


 エリックの言葉に、アイラは困惑したように首を傾げる。

 その瞳にはわずかに光が差し込み始めていた……気がする。願望かもしれないが。


 切り札。それは実の父親が一度だけエリックに手を貸してくれる権利のことだ。

 養父宛ての手紙にそう書かれていたそうで、この話はエリックが一八を迎えたその日に養父から聞いた。

 一度だけ、と強調するところを、『あの方らしいな』と思う。


(一生使うことはないと思っていたけど……。使えるものは何でも使ってやる)


「アイラ。もし、罰せられることがないとして。もし、今使っている名前と今持っている肩書で生きていけるとして。他に君の憂いはある?」

「……み、身分が」

「身分?」

「エリック様は貴族で、私は平民です」


 エリックは少し驚き、そして笑みを浮かべた。


「今日の会に参加している者でそんなことを気にする人間がいるとは思えないな。そもそも俺は爵位を継げない三男だよ?」

「オ、オリヴィアさんが、いるじゃないですかっ。あの方と、お付き合いを……しているのでしょう?」

「してないよ。オリヴィアは同期で……それに今は、グレイシャルノースで強制労働をしている。それに、彼女は俺のことが嫌いだよ。貯蔵庫で、君がいるのを知っててわざと出鱈目なことを言ったんだ」

「……え?」


 アイラは、理解が追い付かない、とでも言うように首を傾げてから視線をうろつかせた。

 オリヴィアの話をした時の同卒の女性騎士も、今のアイラと同じような反応をしていた。


「俺が嫌いならそう言って。諦め──」

「い、いいえ!」


 ──諦めたりなんてしないけど、と言おうとしたエリックの言葉に、慌てたアイラの声が被さる。


「いいえ、いいえ……! わ、私は、私は……エリック様をお慕いしております……! で、でも、私は罪人の──」

「もう黙って」


 エリックは、再び自分を卑下しようとするアイラの肩を引き寄せ、その華奢な体を強く抱きしめた。

 彼女の頬がエリックの胸にそっと触れ、小さな震えが伝わってきた。


「俺にプリュムの花を、二輪贈らせてくれないか?」


 アイラが送ってくれた栞には、プリュムの花が一輪だけ慎重に押し花にされて挟んであった。


「二輪になると意味が変わるんだよね?」


 アイラは小さく息を呑んだ。


 エリックの指先がそっとアイラの髪に触れ、ゆっくりと撫で下ろしていく。


「二輪のプリュムの花言葉は、『比翼連理』──お互いを支え合い、一つの体のように生きる、夫婦の象徴。異国では、一輪のプリュムの花言葉は『求婚』『ひたむきな想い』『誓い』を意味する。そして、それに対して二輪の花を返すことで婚約が成立する。……知ってるでしょ?」


 エリックはそっと彼女の肩を抱きしめ直し、穏やかな表情を浮かべながら続ける。


「アイラは、一輪の意味しか教えてくれなかったけど、領の子供たちは教えてくれたよ」

「……」

「君にプリュムの花の栞を貰ったって言ったとき、あの子たちがなんて言ったと思う? 『お嬢様、格好いい!』だってさ。逆に俺は格好悪いって笑われたな」


 アイラの瞳に、ようやく小さな笑みが浮かぶ。

 エリックはその笑顔を見逃さなかった。続けて、ゆっくりと言葉を紡ぐ。


「ねえ、アイラ。あの子たちに報告に行かないか? 君が無事だって知らせに行こう。あの子たちも、領民たちも、みんな君を心配してるよ。感謝の言葉を言いたがってる。君に会いたいって、ずっと言ってるんだ」


 アイラは震えながらもエリックの背中にそっと手を回し、腕の中に身を委ねるように寄り添った。その瞬間、二人の間に流れる温かな感情が、言葉を超えて通じ合った。

 エリックの胸には、彼女の小さなぬくもりがじんわりと染み込み、心を満たしていく。


「……二輪、贈ってもいいよね?」


 不安げに問いかけると、アイラは涙で濡れた瞳でエリックを見上げ、大きく頷いた。


「はい」


 その姿を見たエリックの胸は、喜びでいっぱいになった。




 ◇◇◇




「えっ? ……アイラが『レイラ先生』なのか!?」


 妹とその友人が推している人物がアイラだと分かったエリックは、『レイラ先生とのお茶会』を十回以上断った過去の自分を心の中で罵倒した。出来ることなら、過去に戻ってぶん殴りたい。


「まさか、エリック様がメイブルお嬢様のお兄様なんて思いもしませんでした。家名も仰っていませんでしたし……」

「ああ、うん。メイは言わないんだよね。『言わなくても、分かってる』と思い込んでるタイプでさ。今度帰ったら、よく言って聞かせるよ」




 ──あれから。


 エリックは、アイラの右頬の皮膚疾患が溶けたのを見て、大慌てで医務室に連れて行った。

 その焦りようは、自分でも笑えるほどだったが、この時点では彼女の涙で溶けたのが絵だとは気づいていなかったのだ。

 結局、ただの絵だったと分かり、お湯で洗えば元のつるんとした肌が現れたものの、あの時の寿命は確実に縮んだ。……本当に縮んだ。


 その後、二人はじっくりと話し合い、誤解もすっかり解けた。

 今は、エリックの部屋で温かいお茶を飲みながら、静かな時間を過ごしている。



 そのとき、突然、部屋の外から低い鐘の音が響いた。



 ゴォオン、という重々しい響きが二人の静かな空間を揺らし、二人は顔を見合わせた。


「もう時間だね。送るよ」


 エリックがそう言うと、アイラは唇を噛み、頬をわずかに赤らめて呟いた。


「……私、もう、門限なんてありません」


 照れと覚悟が入り混じったその言葉に、エリックはわずかに目を見開き、やさしく微笑む。

 彼女の前に膝をつき、そっとカップを受け取ると、その指先に自分の指を重ねた。


「……それって……朝まで、ここにいてくれるってこと?」


 アイラは、恥じらいを帯びたまま、こくんと小さく頷いた。

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