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20.愚かな娘は、王子の騎士の腕の中

 朝の光がゆっくりと部屋を照らし始めた頃、アイラはそっと目を開けた。


 甘い蜂蜜色の瞳が、まっすぐに自分を見下ろしているのに気づき、息を呑む。

 その瞳は温かな陽だまりのように、アイラをそっと包み込み、安心感と喜びがじんわりと広がっていく。


(……なんて素敵な夢なのかしら)


 まるで魔法にかけられたような、そんな夢。


 いつだったか、目覚めた瞬間にすべてが消えてしまった夢よりも鮮やかで、鮮明だ。


「おはよう、アイラ」


(……毎日、この(あさ)を繰り返したいわ)


 エリックの前髪が下りているのを目にしたのは、初めてだった。

 いつもはきっちりと上げられているその前髪が、今日はさらりと額にかかっていて、思わずじっと見つめてしまった。

 前髪を上げているときは年相応の落ち着きと凛々しさが感じられるエリックも、こうして前髪を下ろしていると驚くほど幼く見えて──まるで、同じくらいの年齢に思える。


(なんだか可愛らしい……)


 その無防備であどけない表情に、アイラの胸はキュンとときめく。


 こんな風に彼を独り占めできるのは、夢の中だけかもしれない。だからこそ、この瞬間を大切に閉じ込めておきたかった。


 アイラはそっと手を伸ばした。

 が、その手が優しく捕まえられてしまう。


 どうしてだろう? ここは夢の中のはずなのに。


「アイラ、寝惚けてるね。朝が弱いのかな? ……起きられそう?」


 エリックの言葉で、アイラの口元がほころんだ。

 自分でも分かる。今の自分は、きっとひどくだらしない顔をしているに違いない。

 けれど、この笑みを抑えようとは思わなかった。


(やっぱり素敵な夢)


「まだ起きたくないです……」


(だって、もっとこの幸せの中に浸っていたいもの)


 アイラの甘えるような言葉に、エリックは「うん、俺もそうしたいのは山々なんだけどね……もう昼も近いし」と、申し訳なさと嬉しさが混じった声で、アイラをそっと夢の中から現実へと引き戻すように続ける。


「今日はせっかくアイラの仕事の休みと俺の非番が重なってるから、根回し……じゃなくて、各所に報告しに行きたいんだ。それには君にも一緒に来てほしくて……ごめんね。まだ寝ていたいのは分かるんだけど、起きてもらってもいいかな?」


 その言葉を耳にした瞬間、アイラは眠気が一気に吹き飛び、完全に目を覚ました。

 心臓が速く脈打ち、全身に緊張が走り、身体が一瞬にして覚醒し、感覚が鋭くなったように感じる。

 心の中に広がる緊張感がアイラを現実に引き戻し、まるで冷水を浴びたかのように頭が冴え渡った。


「あ、あの、お、おは、おはようございます……っ」


 ガバッと起き上がり、もあもあしているであろう頭を両手で押さえ、部屋を見渡す。

 アイラの住んでいる部屋より、少し広い──だけど、自分の部屋よりは格段に質の良い造りをしていた──部屋の中は日当たりが良く、温かい光が隅々まで満ちていた。


 壁には柔らかなクリーム色のペンキが塗られ、大きな窓からは風に揺れる木々の葉がささやく音が微かに聞こえてくる。

 部屋の隅には小さな書斎スペースがあり、整然と並べられた書類やペンが、エリックの几帳面さを物語っていた。


「……昨日のことは覚えている? 実は酔っていて、記憶がないなんてことはない……よね?」


 不安げなエリックの声に、アイラは首がもげそうな勢いでぶんぶん頷いた。頷くことで安心させようと必死だった。


 鼓動が響き渡り、顔が熱くなっていくのを感じる。


 昨夜のことなら、もちろん。すべて。余すことなく覚えている。


 プリュムの花を二輪贈っていいか、と聞かれたことも、アイラが駄々を捏ねてこの部屋に居座り、今の今まで、ぐっすり眠ってしまったことも……。


「お、覚えています……私、昨日、眠ってしまって……ごめんなさい……本当に、ごめんなさい」


 エリックの寝床を半分も奪ってしまったことへの罪悪感で項垂れるアイラにも、やはり彼は優しかった。


「い、いや、いいんだ。まだ挨拶も済んでいないうちから雰囲気で流されて、というのは良くないし」

「え?」

「それに、俺は好きなものは最後まで取っておいて、大事に食べるタイプだから」

「? あの?」


 何やらしどろもどろなエリックの言葉の意味が分からず、きょとんとしてしまうアイラに、彼は『しまった』というような顔をしたが、それはほんの一瞬だけだった。


「あー……うん。まあ、えっと、俺は怒ってないってことだよ、ごめんね。……その……そう、怒ってると誤解されたくなくて取り乱したんだ」


 光の中で、少し照れたように笑うエリックの顔を見つめながら、アイラはじわじわと込み上げるものを実感した。

 心がぽかぽかと温かく、全身にそのぬくもりが広がっていく。


 彼が自分にとって、どれだけ大切な存在になっているのか。その想いが静かに心に根を張っていくのを確かに感じる。


(この(ひと)が私の『帰る場所』なのね)


 その瞬間、アイラは実感が胸に押し寄せ、目頭が熱くなって視界がぼやけ始めた。


 感情の波が一気に溢れ出し、涙が自然と流れ出す。

 頬を伝う水は、温かく、まるで心の奥底から湧き出る泉のようだった。


「……アイラ、どうしたの? ……やっぱり、昨日のことが……嫌だった?」

「いいえ、いいえ。嫌なんて……絶対違います」


 心配そうに眉を下げるエリックに、アイラは止まらない涙を手で拭いながらも懸命に伝える。


「夢じゃないことが嬉しいんです……本当に、嬉しいの……」


 アイラの言葉に、エリックは不安そうな顔を消して破顔した。


「俺も嬉しいよ。多分アイラよりも、ずーっとね」

「そんなの嘘。……私のほうが嬉しいです」

「そんなことはない。俺のほうが君のことが好きだよ」

「そっ、そんなことないこと、ないです! 私のほうが、す……好きです」


 いや、俺のほうが。いえ、私のほうが。


 三往復ほど言い合うと、二人はどちらからともなく寄り添い、昼を知らせる鐘が鳴るまでぴったりとくっ付いていた。




 ◇◇◇




「疲れちゃった?」


 エリックに心配そうに尋ねられたアイラは、『いいえ』と答えようとして、やめた。


「はい、少し」


 彼の前では嘘も我慢も、もうしなくてもいい。


「だよね、ごめんね。でも、早く報告したくて……」

「でも、ほんの少しだけです」

「ほんと?」


 申し訳なさそうに言うエリックに、アイラは「本当ですっ」と弾んだ声をあげ、彼の肩にそっと頭を乗せた。

 ふと見上げると、やはり甘い眼差しがアイラに向けられていて、ほわほわと心が温かくなる。

 エリックの瞳には、深い愛情と安心感が宿っており、アイラはその視線に包まれるような気持ちになった。



 ──現在、二人は馬車で移動中。

 これからアイラの雇用主であるローバック家へ向かっている最中である。


 エリックの言う『各所への報告』は、アイラが思っていたよりも何十倍、いや何百倍も重い意味を持っていた。


 特に、王子と彼の関係には驚かされた。

 社交の場に出たことのないアイラは、それが公然の秘密だと思っていたが、実際は限られた人間しか知り得ない、とんでもない秘密だったのだ。気疲れの原因はきっとこれだろう。


 それでも、王子は気さくな方で、エリックを大切に思っていることが伝わり、安心できた。


 王子は街で出回っている絵姿よりも、ずっとずっと美しい顔立ちだったので、未来の王子妃となる女性に対して、不敬ながらも親近感を抱いてしまったことは内緒だ。


 恐れ多いことに、王子はアイラに「罪はない」と言ってくださった。名を変えていることも、大目に見てくれるそうで、『レイラ』として生きていくことが許された。

 それどころか、父のことについて謝罪までされ……この時ばかりは大いに慌ててしまった。


 同僚の方々は業務に忙しく、挨拶できたのは三人ほどだったが、皆、平民のアイラを見下すことなく、丁寧な態度で接してくれた。

 さすが騎士様、と感心していたところ、最後に紹介されたギルバートによって、騎士像が少し崩れてしまった。だが、決して悪い印象を抱いたわけではない。むしろ、彼の言葉は親しい友人のように感じられたし、学生時代の話を聞けて楽しかった。


 王子への報告、近衛騎士団の同僚への報告、そして士官学校時代の友人への報告。


 エリックはこれらの重大事項を迅速かつ的確にこなした。その優秀さと信頼感は、彼が常に全力で任務に臨んでいる証だ。


 彼の完璧な対応を目の当たりにしたアイラは、次の報告もまた彼が速やかにこなすだろうと確信している。



 ──なんて。


 そんなほのぼのとした予想が大きく外れることを、このときのアイラはまだ知らない。



 この後。


 二人は、ディディと、ローバック家に遊びにきていたメイブル(別名:かしまし子猫ちゃんズ)に怒涛の質問攻撃を受ける羽目になる。


 そして、王子の前でも、先輩隊員の前でも、友人の前でも、表情を崩すことなく堂々とした態度を、いとも簡単に崩し慌てふためくエリックをアイラは目撃するのだ。


 きっと、アイラはそれを見て、微笑みを浮かべながら『もっとこの人のこういう姿を見たいな』と思うだろう。


 一方で、格好悪い自分を見られたエリックはこんな自分に呆れもしないアイラに惚れ直すのだ。


 それから。

 おそらく、いや、十中八九。残念なことに(?)、二人の結婚式は、かしまし子猫ちゃんズが手掛けたものになる。


 それをまだ知らない二人は、二人きりの馬車の中、当分味わうことはできない甘い時間を過ごすのであった。

【20-5.騎士の親友は、言い訳をする】


 ギルバートは、真ん丸な四つのきらきらお目々を見て、頷いた。確かに、頷いた。それもしっかりと。

 なんで? と、聞かれたら、こう答える。


 だって聞かれたから、と。


 でも、ちょっと悪いことしたかなあとは思っているのだ。そう、ちょっとだけ。


 え? 質問の内容?


 ……。


 いやいや、別に隠すような内容ではない。

 

『会えない時間で愛は育つのか?』みたいな、そんな感じの内容だった。


 ギルバートは「そりゃあ育つっすね」と頷いた。


 ……まあ、エリックにはこの話はしてないけれど……きっと、許してくれるだろうと信じてる。


 あと五年くらい経ったら、伝えようと思っているということだけここに記しておく。

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