最終章 四百度の主題歌
深夜の静寂苑に霜が降りていた。
裏庭の鉄の扉の南京錠に、鍵を差し込んだ。錆びた金属が重く鳴った。
煙突が黒く夜空にそびえている。口のあたりに星が一粒。十一月の冷気が、鉄の表面を白く結晶させていた。
悠真は骨壺を抱えていた。蓋の隙間から、微かな震えが腕に伝わってくる。カラン。カラン。自分の歩幅に合わせて骨が鳴っているだけだ、とも思えた。
響子は半歩後ろをついてきた。喉に当てた喉仏から、手を離さない。足音は、しなかった。
炉前室の蛍光灯は点けなかった。非常灯の緑が、三號炉の扉の輪郭を浮かび上がらせた。
扉を開けた。
炉の中には灰だけがあった。ステンレスの台車が、白い灰に埋もれている。昼間、業者が覗き込み、異常なしと書いていった灰だ。
台車を引き出した。
手で灰を払った。灰は手の甲に貼りつき、息を吹きかけると夜の中へ散った。鴨志田慈雨の最後の、はずだった。何の感情も湧かなかった。湧かない自分に、少し遅れて気づいた。
骨壺の蓋を開けた。
骨箸は使わなかった。素手で、足の指を一つ、台車の上に置いた。手の指。黄色く染まった指先は、まだ何かを握る形に曲がっていた。肋骨を七本。間をあけて、一本ずつ並べた。数えるつもりはなかった。数えていた。
最後に、響子が喉仏を置いた。台車の中心に。
骨が、鳴った。
指で弾いたような小さな音だった。もう一つ。もう一つ。台車の枠が拾い、炉の鉄骨が拾い、吸気ダクトが拾った。誰かが息を吸う音に似ていた。
――らん、らん、ポコポコ。
悠真は台車を炉の奥へ押し込み、扉を閉じた。
制御盤の前に立った。
レバーは八百度の位置にあった。何千回と、そこに合わせてきた手だった。
悠真はレバーを四百度に落とした。
迷わなかった。迷わなかったことが、自分でも不思議だった。
指針が右へ這い上がる。百度。二百度。三百度。四百度で止まった。炎が赤く濁った。
排気ダンパーのレバーに手をかけた。
響子は何も言わなかった。覗き窓の前に立ち、赤い炎を見ていた。
全開にした。
羽根が開く重い音。空気が唸った。ダクトが満ちた。煙突が、低く鳴った。
炉の中で、何かが燃え始めた。
骨の焦げる匂いではなかった。絵具の匂いだった。小学校の図工室の、水に溶かした赤と黄と青。
覗き窓の向こうで煙が渦を巻いた。赤。黄。青。白。黒。混ざらずに、色のまま渦を巻いて、上へ昇っていく。
煙は煙突を登った。
悠真は裏庭へ出た。
煙突の口から、夜空へ色の柱が立っていた。星が消えた。月が消えた。街の上に、色の天蓋が広がっていく。
そう見えた。本当に見えているのかどうか、確かめる手段はなかった。
窓が開いた。
遠くで一つ。それから二つ。団地の窓。アパートの窓。霧の向こうの灯りが、窓に見えただけかもしれない。顔が出ている。子供の顔に見えた。目は開いているのに、眠っているようだった。
歌が聞こえた。
――らん、らん、ポコポコ。
耳で聞いているのか。ここには吸音材はない。国道のトラックも、風もある。それでも聞こえた。一人の声ではなかった。数えきれない数の、同じ高さ、同じ速さの声。
――ひのこの なかで わらいましょう。
――ほねになるまで うたいましょう。
響子が隣に立っていた。
白いコートに、色の煙が絡みついている。喉の火傷の痕が円を描いている。響子が口を開いた。
――らん、らん、ポコポコ。
七歳の子供の声だった。
悠真は響子を見た。喉が震えていた。響子の喉も。炉の中の喉仏も。同じ速さで。
悠真はポケットから鍵を取り出した。十年、握ってきた鍵。重油の匂いがした。
炉前室に戻った。三號炉の扉を、少しだけ開けた。赤い熱が顔を殴った。
鍵を、投げ入れた。
鍵は炎の中で赤くなり、見えなくなった。
扉を閉めた。もう何も書かないだろう、と思った。誰に告げる必要もなかった。
響子が、口を開けてみせた。歌う形に。
悠真の喉が、ひとりでに鳴った。
声が出た。
十年、歌っていない声だった。それは、悠真の声ではなかった。十年前の声。若く、力強く、どこか熱に浮かされた声。録音の中の、あの声だった。
――らん、らん、ポコポコ。
街の声と、響子の声と、悠真の声が、重なった。色の煙の中で。
炉の中で、骨が鳴り続けた。
夜が白み始めた。
いつ終わったのか、分からなかった。気づくと煙突からの煙は止んでいた。空には、星の代わりに、薄い朝焼けがあった。
響子の姿は、なかった。いつ消えたのか、思い出せなかった。霜の上に、足跡は一つしかなかった。悠真のものだった。
炉の扉を開けた。炉の中には灰があった。白い灰。誰の目にも異常のない灰。
温度計は、四十度を指していた。
悠真はいつも通り、朝の点火作業を始めた。指先から。レバー。点火装置。火花。
八時過ぎに、事務所から無線が入った。
「灰谷さん、一號炉、予約入りました。身元不明の高齢男性。警察からの委託です。今から搬入」
事務員の声の頭に、一拍、短い吸気があった。歌の間奏の、息継ぎのような。
受話器を握ったまま、窓の外を見た。霧は出ていない。駐車場の白線が、はっきり見えた。校庭のほうから、子供たちの声がした。登校の時刻だった。
何を歌っているのか、聞き取れなかった。
「了解」
答えた声が、自分のものか、分からなかった。
受話器を置いた。
灰になっても、歌は終わらない。
終わらせてはくれないのだ。
―了




