「すべての始まり。」
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プロローグ
ロンドンには、容赦のない雨が降り続いていた。雨粒はまるで中へ入れてくれと命乞いでもしているかのように、茶瑠流 (チャールズ) の小さなアパートの窓を叩き、金属混じりの排気ガスと濡れたアスファルトの匂いを運んでくる。
茶瑠流はソファの背もたれに頭を預け、長く重いため息をついた。
エンジニアとして大学を卒業してから5年。世界中を旅するという彼の夢は、終わりのない表計算シート、偏屈な上司、慢性的な腰痛に取って代わられていた。
(この雨は、いつまで経っても止みそうにないな……)
雨が降るたびに彼を苦しめる謎の焦燥感を感じながら、茶瑠流は目をこすった。
その時、テーブルの脇で突然スマートフォンのバイブ音が鳴り響いた。一度、二度、三度と振動を繰り返す。
「冗談だろ……」
彼は呟いた。今日は週に一度の唯一の休日だ。無視するつもりで、億劫そうに端末を手に取った。
しかし、画面に表示された名前を見て、彼は片方の眉をひそめた。疲れを隠そうともせずに電話に出る。
「今日が俺の休みだって知ってるよな?」
『だからこそかけてやったんだよ、このろくでなし!』
電話の向こうから聞こえる低い声は、あまりにもエネルギッシュでからかうような響きを含んでいた。
『生きてるかどうか確認したくてさ。久しぶりに飯でも食いながら飲まないか?』
「今は出かける気分じゃないんだ。それにこの雨だしな、また今度……」
その時、まるでキツツキが突いているかのように、ドアを激しく叩く音が連続して響いた。
「ちょっと待ってくれ、誰かドアを叩いてる」
茶瑠流は電話を脇に置いた。
「何の用だ……?」
一瞬、茶瑠流の顔に困惑と不安の色が浮かんだ。
『お前に用があるんだよ、チャンチャン』
ドアの向こうから聞こえたのは、茶瑠流より少し年上の男の声で、どこか脅迫めいた冗談交じりのトーンだった。
その言葉が出たあと、5秒ほどの沈黙が流れた。茶瑠流はただ呆れたような視線を向けた。
「ドアの前にいるなら、なんで最初から電話なんてかけてくるんだ?」
疲労困憊の声ではあったが、再会を喜ぶ小さな笑みが茶瑠流の口元に浮かんだ。
「久しぶりだな、捷威古 (ジェイコブ)。立ち話もなんだ、中に入れよ」
そこに立っていたのは、黒いコートを着た背の高い男だった。手には買い込んできたばかりと思われるレジ袋を下げている。
先ほど電話をかけ、ドアの前に現れたこの男こそ、捷威古——高校と大学時代を共に過ごした、茶瑠流にとって親友であり異父兄弟のような存在だった。もっとも、大学の途中で捷威古は金欠を理由に一度中退して入隊し、様々な職を転々とした後に復学して卒業した経緯がある。
(捷威古は俺よりもずっと飲み込みが早かったが、そのポテンシャルを発揮するには怠け者すぎたんだよな)
ドアを閉めながら、茶瑠流の脳裏にそんな思いがよぎった。
捷威古と茶瑠流がテーブルにつくと、おつまみとビールが入った袋が静かに置かれた。
「チャンチャン、仕事に寿命を吸い取られてるみたいだな。まるで死にかけの奴を見てる気分だぜ」
捷威古は笑い声を上げた。
「休ませてくれないと本当にすぐ死ぬよ。なのに、よりによってビール持って押し寄せてくるなんてな」
「まあまあ、これで生き返らせてやるよ。ついでに積もる話でもしようぜ、茶瑠流」
雨が絶え間なく降り続く中、二人の親友は昔の思い出に花を咲かせながら会話を重ねた。
時間が経つにつれ、会話は次第に深い本音へと移っていった。
「画面越しでしか見たことがない景色を、この目で見て回りたかったんだけどな……」
茶瑠流は窓の外を見つめながら言った。
「けど時が経つにつれて、仕事のせいで自由な時間なんて持てそうにないよ」
「まあ、定年退職するか、お前がよく見てたアニメみたいに異世界転生でもすれば自由になれるんじゃないか? トラックに跳ねられて死んで異世界に行くなんてあり得ねえけどな、ハハハ」
捷威古はどこか軽い調子で言った。
「なあチャンチャン、俺にはどうしても分からないんだが、なんであの異世界転生もののアニメって、いつまで経っても技術が発展しないんだ? 魔法とかがあるのは分かるが、なんで自然エネルギーの開発とか、兵器や移動手段の研究が進まないんだよ」
「そっちの方が見栄えがするからだろ」
茶瑠流は静かに答えた。
「それに、魔法や特別な力があるからこそ、科学技術に重きを置かないんじゃないか?」
時間は過ぎていき、雨は一向に弱まる気配を見せない。まるでロンドンの街を沈め、テムズ川を溢れさせようとしているかのようだった。
「もっと話していたいが、茶瑠流、明日も仕事だしそろそろ帰って休むわ」
捷威古はそこまで酷く酔ってはいない様子で立ち上がった。
「じゃあな、チャンチャン。次はもっとマシなもん奢れよ」
千鳥足でドアに向かう捷威古の後ろ姿に、茶瑠流は叫んだ。
「待てよ馬鹿! 送っていく。そのままじゃどこかで倒れるか低体温症で死ぬぞ!」
茶瑠流は急いで上着を探し、滑りやすい道を歩くためにブーツを履いた。彼が気づいた時には、すでに捷威古は千鳥足で廊下に出てしまっていた。
「待てって言っただろ!?」
追いつこうとして息を切らす茶瑠流の声。
「俺はお前の彼女じゃないんだぜ、チャンチャン! ほら行くぞ、『人生がレモンを与えてきたら、レモネードじゃなくて梨のジュースを作って全員を混乱させろ』ってな!」
「……」
(野放しにして死なせてやろうか)
そんなやり取りを交わしながら、二人は強まる雨の中を歩き始めた。ほろ酔い気分のせいで、二人は自分たちがどこへ向かっているのか一時的に分からなくなっていた。
時間が経ち、毎秒のように浴びせられる冷たい雨のシャワーのおかげで、二人はようやく正気を取り戻した。
捷威古のアパートの前に到着すると、激しい土砂降りの中で二人は足を止め、別れの言葉を交わそうとした。
「次に会う時はプレゼントをやるよ、茶瑠流。楽しみにしとけ」
濡れ鼠になった捷威古が言った。
「雨が永遠に降り続いてるようなこの街以外の場所で会えるといいな」
「そう願うよ。今は仕事っていう地獄を生き残るのに必死だけどな」
茶瑠流は、もはや歩くスポンジのようになった友人を見つめながら答えた。
「じゃあ、またな——」
彼の言葉は、突如響き渡った猛烈なエンジン音によって遮られた。それはメンテナンスもされていない古いバイクの排気音で、建物の壁に反射して路地に響き渡った。
バイクは茶瑠流のすぐ脇で急ブレーキをかけた。茶瑠流が反応するより早く、フードをかぶった男がナイフを手にシートから飛び出してきた。数メートル先では、運転手が銃を構えたままバイクの上にとどまり、周囲を警戒している。
「金か命か選べ!」
強盗は茶瑠流を追い詰めるように、空に向かってナイフを振りかざして咆哮した。
茶瑠流の身体が一瞬で硬直した。声も出ず、身体も動かない。その短い瞬間、激しい足音とともに水たまりを蹴り上げる音と、叫び声が急速に近づいてきた。
「目を覚ませ、茶瑠流!!」
それは捷威古だった。彼の叫び声によって、茶瑠流は瞬時に正気を取り戻した。
強盗が捷威古に視線を向けたわずか4秒の隙を突き、茶瑠流はみぞおちに強力な一撃を叩き込んだ。呼吸を奪われた男から、茶瑠流は素早く距離を取る。
駆けつけた捷威古はすかさず左フックを叩き込み、衝撃で男を気絶させた。
「逃げるぞ、茶瑠流!!」
捷威古が叫ぶ。
「クソが!」
バイクの運転手が、準備していた銃を引き抜いて叫んだ。
雨のカーテンが視界を遮っていたが、冷たい鉄の砲口は素早く標点を捉えていた。まっすぐに茶瑠流の胸元を狙っている。
絶望した捷威古は、弾丸を遮ろうと親友に向かって飛び出した。持てるすべての力で走ったが……。
銃声の轟音が静寂を突き破り、建物に激しく反響して、通り一帯に犬の遠吠えを巻き起こした。
一瞬、時間が凍りついたかのように思えた。暗い空が一閃の稲妻によって照らし出され、雨の中に倒れる影を浮かび上がらせる。続いて響き渡った悲痛な叫び声は、ゆっくりと小さくなり、やがて残響へと消えていった。
「茶瑠流!!」
バイクの運転手は、音を聞きつけてやってくる警察から逃れるため、全速力で現場から逃走した。
「おい、目を閉じるな!!」
捷威古は膝から崩れ落ちそうになる茶瑠流を抱きかかえた。
「耐えろ、親友! もうすぐ助けが来る!!」
肋骨と肺を貫通した茶瑠流には、自分の命がもう長く持たないことが分かっていた。
「強盗に刺されて死ぬなんて……誰が予想できたよ……」
茶瑠流の声は次第に小さくなっていく。
「結局……思い通りに世界中を旅することはできなかったな……」
「すべてが暗くなっていく……このクソみたいな雨は……最期の瞬間まで止んでくれないのか……」
「諦めるな! お前にはまだ夢があるだろ!!」
捷威古は親友の意識を繋ぎ止めようと叫び続けた。
「俺はまだ……お前にプレゼントも渡してないんだぞ、この野郎!!」
長年連れ添った親友が腕の中で死んでいく姿を前に、捷威古の声は涙で途切れ途切れになっていた。
「まだその……プレゼントの話……してんのか……?」
茶瑠流の瞳はゆっくりと閉じられていき、最期の微笑みを浮かべた。
「お前は……本当に変わらないな、捷威……」
夜の11時を告げる鐘の音が響いた。ビッグ・ベンの鐘音である。ある者にとっては目を覚ます時間であり、ある者にとっては眠りにつく時間だった。だがこの二人の親友にとって、それは決して壊れることはないと思われた絆が引き裂かれた音だった。
「すまない……お前を守れるほど速く動けなかった……許してくれ……」
後悔に満ちた声が雨の中に溶けていく。
すべての視界が暗転した。茶瑠流が感じていた痛みは消え去り、雨の冷たさも、捷威古の腕の中のわずかな温もりも失われた。
茶瑠流の魂は、あてもなく宇宙をたゆたい、目的地もないまま漂っていた。
(結局、俺は死んだのか。望んだ形ではなかったが……旅をするという目的を果たせなかった後悔だけが残ったな。まあいい、死後の世界に何が待っているのか見てやろうじゃないか)
星々が一直線に並び、闇の深淵から放たれた光の閃光が、少しずつ近づいてきた。
『生まれたぞ! 男の赤ちゃんだ、あなた!!』
見知らぬ声が、歓喜に満ちて叫んでいた。
(ここはどこだ……? なんで俺の身体はこんなに小さくて動かないんだ……?)
自分の置かれた状況も周囲の人間も分からず、茶瑠流は困惑した。
見渡せる限りの視界で周囲を探ると、石造りの壁、木製の床、木と藁で葺かれた天井、そして窓から差し込む月光が目に映った。
その時、男が赤ん坊となった茶瑠流を抱き上げた。
「元気に生まれてきてくれてありがとう、俺の愛しい息子よ!」
男は腕の中で赤ん坊を抱きしめた。
「お前のおもしろカッコいい親父が、最高の名前を考えておいたぞ!」
男は顔に満面の笑みを浮かべて言った……どこか胡散臭い笑みだった。
「お前の名前は……愚仁 (ドゥニ) だ!!」
赤ん坊となった茶瑠流は、まるでその名前を拒否するかのように、あるいは抱きかかえている男の顔に恐怖したかのように、すぐに泣き声を上げた。
「あなた、時間をかけて良い名前を考えるって言っていたのに……その名前はちょっと……」
妻がどこか威圧感のある視線を夫に突き刺した。
母親からの圧力を感じ取った男は、数秒後、小さな命を愛する妻の胸元へと手渡した。
「大丈夫よ、我が子よ。お母さんはお父さんよりずっとセンスがあるからね」
その声はとても暖かく、赤ん坊は泣くのをやめた。まるで保護膜に包まれているかのような母親の温もりのせいかもしれない。
「あなたの名前は……亜瑟 (アーサー) よ」
その瞬間、茶瑠流は自分が学生時代に見ていたアニメのように異世界へ転
私たちはプロのライターではないので、日本語についてはあまり詳しくありませんが、ご理解いただけると幸いです。




