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六話

白い照明が均一に降り注ぐ広い空間。

壁際に並ぶ鏡が、自分の動きをそのまま映し出している。

そこに映る自分は、数日前よりわずかに軽くなっているように見えた。

劇的な変化じゃない。

ただ、余計な力を使わずに動けるようになっている。

それでも、身体の奥にあった引っかかりが少しずつほどけていく感覚が確かにあった。


「もっと重心を意識してみましょう。腕だけじゃなくて、全身で動く意識を持って」


鋭い声が、空間に響く。

視線を向けると、竹刀を片手に東雲さん――いや、有栖さんがこちらを見ていた。

最初に命を救ってくれた人。

その人に師事する形で、こうして鍛えてもらっている。


厳しさはある。けれど、理不尽さはない。

指摘はどれも具体的で、無駄がなかった。

基礎体力。筋力。走り込み。

その合間に、呼吸や重心の取り方といった細かな修正が入る。


正直、楽ではない。

けれど――身体が応えてくれる感覚は、思っていたより悪くなかった。


「はい、十分休みましたね。次はランニング一周追加しましょうか」


「了解です」


頷くと、有栖さんも小さく頷き返す。

そんなやり取りにも、少しずつ慣れてきていた。

気づけば、こうしてトレーニングを積み重ねる日々が続いている。

あの日の続きでやるはずだった能力測定は、いまだ行われていない。


詳しい理由は聞かされていない。

わずかな不安だけは心の奥に残っている。

それでも――


「基礎を疎かにしないでください」


ふと、有栖さんの言葉が蘇る。

今は、急ぐべきじゃない。

そう思わせるだけの説得力が、あの一言にはあった。

そう思ったところで、トレーニング場の扉が軽い音を立てて開く。


「おつかれー!ちょーどよかった!」


明るい声が、背後から飛んできた。

振り向くと、咲良さんが白衣の裾を揺らしながら駆け寄ってくるところだった。


「休憩中だったんだね!よかったよかった!」


「どうしたんですか?」


声をかけると、彼女は手をひらひらと振る。


「前に凪くんが作った結界、覚えてる? あれね、いくつかわかったことがあってさ!報告したいなーって思って!」


あの夜空のような結界。

あれ以来、咲良さんと顔を合わせることはほとんどなかった。

原因不明の現象として保留されていたそれが、どうやら進展したらしい。


「今から僕の研究室まで来てもらえる?」


「わかりました」


頷くと、咲良さんは満足そうに笑う。


「じゃあ先に行ってるね!着替えたりシャワー浴びたりしてからでいいからねー!」


そう言い残して、また慌ただしく去っていった。


「……有栖さんも行きます?」


「ええ。せっかくですし、見ておきたいですね」


「じゃあ俺、先にシャワー借りてきます」


「どうぞ。私もすぐ向かいますから」


軽く言葉を交わし、その場を離れる。




シャワールームで汗を流しながら、ふと考える。

あの夜空に似た結界。

どこかで繋がっていたような不思議な感覚。

それが何だったのかは、まだ分かっていない。

けれど――咲良さんなら、何か掴んでいるのかもしれない。

その答えを聞くのが、少しだけ楽しみだった。


少しゆっくりし過ぎたのかもしれない。

トレーニングルームに戻ると、有栖さんはすでに準備を終えていた。


「お待たせしました?」


「いえ、ちょうどよかったですよ」


「じゃあ、行きましょうか」


二人で並んで、咲良さんの研究室へ向かう。

廊下を歩きながら、不思議と気持ちは落ち着いていた。

以前なら、未知への不安ばかりが先に立っていた気がする。

けれど、今は違う。

隣を歩く有栖さんの存在が、わずかな安心感をくれていた。


エレベーターを降り、白い廊下を少し進む。

やがて、研究室の扉が見えてきた。

咲良さんはすでに来ていたらしく、扉を半開きにして待っている。

白衣の裾を揺らしながら、満面の笑みで手を振っていた。


「こっちこっち!待ってたよー!」


中から手を振る咲良さんに迎えられ、室内へ足を踏み入れる。

相変わらず、機材と資料が並ぶ空間。

雑然としているのに、どこか秩序がある。

その空気に、独特の緊張感と好奇心が入り交じる。

咲良さんが白衣のポケットをごそごそと漁りながら、こちらに振り返った。


「そうそう!忘れないうちに渡しておかなきゃね」


そう言って取り出したのは薄いプラスチックカードだった。


「社員証だよ。ICも入ってるから、権限ごとの鍵にもなってるやつ。絶対になくさないようにね? 一応この部屋の入室権限も付けておいたから」


「ありがとうございます」


「これからもちょくちょく来ることになるだろうし。手間は省けるほうがいいでしょ?」


そう言って、咲良さんはどこか得意げに頷く。

カードを受け取り、軽く確かめてからポケットへしまった。


「それじゃあさっそく本題に入ろうか」


咲良さんがデスク上のディスプレイに触れると、データが次々に立ち上がった。


「凪くんが最初に作った、あの夜空みたいな結界ね。正直に言うと理由も効果もまだハッキリしてないんだ。でも結界としてはきちんと機能してることは分かった」


画面には、測定グラフや図表が次々と表示される。


「ただ……不確定要素が多すぎて、現状使いづらいという判断になったんだよね。戦闘中に何か起こったら大変だしね」


「確かに……怖いですね」


「でしょ? だからね――」


咲良さんは引き出しから掌サイズの金属製キューブを取り出した。

表面には複雑な紋様が刻まれている。


「これで結界を展開できるように凪くん専用の道具を作ってみたんだ。一応試作品なんだけど……他にもいろいろあるよ。防護シールドとか探知装置とか、あと攻撃用のレーザー発生器とか!」


少しだけ圧倒されながらも、思わず頷く。

それを見て、咲良さんは嬉しそうに目を輝かせた。


「よし!じゃあ早速試してみようか!奥のスペース使うよ」


「分かりました」


「有栖ちゃんも来る?」


「ええ、ご一緒します」


小さく頷いて、有栖さんも歩き出す。

咲良さんに続いて研究室の奥へ。

ドアを開けると、前回と変わらず広い無機質な空間が広がっていた。


「じゃあ最初は、防御用シールドからいってみよう!前の続きってことでね」


そう言って手渡された円盤型のデバイスを起動する。

意識を集中させ、力を流し込む。


すると、デバイスから半透明のフィールドが展開された。

淡い青の膜が、静かに周囲を覆っていく。


「おっ、いいね!問題なさそう!」


「……ちゃんと出てますね」


続いて、探知装置に切り替える。

意識を向けると、球体のデバイスから静かに波紋のような感覚が広がっていった。

水面に落ちた一滴が、周囲へと広がっていくように。


その波が何かに触れた瞬間、位置だけが輪郭として浮かび上がる。

視界に映るわけじゃない。

ただ、そこに“いる”と感覚的に分かる。


「……これ、すごいですね」


「でしょ?ちゃんと拾えてるみたいだね!」


「補助系は問題なさそうですね」


有栖さんも横から確認し、小さく頷く。

想定通りといった様子だった。


「じゃあ次は、攻撃系いってみよっか!」


拳銃のような形状の装置を構え、指定された標的へ照準を合わせる。

力を込めて、トリガーを引いた。


シュゥゥ……


微かな光が伸びる。

だが、手応えはほとんどない。

命中した箇所が、かすかに煙を上げただけだった。


「うーん……攻撃系は弱いかあ」


咲良さんが首を傾げる。

近接用の装備も試してみたが、結果は似たようなものだった。

手応えがない。まるで霧を斬っているみたいだった。


「凪くんの気質と合ってないのかもね」


その言葉に、内心で頷く。

どこか、腑に落ちる感覚があった。


「たぶん……倒すより、何かを守るほうが向いてるんだと思います」


口にしてみると、不思議としっくりくる。

咲良さんは、納得したように笑った。


「なるほどね!じゃあ、それ踏まえてキューブの調整してみるよ。ちょっと待ってくれる?」


「もちろんです」


「すぐ済ませちゃうから!」


彼女はテキパキと端末を操作し、調整を施していった。

ほどなくして小さな電子音が鳴り響く。


「OK!これで安定して出るはず!」


差し出されたキューブを両手で包むように持つ。

深呼吸し、意識を集中させた。

内側から、静かに力が流れ出す。

押し出されるようでいて、抵抗はない。

ただ、淀みなく外へと抜けていく。

デバイスを通して、それが形を持つ。

ふわり、と空気が揺れた。

視界の輪郭がわずかに滲み、次の瞬間には白が広がる。


夜空ではない。

澄みきった白の薄膜が、半径三メートルほどの範囲を円形に覆っていた。


「おおっ!理想的な結界!」


咲良さんの弾んだ声が響く。

有栖さんが一歩踏み込み、そのまま何の躊躇もなく内側へ入っていった。


「問題なさそうですね。安定しています」


咲良さんは計測機器を手早く操作し、内部の数値を確認していく。

温度、気圧、密度、濃度――どれも規定値の範囲に収まっているらしい。

やがて満足げに頷いた。


「理論上完璧!これなら即実戦投入も可能だね!」


「よかった……」


安堵の息が漏れる。

その反応に、さらに機嫌よく笑った。


「いいよいいよ!こんなに綺麗な展開、初めて見たかも。さすが凪くん!」


白い結界が、静かにそこに在る。

形も、範囲も、すべてが理論通りに整っている。


――なのに。


わずかに、感覚が噛み合わない。


結界の内側にいるはずなのに、どこか“繋がっていない”。

一歩引いた場所から眺めているような、微かな距離がある。


足元の感触が薄い。

空気も、音も、ほんのわずかに浮いている気がした。


あのときは、違った。

あの夜空は自分と“繋がっていた”はずなのに。

ほんの一瞬、脈が強く打つ。


「どうかした?」


咲良さんの声に、意識が引き戻される。


「……いえ、なんでもないです」


小さく笑って、首を振る。

違和感はある。

けれど、言葉にできるほどはっきりしたものじゃない。


「うーん?無理してない?」


「大丈夫です。たぶん、慣れの問題だと思います」


そう答えたところで、有栖さんと視線が合う。

しばらくこちらを見ていたが、やがて静かに瞼を伏せた。


わずかに息をつく。

胸の奥に残った引っかかりだけが、沈んでいった。


「よし!じゃあ続き行こっか。今度は範囲を指定してほしいな」


咲良さんが手早くパネルを操作し、新たな数値を表示させる。

有栖さんもそっと半歩下がり、様子を見守る体勢に入った。


「結界の直径を二メートルに変更してみて」


キューブを握り直し、意識を落とす。

最初に感じた膜のような抵抗は、もうない。


体内から流れ出す力が、そのまま形を取ろうとしている。

こちらが思い描いた輪郭を、なぞるように。

白い薄膜が、波紋のように揺れた。

広がっていた円が静かに収縮し、示された数値通りの大きさへと収まっていく。


「おおっ!ぴったり!」


咲良さんが弾む声を上げた。

パネルの数値を指差しながら、興奮気味に続ける。


「誤差±三センチだよ!初めてでこの精度は尋常じゃない!」


有栖さんも、小さく頷いた。


「すごいですね。私にはとても……」


「じゃあ次は形状。球状じゃなくて、立方体に展開できる?」


思わず苦笑が漏れる。

初心者に対して無茶振りに近いはずなのに……。

だけど、不思議とできる気がした。


キューブに意識を向け、形を思い描く。


柔らかく広がっていた膜が、徐々に硬質な輪郭を持っていく。

曲面が削ぎ落とされ、角が生まれる。


数秒後。


目の前には、二メートル四方の六面体が静かに収まっていた。


「凄い……!」


咲良さんの声が一段高くなる。


「普通、最初からここまで自在に操れるなんてありえないんだよ!すごい才能だね、凪くん!」


勢いのまま駆け寄り、結界の面に手を触れて確かめていく。


「強度も申し分ない……これは支援として本当に優秀かもね」


その言葉に、わずかに腑に落ちるものがあった。


攻撃するより、守る方がしっくりくる。

何かを壊すより、保つことのほうが。


自分の中にあった感覚が、形になって現れている――そんな気がした。


「もしかしたら凪くん、サポート特化なのかもねー」


咲良さんが軽い調子で笑う。

有栖さんも、ほんのわずかに口元を緩めていた。


「サポート……ですか」


「そうそう!敵を倒すのは有栖ちゃんみたいな超攻撃型にお任せして、凪くんはみんなを守ったり治したりするの!そういう役割分担、チームとして最高じゃない?」


楽しげに語る声に、有栖さんが小さく咳払いをした。


「勝手に決めないでください」


「いいじゃんいいじゃん!今まさにそうなってきてるんだし!」


「……まあ、否定はしませんが」


軽いやり取りに、場の空気が少しだけ和らぐ。


その時だった。


耳を劈く電子音が、室内を切り裂いた。


ビ――――――ッ!


無機質な警告音が空気を一変させ、ついさっきまでの軽やかな雰囲気が、一瞬で塗り潰される。

咲良さんの表情が目に見えて強張り、有栖さんも顔を上げた瞬間、先ほどまでの柔らかな気配を完全に消していた。

鋭く絞られた視線が宙を射抜き、二人の纏う空気が、触れれば切れそうなほどに張り詰めていく。

その変化に置いていかれたような感覚のまま、思わず口を開いた。


「な……何があったんですか?」


わずかな焦りが声に滲む。


「……魂喰が現れた警報です」


有栖さんの低い声が、短く告げた。

それだけで十分だった。

警報の意味も、この緊張の理由も、一瞬で繋がる。


「すぐに行きます」


言い終えるより早く、動き出していた。

咲良さんも端末を抱え込みながら、手早く操作を進める。


「僕は所長と連携取ってバックアップする!凪くんは……有栖ちゃんと一緒に地上へ!」


明確で、迷いのない指示だった。

夜の公園での記憶が一瞬だけ脳裏をよぎる。

けれど、それに引きずられる前に、意識を引き戻した。

守る側に回ると決めた以上、ここで立ち止まるわけにはいかない。


「分かりました!」


はっきりと頷く。

有栖さんと目が合い、互いに言葉を交わすまでもなく意図が伝わる。

彼女は小さく頷き返し、すぐに踵を返した。


「行きましょう」


その背を追うように駆け出す。


「気をつけて!」


閉じかけた扉の向こうから、咲良さんの声が届いた。

振り返る余裕はなかった。

白い廊下を二人で駆け抜ける。足音がやけに乾いた音を立て、静かな空間に反響していく。




エレベーターの扉が開くと、地上の空気が肌を撫でた。

神社特有のひんやりとした空気に、どこか焦げついたような焦燥の気配が混じっている。

静かなはずの場所なのに、どこか落ち着かない。そんな違和感が胸の奥に残った。

事務所までの道のりが、やけに長く感じられる。


扉を開けると、所長が煙の向こうでこちらを見ていた。


「来たわね」


その声は、妙に澄んでいた。


有栖さんが短く挨拶し、所長はデスクのタブレットを軽く叩いた。

次の瞬間、空中に市街地の簡略地図が展開される。

西側を流れる川、その河川敷に赤い印が明滅していた。


「出現ポイントは西側、河川敷付近。ここから車で二十分ほどよ」


開けた地形――見通しはいいが、その分、身を隠す場所は少ない。

頭の中で地図をなぞりながら、思考が少しずつ研ぎ澄まされていくのを感じた。


「先遣の第一部隊がすでに展開中。人避けの結界設置を先行させてるわ。住民の避難誘導は第二班」


流れるように情報が重ねられていく。


所長はデスク脇から小型端末を取り出し、滑らせるようにこちらへ寄越した。


「持っていきなさい。状況は随時共有するわ」


それを受け取る。

画面の光が、やけに鮮明に目に焼き付いた。


これから始まる現実が、その小さな画面の中に詰め込まれているような気がして、わずかに鼓動が速くなる。


「見晴らしがいい場所よ。不意打ちは受けにくいでしょうけど……油断はしないで」


注意であり、同時に背中を押す言葉でもあった。

煙を吐き、視線を外す。

有栖さんが静かにこちらを見ている。


肺に溜まった空気をゆっくり吐き出し、一歩を踏み出す。


「――行ってきます」


夕暮れの中で鳥居が朱く浮かび上がっていた。

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