五話
結界が広がりきった瞬間、咲良さんが小さく息を呑むのが聞こえた。
その視線は、見たことのない光景に縫い止められたように動かない。
眼鏡の奥の瞳が、落ち着かない調子で揺れているように見えた。
「すごい……」
低く漏れた声には、いつもの軽さはなく、ただ素直な感嘆だけが滲んでいるように聞こえた。
気づけば、手は三脚から離れている。記録のことすら頭から抜け落ちているように、その場に立ち尽くしていた。
白衣の裾がかすかに揺れている。それが、内側の高まりの名残のようにも見えた。
すぐ横に立つ東雲さんの姿も視界に入る。
その表情は抜け落ちたように静かで、ただ瞳だけが夜空を映していた。
どこか遠くを見つめるような、懐かしむような――そんな穏やかさがある。
呼吸も、いつの間にか深く静かなものへと変わっていた。
視界の端で、そっと目が伏せられる。
ほんのわずかな動きだったが、張り詰めていたものが少しだけほどけたように見えた。
「……落ち着きますね」
小さく漏れたその言葉は、誰に向けられたものでもないように聞こえた。
所長は腕を組んだまま、何も言わずに立っている。
ただ、その視線だけがゆっくりと動き、結界の端から端までをなぞるように往復していた。
時折、わずかに唇が動く。
けれど声にはならない。
ただ観察している――そんな印象だけが残る。
結界内の空間は依然として静謐を保ち、時間の流れすら変わってしまったかのような錯覚を与えている。
誰も口を開かないまま、それぞれが何かを確かめている――そんな空気だけが満ちていた。
夜空を模したその光景は、依然として崩れることなくただそこに在り続けている。
やがて咲良さんが、はっとしたように小さく首を振る。
そのまま意識を引き戻すように、すぐに動き出した。
三脚の位置を細かく調整しながら、カメラを操作する。
デジタルパネルを何度も確認しては、レンズ越しに覗き込んだ。
「測定精度、上げないと……」
独り言のように呟きながら設定を調整していくその動きは冷静で的確だったが、指先にはかすかな震えがあり、抑えきれない興奮が端々に滲んでいた。
「これでどうかな……?」
もう一度覗き込むと、画面には複数のデータが表示され、それぞれが微妙に変動している。
しかしその意味を理解することはできず、ただ見守るしかない。
ただ、何かを確かめようとするその姿は、明らかに普段の彼女とは違っていた。
やがて咲良さんは小さくため息をつく。
「……やっぱり測定器が足りないか」
その声には、どこか納得しきれないような響きが混じっているように聞こえた。
「どういうことですか?」
思わず問いかけると、彼女はこちらを見て小さく頷いた。
「うーん……簡易測定では限界があるみたい」
そう言いながらノートパソコンを操作し始める。
だが、モニターにはいくつものグラフや数値が並んでいるものの、数値の意味までは分からなかった。
「思っていた結果と全然違う……」
ぽつりと漏れたその言葉には、戸惑いの色が滲んでいた。
「具体的にはどんな風に違うんですか?」
さらに尋ねると、咲良さんは顔を上げ、その瞳にまだ消えない興奮を宿したまま答えた。
「予想ではもっと弱い反応のはずだったんだ。発動できたとしても、最初に言った通り一〜二メートル程度の範囲に収まるはずだったし」
そう言って、部屋全体を示すように指差す。
「でも実際はこの通り。だからこそ機材が足りないんだよ。こんな規模だと詳細な測定ができない」
小さく息を吐いたあと、どこか申し訳なさそうに続けた。
「だから、よければなんだけど……感覚でいいから、凪くんが感じてることとか、有栖ちゃんや葵さんの感想を聞かせてほしいなって」
有栖と顔を見合わせる。
視線が合い、どちらからともなく小さく頷いた。
「わかりました」
「えぇ、構いませんよ」
「しかたないわねぇ」
環の表情がわずかに緩む。
「まずは凪くんからね。今どう?何か変わったことは?」
「そうですね……」
一度、目を閉じる。
意識を内側に向けると、この空間との繋がりのようなものが、確かにそこにある気がした。
不安定さはない。
むしろ、奇妙なほど落ち着いている。
「変な感覚はないですね。むしろ落ち着くというか……しっくりくる感じがあります」
「なるほどね……有栖ちゃんは?」
「私ですか?」
東雲さんがわずかに目を瞬かせた後、静かに目を閉じた。
「不思議な感覚ですね……この空間全体に、安心感というか親しみを感じます」
そう答えた彼女の表情は穏やかだった。
「葵さんは?」
「わたし?」
所長は腕を組んだまま目を閉じ、しばらく考え込んでからゆっくりと口を開いた。
「そうね……違和感はないわね。むしろ、他の人よりずっと安定しているんじゃないかしら」
「へぇ……やっぱりそうなんだ」
咲良さんは頷きながら、再び画面へと向き直る。
しばらく操作を続けたあと、不意に顔を上げた。
「ありがとう、みんな!参考になったよ!」
両手を軽く打ち合わせながら、楽しそうに笑う。
「それにしても、あの道具でここまで安定するのはおかしいよねぇ……」
首を傾げつつ呟いた後、ふっと表情を引き締めた。
「とりあえず、いろいろ試したいし……その前に一度終わらせようか」
結界を閉じるよう促され、言われた通り力を抜こうとする。
だが――
「あれ?」
流し込んでいたはずの感覚がどこにもない。
吸われる感覚も消えており、止めるべきものが感じられない。
「力が、流れてないみたいです」
そう口にすると、咲良さんの動きが止まった。
「どういうこと?」
怪訝そうに問いかけられ、言葉を選びながら答える。
「吸われていないというか……もう、流れてないというか……」
短い沈黙が落ちる。
空気が、わずかに張り詰めた気がした。
「……うーん???」
最初に声を漏らしたのは咲良さんだった。
「どういうことだろう?」
東雲さんが続く。
「あの道具って、流し込み続けないと維持できないはずですよね?」
疑問だけが重なっていく中、やがて所長が口を開いた。
「通常なら、供給を断てば結界はすぐに消えるはずよね?」
所長の言葉に、環が画面を指差す。
「そうだね。ちゃんと反応も残ってる。なんでか分からないけど消えてないね」
そこには、途切れずに伸び続けるラインが表示されている。
「もう一分以上維持されてるわ」
その声には、驚きが混じっているように聞こえた。
「普通じゃあり得ないわね」
東雲さんが小さくうなずく。
「何か特別なことが起きているのでしょうか?」
所長の視線をこちらへ向いた。
「発動したとき、どんな感覚があったの?」
少し考えてから、言葉を探す。
「力が吸い込まれる感覚があって……そのあと、体の中で何かが膨らむような感じがして、それが一気に広がるというか……」
うまく形にできないまま、続ける。
「自分の中から何かが外に出た感じでした」
所長は小さく頷く。
「今は繋がっている感覚はある?」
「はい、あります」
「それを操作できる?」
「……やってみます」
意識を集中させると、見えない糸のようなものが確かに存在している気がした。
その先は結界全体へと広がっている。
「繋がりがあるのは分かります」
「なら、それを手繰って戻すことはできる?」
言われた通り意識を向ける。
「ん……」
途中で何かが引っ掛かるような感覚があり、それ以上は動かせない。
「何か引っかかっている感覚があって、戻すのは難しいみたいです」
「ん-……じゃあ、切る感覚はどう?」
頷き、今度は断ち切るイメージを作る。
その瞬間――
確かな手応えがあった。
『プツッ』
視界が、ふっと切り替わる。
夜空は消え、見慣れた研究室が戻ってくる。
それまで満たされていた静寂が嘘のように消え、室内特有の空気の流れが遅れて意識に入り込んできた。
「おぉ!」
咲良さんの歓声が上がり、興奮を隠しきれない様子でこちらへ駆け寄ってくる。
「本当に戻ったよ!凄い!」
所長もわずかだが目を見開いていた。
「一気に切り替えられたのね」
「はい、思ったより簡単に……」
自分でも驚くほどあっさりとできてしまったことに、どこか現実味のない感覚が残る。
そんなやり取りの最中、突然咲良さんの携帯が震え始めた。
「わっ?!」
肩を跳ねさせ、慌ててポケットから端末を取り出す。
画面を覗き込んだ途端、表情があからさまに曇った。
「あちゃー……」
苦笑いを浮かべながら、端末を見つめている。
「みんな、様子聞きたいみたい……検査結果教えてください、だって」
小さくため息をつきながら、どこか申し訳なさそうにこちらを見る。
「ごめん、今日はここまでにしてもいい?」
その言葉に、所長が静かに頷く。
「しょうがないわね。色々とイレギュラーが起きたしね。黒須くんの安全の為に続きは明日に回したほうがよさそうだわ」
咲良さんは立ち上がると、そのままドアへ向かう。
「じゃあ行ってくるね!鍵閉めお願い!」
口早に言い切ると、部屋を飛び出していく。
その背中が見えなくなると同時に、研究室には再び静けさが戻った。
「さて……あなたたちは、これからどうするの?」
向けられた視線に、有栖と顔を見合わせる。
「どうしましょうか」
「そうですね……」
言葉に詰まりながらも、自然と同じ結論に辿り着く。
「……とりあえず、今日は帰りますか」
「ええ、そのほうがよさそうですね」
小さく頷き合う。
「それなら、明日からの話だけど——」
所長の声が続く。
「有栖と一緒に行動してもらうわ」
その言葉に、有栖の肩がわずかに揺れた。
「私と、ですか?」
「ええ。正確には、有栖のフォローを凪くんにお願いする形ね」
一瞬、言葉の意味を飲み込みきれないように、有栖が目を瞬かせる。
「……私が、フォローされる側、ですか?」
かすかな戸惑いが、その声に滲む。
所長は気にした様子もなく、淡々と続けた。
「もちろん、戦闘方面では信頼しているわ。ただ有栖の場合、まず連絡手段の確保が最優先よ。あの時みたいに、すぐ通信できなくなると困るの」
その言葉に、東雲さんの視線が落ちる。
思い当たる節が多々あるのだろう。
頬にわずかな赤みが差していた。
「その点、凪くんは即応できていたわ。それに今見ていた通り結界の展開速度も速い。なら役割分担としては自然でしょ」
言葉はもっともだった。
だからか、東雲さんは何も返さない。
所長はその様子を一瞥して、わずかに口元を緩める。
「要するに、荷物持ち兼連絡係ね。有栖にはちょっと難しいでしょ?」
追い打ちのような一言に、有栖の肩が目に見えて落ちた。
完全に打ちひしがれた様子で俯いている。
「まぁ、そういうわけで決定事項よ。異論は?」
「あ、ありません……」
消え入りそうな声だった。
こちらも特に異論はなく、軽く頷く。
「分かりました。よろしくお願いします」
そう言って頭を下げると、有栖も慌てて同じように頭を下げる。
「こちらこそ、よろしくお願いします」
「決まりね。あとは二人で調整しなさい」
どこかぎこちないやり取りに所長が小さく笑う。
「ああ、それと——もうひとつ」
振り返った所長の目が、わずかに細められる。
「正式に組むんだから、堅苦しいのはやめなさい。お互い名前で呼ぶこと」
その言葉に、思わず有栖と顔を見合わせる。
視線を交わすものの、どう切り出せばいいのか分からない。
妙な沈黙だけが流れる。
「命を預ける相手よ? 少しは距離を詰めておきなさい」
言っていることは分かる。
けれど、それとこれとは別の話だった。
「……その、急に言われても」
東雲さんが困ったように視線を泳がせる。
しばらくの沈黙の後、意を決したように口を開いた。
「では……凪さん?」
「えっと……有栖さん?」
ぎこちない呼びかけが重なり、思わず苦笑が漏れた。
けれど、その距離がほんの少しだけ縮まったような気もする。
改めて顔を見合わせると、有栖さんも小さく笑っている。
その様子を見ていた所長が、満足げに頷いた。
「ま、仲良くやりなさいよ」
そう言い残し、部屋を出ていく。
扉が閉まる音が響いたあと、研究室には自分たちだけが残された。
先ほどまでの緊張が嘘みたいに引いて、どこか拍子抜けしたような静けさが広がっていた。
「はぁ……」
有栖さんが深く息を吐く。
その声音は、ようやく力が抜けたように聞こえた。
「なんだか、一気に疲れましたね」
苦笑交じりの言葉に、彼女も小さく頷く。
「本当ですね……まさか、こんなことになるなんて」
先ほどまでの空気とは打って変わって和やかな空気が流れる。
「……帰りましょうか」
「ええ」
並んで歩き出す。
研究室を出て廊下を進む途中、ふと横を見ると有栖さんの表情は先ほどより少しだけ柔らいでいるように見えた。
ほんのわずかな変化。
けれど、それが妙に印象に残る。
理由ははっきりしない。
ただ――それを悪くないと思っている自分がいた。




