一話
仕事を終え、家路につくころには夕闇が深まっていった。
家までの最短ルートは、人通りが多く飲食店の明かりと笑い声に包まれた賑やかな道。
けれど、あの雑踏の中を歩くのはどうにも息苦しく、いつも静けさを求めて公園の闇を選んでいた。
だが――今日は違った。
公園が近づくにつれ、胸の奥がざわつく。
理由はわからない。
ただ、あの暗がりに足を踏み入れることを、身体のどこかが警鐘を鳴らしていた。
それでも引き返さなかったのは、なんてことはない。
退屈だったからだ。
何も変わらず、ただ惰性で仕事をして帰宅する毎日。
そんな日々に、少しだけ刺激が欲しかった。
「――なんだ。やけに暗いと思ったら街灯が付いていないのか」
いつもであれば、同じように帰り道にしている人が多数おり、街灯が明るく照らしている道。
だが今日は、なぜか街灯が付いておらず人通りもない。
気付けば日も沈み、街灯と比べると頼りなく感じてしまう月の明かりだけが公園を薄らと照らしている。
早く帰ろう。
そう思い踵を返した瞬間だった。
「…………ん?」
普段と違い静寂に包まれている公園。
その静寂に何かが響いた。
それが何なのかを確かめるべく、音のした方へと足を向けてしまった。
――おかしい。
先程から歩いているが誰ともすれ違わない。
いつもいるはずの人影がひとつもない。
世界から切り離されたかのように静かな公園に自分の足音が響く。
すぐ近くに賑やかな大通りがあるはずなのに、その気配がまるで届かない。
時折ピチャピチャと水音のようなものが微かに聞こえる。
確かこの公園には、夏場に足元から噴水のように水を出す設備が広場にあった。
だが、こんな寒さだ。
水なんて出ているはずがない。
そのはずなのに、広場に近づけば近づくほど水音がはっきりしていった。
広場に到着したが、やはりというか当たり前というか噴水は稼働していなかった。
開けた場所だからか、先程歩いていた道と比べだいぶ明るく感じる。
気がつけば、先程から聞こえていた水音も今はしなくなっていた。
「なんだ、なんにもないのか」
何かがあって欲しかった訳ではないが、何もないと分かるとつまらない。
だが、何もないのであれば仕方がない。
このまま広場を抜けて家に帰ろうと思い足を進めた瞬間、今までと違いグチャッと何かを潰しているような音が聞こえた。
――近い。
さっき聞こえた水音が、すぐ近くから聞こえる。
水音のほうへ目を向け、なぜ好奇心に負け公園へ来てしまったのかと後悔した。
「……ッ!」
広場の隅には、ナニカがいた。
大きい。
最低でも自分の二倍はありそうだ。
白い巨体に、血管のような赤い筋が走り不気味に脈打っている。
顔らしき部分に目はない。
代わりに、大きすぎる口があった。
そんな見たこともない化け物がよつん這いになり、グチャグチャと何かを貪り食っている。
あれは……足?
「え…………あ…………」
恐怖で意識が硬直する。
あまりにも現実味のない存在で脳が正常に動作しない。
ただ、ひとつ。
――ヤバい
アレから逃げなければならない。
逃げられなければ最後……間違いなく喰われる。
これ以上、ここにいてはダメだ。
だが逃げ出すために少しでも音を立てた瞬間、俺という存在に気付かれてしまうであろうと感じる。
早くここから動かなければと考える意識と、動いて音を出してはいけないという本能がぶつかり合う。
心臓が萎縮し、震えが止まらず足に力が入らない。
だが、なぜだろうか。こんなにも恐怖を感じているにも関わらず、アレから目を離すことができない。
魅入られるかのように貪り食っている化け物を見続けてしまった。
永劫とも思える沈黙。
不意に化け物が顔を上げ、辺りを見回し始めた。
「………………」
――無いはずの目が、合った気がした。
次は……自分だ。
「……ッ!」
足が勝手に動き出す。
化け物に背を向け、本能的に走り出した。
気づかれた以上、自分が出す音など気にも留めず、ただひたすらに走る。
「はぁっ……はぁっ……はぁっ……」
普段運動をしていない反動か、すぐに息が切れてくる。
静寂な公園に自分の吐息が響く。
体に鞭を打ち、走り続けた。
なんとか大通りへ。
早く人気があるところに行きたい。
もう少しで公園の入り口に……いつもの日常に戻れる。
そう思い自分の限界以上のスピードで走り続けた。
――ふと、背後から追いかけてくるはずの化け物の音が聞こえないことに気づく。
恐る恐る立ち止まり振り向くと、化け物の姿は背後になかった。
「はぁ……はぁ……に……逃げられた……?」
安堵からか緊張の糸が切れ、全身が重くなる。
それでも立ち止まれば終わりだ。
早くここから離れなければ、間違いなく喰われる。
「何だったんだよ……アレは……」
なんとか疲れた体を奮い立たせ、公園の入り口に戻る道へ向き直す。
だが、無情にも――絶望がそこにいた。
化け物は口元を真っ赤に染め、だらしなく涎を垂らしこちらを見ていた。
月の光に照らされ、鋭い牙がてらてらと光っている。
もう逃げ場はない。
膝が、崩れた。
ゆっくりと化け物が近づいてくる。
息ができない。
体に力が入らず、思考が止まる。
ただ漠然と、自分の死を感じ取る。
覚悟を決め、化け物を睨みつけた瞬間――
轟音。
いきなり化け物が目の前から消えた。
「…………は?」
何が起きたのか全く分からない。
止まった思考が急速に再起動し、自然と辺りを見回す。
そんな俺の目の前に、彼女が立っていた。
「――――危ないところでしたが、大丈夫でしたか?」
凛とした声が闇を切り裂く。
「………………」
声が出ない。
息が止まる。
優しい月明かりを浴び、しっとりと輝く短く揃えられた黒髪。
どこまでも穏やかで、しかし強い意志を感じる切れ目の長い瞳。
その瞳が、まっすぐこちらを見ていた。
まだ化け物は倒れていない。
それでも、目を逸らせなかった。
「……大丈夫ですか?」
再度、彼女から声をかけられる。
「あ……あぁ……はい。なんとか……大丈夫……です……」
やっとのことで声を出し、慌てて立ち上がる。
視線を逸らした瞬間、顔が熱くなった。
こんな時に何を考えていたんだ俺は。
「それなら良かったです」
彼女はそう言いながら、化け物の方へ向き直す。
「とりあえずアレを倒してきますので、そこで待っていていただけますか?」
言うが早いか、彼女は化け物に向かって跳んでいった。
人間とは思えない速度で。
瞬きをした瞬間には、既に化け物に肉薄していた。
響く剣戟。
月明かりの下、黒と白が激しく交錯する。
目にも留まらぬ速度で動き回り、かろうじて動きが見える程度の高速の剣技。
次の瞬間、化け物の腕が宙を舞った。
いつの間に懐へ入ったのかも分からない。
刃が閃き、血が噴き出す。
地面が赤黒く染まっていく。
化け物の動きが、明らかに鈍る。
それでもなお、白い巨体は倒れない。
咆哮。
最後の反撃。
――だが、遅すぎた。
「はっ!!」
一気に踏み込んだ彼女の横薙ぎの一閃。
月光が刃に宿る。
首が、落ちた。
噴水のように血が噴き上がる。
全身にある赤い筋が不気味に脈打つ。
その間隔が、次第に長くなり――
やがて、止まった。
月明かりの下、白い巨体がゆっくりと沈んでいく。
「ふぅ……」
……終わった?
ブンッと女性が剣を振り血を払いながら、しっかりとした足取りでこちらへ向かってくる。
返り血を浴び、衣服が一部赤黒く染まってしまっていたが、それでも目を奪われた。
――いや、見とれている場合じゃない。
確かに彼女に救われた。
だが、冷静に考えてほしい。
普通の人間にあのような動きができるか?
あんな化け物を圧倒して……。
本当に人間なのか?
「……助けてもらえたことは感謝したい。だけど、あんたはいったい何者なんだ?」
少し後退りをしながら話しかける。
あのスピードで動ける相手には無意味だが、少しでも逃げられる可能性を上げるために。
「何者か、ですか?」
きょとんとした顔でこちらを見つめてくる。
くそ……さっきの戦いを見た後だとギャップでヤバいな。
「――東雲 有栖と言います。安心してください。あなたに危害を加えることはありませんよ」
ゆっくりと穏やかに、微笑みを浮かべながら話す。
その微笑みは、どこか慣れているように見えた。
助けた相手に疑われ、恐怖を抱かれる。
それでも俺を安心させるために、疑われている悲しさを押し殺してまで……。
そんな彼女の優しさに居た堪れなくなる。
「あ、いや、悪かった。色々ありすぎて混乱していたというか……」
「いえ、気になさらないで下さい。 あんな化け物を見た後では仕方がないですよ。それよりも間に合ってよかったです。お怪我とかなさっていませんか?」
そう言われ、改めて自分の全身を見た。
がむしゃらに逃げていたからか、ところどころ引っかかったりぶつかったりして擦り傷が出来ていたが特に問題ないように思う。
「うん、多分問題ないと思う。改めて、助けてくれてありがとうございます。あと、疑いの目を向けて申し訳なかった」
「先程も言いましたが、気になさらないでください。この状況では、誰でもそうだと思いますので。差し支えなければ、少し質問をさせて頂きたいのですがよろしいですか?」
質問……?
分かることなんか、ほとんどないんだけどな。
あぁそういえば名前も伝えてなかったな。
「そういえば名前言ってなかったですね。俺は黒須 凪って言うんだ」
女性――東雲さんは変わらずこちらを見つめてくる。
あれ? 何か間違ったかな?
「黒須さんと仰るのですね。では、質問させていただきます」
急に東雲さんの雰囲気が変わる。
聞きたいことは名前ではなかったらしい。
先程までの穏やかな空気はなくなり、ピリッと張り詰めたものへと変わる。
そして、どこか疑いの目を向けられた。
「いったいどのようにしてこの公園に入り込んだんでしょうか?一般の方に被害が出ないよう、この一帯には結界を張っていました。普通の方であれば、公園に近づくことすら出来ないはずなんです。」
公園に近づくことすら出来ない――
そう言われても、まるで実感が湧かなかった。
確かに嫌な感じはした。
けれど、それだけだ。
「結界? 公園には入れない? 一体どう言うことなんです?」
「そうですね……。簡単に言うと、公園に行きたくなくなる……といった感じでしょうか」
「ごめん。正直に話すけどよく分からない。確かに、公園に行くことに対して嫌な気持ちを持ったのはある。だけど興味本位というか、なんというか……行ってみようと思ったら普通に行けたし、公園にも入れたんだ。特別なことは何もなかったと思う」
「………………」
予想していた内容と違ったのか、東雲さんは絶句してしまった。
どうやらマズいことを言ってしまったらしい。
唖然とした顔でこちらを見てくる。
……沈黙が辛い。
こうなればヤケだ。
出会うまでの流れを全部言ってしまおう。
「公園に入ってからは、なぜか街灯が消えていて人気もなかった。月明かりしかなかったけど、歩くのには問題ないくらい明るかったからそのまま進んでいったんだ。しばらく歩いていたら途中で変な音がしたから音がした方に向かって行った。今考えたら、なんでその時に公園から出て行かなかったのか不思議だよ。それで、向かって行った先にさっきの化け物がいて、化け物から逃げて入口の方へ戻って行ったら追いつかれて襲われて、東雲さんに助けられたんだ」
矢継ぎ早に話す。
うん、我ながらどんな状況だったのか分からない。
街灯が消えていたのも不思議だし、人気がないのも変だ。
なんでその時点で公園から出ようとしなかったんだろう?
そんなことを考えていると、東雲さんは急に下を向きながらぶつぶつと何かを言い始めた。
「ということは……うまく……なかったということ? でも……は……。それとも……なの? もしかして……」
不意に顔を上げ、真剣な顔つきでこちらを見てくる。
「お願いがあります。私と一緒に事務所まで付いてきてもらえませんか? 今回の事で質問されたいこともあるでしょうし、あなたのことを所長に報告させてほしいので」
――きっとこれは、お願いというよりも強制なんだろうな。
まぁ帰ってからやることもないし、明日は休みだ。
今は……22時過ぎか。時間ならあるし問題ないな。
それに、このままハイさよならで終わるとは到底思えない。
あんな化け物の存在を俺は知らなかった。
しかもおそらくだが人食いの。
ということは、その存在を隠匿する組織があるはずだ。
最悪は口封じに……なんてことになってもおかしくはない。
怖いお兄さんとかが出てくる前に、東雲さんに付いて行った方が無難そうだ。
「……分かった。その方が安全そうだし、付いて行くよ。で、その事務所は何処にあるんです? 明日は休みだけど、明後日からはまた仕事だからそれまでには帰ってこられる場所だと嬉しいんだけど」
「大丈夫ですよ。ここから車ですぐのところにあります。歩いても行けますが、これから車を回してもらうのでお待ちくださいね」
ホッと安堵の表情を浮かべる東雲さん。
だが、今度は何故か少し不安そうな表情に変わる。
急にそわそわとし始め、落ち着きがない。
何かトラブルでも起きたのだろうかと心配して見ていると、意を決したようにガラケーを取り出し、おっかなびっくり操作を始めた。
……操作を始めてから数分経過したが、なかなか通話が出来ないようだ。
おそらく電話を掛けようとしているのだろうが、首を傾げたり固まったりしていて中々電話を掛けない。
激しく動いていたし、調子でも悪いのかもしれないな。
表情にも焦りの色が見える。
まぁ急いでいるわけでも無いし、気長に待つとしよう。
……更に数分の時が経過した。
東雲さんの焦燥は、明らかに目に見えるものとなっていた。指先がガラケーのキーを叩くたびに、僅かに震えている。
時折、眉間に皺を寄せては、再び小さな画面に視線を落とす。
——故障か。
あの化け物と相対していた時間、彼女はあれほどの速度で動いていた。一度や二度、地面や化け物にぶつかってしまっていたとしても何ら不思議はない。
必死な顔で操作を続けている姿を見ていると、こちらからの視線を感じたのか彼女は顔を上げた。
「………………」
「………………」
――交わる視線。
そして、2度目の沈黙。
東雲さんの頬が徐々に赤くなっていく。
うっすらと涙すら浮かべているようにも見えた。
「……もしかして、壊れちゃってました?」
「………………」
逡巡の後、彼女は申し訳無さそうにガラケーを差し出した。
「……所長という名前で登録されていると思いますので、代わりに電話を掛けていただけますか?」
「――はい?」
「なので! 所長という名前で登録されていると思いますので、代わりに電話を掛けていただけませんか?」
一瞬、耳を疑った。代わりに電話を掛ける? 所長さんに?
受け取ったガラケーは、画面に亀裂もなく、操作にも支障がない。
故障しているわけではないらしい。
なぜ?
——そう思い、東雲さんの顔を見る。
途端に彼女は顔を真っ赤にして言葉を重ねてきた。
「ち……違いますよ! たまたま……そう、たまたま出来なかっただけです!
スマートホン?タブレット?だって使えますからね!
持たせてもらえないわけじゃありません!」
何も訊いていないのに、自ら墓穴を掘る。
そっか、スマホやタブレットも使えないのか……。
これ以上、彼女の矜持を削がないよう、早々に所長へ連絡を入れよう。
ポチポチと操作し、所長の番号を選び通話ボタンを押す。
コール音が響いた瞬間――。
「いつまで待たせるつもりだ!!」
スピーカーから甲高く鋭い女性の声が弾け飛んだ。
うぅ……耳がキンと痺れる。
「毎回毎回お前は電話ひとつ出来ないのか! 一体何時になったら、その程度のことが不自由なく出来るようになるんだ! 討伐が完了したらすぐに連絡を入れろと言ってあったよな? ああ!? 毎回連絡が遅れるから連絡要員を付けるという話をしても、問題ないと言っていたのは何処の誰だ! だいたいお前は――」
「いや、あの……すいません」
私の声が彼女の怒声に割って入る。
先程まで威勢よく捲し立てていた相手は、すぐさま静かになった。
「――ん? 誰だお前は? 」
知らない声が急に聞こえたからか、先程の怒鳴り声とは打って変わって静かな口調で話しかけられる。
「はじめまして。 私は黒須凪と申します。 白い化け物に襲われていたところを東雲さんに助けていただきました。東雲さんから同行を依頼されて、これから事務所の方へお邪魔させていただく予定でした。それで……その……東雲さんは……え――っと……あの――……」
言葉に詰まる。
振り返れば、東雲は地面に体育座りをし、小刻みに震えながら「ごめんなさい……ごめんなさい……」と呟いている。
——どうしたものか。今の彼女はまともに会話できるようには見えない。
「――その、東雲さんはですね、先程の戦いで疲れていらっしゃるようで、少し離れたところに座っています。おっしゃっていた通り、携帯電話の操作に苦心されていたので、私が代わりにお電話させていただきました。」
「おい有栖! その程度の相手で疲れただと!? 今すぐ私と代われ!」
……これは酷く怒らせてしまったか。怒鳴り声が容赦なく鼓膜を揺らす。
だが、怯むわけにはいかない。
ここで怖気づいて代わってしまうと、さらに震えが激しくなっていく東雲さんが不憫すぎる。
「不測の事態でもあったようなので電話は私が代わったまま説明させてください。多分、今東雲さんに電話を替わってもまともな受け答えは出来ないように見えますし」
「——……わかった」
ふっと、溜息をつく音が聞こえる。電話越しの彼女の声が急にトーンダウンする。
「——まぁ……事情が掴めないのはお互い様だし仕方ないか。それで? 君は何者なの?」
「はい。 先程申し上げました通り、東雲さんに助けていただいた者です。 白い化け物に遭遇し、抵抗もできず窮地に陥ったところを助けていただきました」
所長は無言だった。何かを考えているのだろうか。
それとも——私の反応を試しているのか?
「——なるほど。 で? 君はこれからどうするつもり?」
「え……っと、東雲さんから事務所に行くよう依頼されており、ご迷惑でなければお伺いできればと思っております」
「ふーん……」
またしても沈黙。だが先程の棘のある沈黙とは違い、どこか探るような気配が滲む。
「——わかった。 黒須凪くん、だったね? 君のことは記憶しておく。 いま迎えを手配するから事務所まで来なさい。」
帰ってきたらお仕置きだと有栖に伝えておいてと所長から話を受け、通話は終わった。
東雲さんにガラケーを返すと、彼女は礼を述べながらそれを受け取った。
「代わりに電話をしていただいてありがとうございました。そう時間がかからないうちに迎えが来ると思いますので、それに乗って事務所へ行きましょう」
「――――」
言葉にならない感情が込み上げてくる。怒りや恐怖といった激しいものではなく、得体の知れない虚脱感だ。この奇妙な流れに翻弄されている自分が滑稽に思えた。
「――黒須さん、なにか?」
「――いいえ」
さり気なく腰に佩いている刀に手を伸ばし、射抜くような眼光で俺を見据えてくる。
しかし、その表情には微かな紅潮が差していた。羞恥か照れか。あるいは両方だろう。
「……なんでもないです。所長さんは怖そうな人だなぁっと」
「そうですか」
過去のお仕置きを思い出しているのか、手を刀から離しつつ急に遠い目をし始めた。
そんな有栖さんにちょっとした嗜虐心をそそられる。
「――そういえば、所長さんが後でお仕置きだ。みたいなことを仰っていたので頑張ってくださいね」
「――――――」
あ。膝から崩れ落ちた。




