94 パラドクシ・アルモニア
着ぶくれした幼子がアクセナの腕の中に収まる。抱き上げる動作こそ速かったものの、アクセナは表情を乏しくさせ、何か考え込むように視線を動かした。やがて合点がいったのか、彼女は硬かったその表情を納得したものへと変えた。
「……あ、そうか。今日は」
「いやぁ、すまんすまん。忙しいのはわかっていたんだが、セレナにどうしてもと、せがまれてなぁ?」
顔を綻ばせながらやってきたのはセレナの祖父、マノリスだった。
「どうも」
マノリスとは短く挨拶を済ませると、アクセナはくっつきそうなほど顔を寄せるセレナに、ようやく笑顔を見せた。
誰が話すわけでもない、独特の沈黙が訪れた。聞こえてくるのは室内に反響する機械の稼働音と、セレナがアクセナの服を掴んで立てる小さな音だけ。突然の来客があっても、この場所はきっと、いつもこんな感じなのだろう。
傍観者を決め込んでいた私は、マノリスに話しかけた。
「牧場はお休みなんですか?」
「その通り。牧場の仕事は、お休みです」
陽気なオーラが、マノリスの言葉から滲み出す。こういった人物に煙に巻かれるのが得意な私は、より強い陽の気を放つ大賢者に視線を向けた。
「表に停めたピックアップトラックは、私用車か?」
さすがは、人類最強。どうやって知ることができたのかは一切不明だが、大賢者は一瞥もくれず、マノリスたちのここまでの移動手段を特定した。
「ええ、そうです。こういう田舎ですと、一人一台が当たり前でして。アクセナ、学校から暖房設備の修理の依頼が入っている。それと、店に自分のトラックを置き忘れたままだろう? 学校までは私が送っていくから、帰りは自分の車で帰るといい」
「あぁ!! そうだった!!」
どこまでも抜けている『森の錬金術師』は、自分の資産を置き忘れたこと自体、忘れてしまったらしい。
「自分のトラックを持っていたのか……よし。これで、運搬方法については解決だな?」
なし崩し的に状況が判明していっただけなのに、大賢者は得意げに私の顔を覗き込んできた。
「運搬? あぁ、昨日言っていた、土のことですか」
「そうそう、コイツったら真面目だから、プリプリ怒っちゃってさぁ。『どうするんですか!?』なんつって、詰められちゃって。あまりにおっかねぇもんだから、思わずちびりそうになっちまったよ」
「ははははは! それは豪胆なことですなぁ!」
事実を捻じ曲げて伝えるんじゃない、この野郎。
大賢者は不敵な笑みを浮かべ、セレナを抱くアクセナにゆっくりと近づいていった。そのまま彼は、羽のように手を動かして、セレナの頭にそっと触れた。
「うむ……後頭部の形が素晴らしい。きっと愛情深い子に育つことだろう」
気恥ずかしかったのか、セレナは最初、その顔をアクセナの胸で隠していた。が、そのうちに、顔を埋めていたセレナの体が、心地よさそうに弛緩していくのが分かった。
「よかったなぁ、セレナ。大賢者様に撫でられるなんて幸運、滅多にないぞ? 帰ったら、ママに自慢しよう」
マノリスが目を細めて嬉しがるその様子を見て、私は大賢者という凄まじい権威について考えさせられた。同時に、アクセナが最初に言い淀んでいたことについて、思考を巡らす。
「今日は何か、約束があった日なんですか?」
「約束というか、週に一度、マノリスさんが修理品を運んでくる日なんです。マノリスさん、他に修理品はありますか?」
「役場から、ちょっとした依頼を預かっている。今日はそれだけだな」
今度は私が合点のいく番だった。今日はアクセナにとって、大切な仕事の日だったわけだ。
「じいちゃんたち、一緒に肉を焼こう!」
「ピィ!」
「すみません。撤収前に、良かったら、思い出作りじゃないですけど、交流の記念として、昼食を一緒にどうですか?」
タイミング悪く、外で作業を行っていたはずの三人が合流してきた。狭いキッチンが人で溢れかえった。
「とてもありがたいんですけど、でも、その……」
アクセナは、アシハラの料理の魔力にあてられた同志である。マノリスと大賢者を交互に見る彼女の表情からは、強い未練を感じさせられた。
「なぁに、急がんでいいさ。都合のいい時だけ利用してこようとする連中よりも、目の前の大切な友人を選ぶのが当然というものだ」
そんな彼女を救ったのは、村一番の理解者であるマノリスだった。彼は実に上手いことを言ってくれた。その言葉が響いた瞬間、そこにあった葛藤は、もはや検討に値しない過去へと追いやられた。
「決まりだな。全員、準備にかかれ!」
大賢者の号令を合図に、全員がぞろぞろと開け放たれたシャッターを目指した。
午前中はまさかの作業無し。その時間のほとんどを、昼のバーベキューの準備に費やすことになった。
「……は?」
屋外に出た私の第一声は、実に品格のないものだった。
テントやタープを始めとした、ゴチャゴチャとした大賢者の私物は全て片付けられ、その代わりに完璧に整えられたアウトドア・ファニチャーが目に飛び込んできたからである。
落ち着いた色合いの木目調を保った床に設置された、背もたれのないベンチとテーブル。そのフレームには、すべて同じ金属が使われている。
犯人は誰だ。
考えるまでもなく、私はアシハラの顔を仰ぎ見る。
「あの……はい」
自白は簡単に取れた。私はそのまま、口下手なオジサンをじっと見つめた。
「だから、その……ね? 森林浴とかも、大事になってくるわけじゃない?」
湿気を吸った羽毛布団のような声質が、私の表情を崩そうと挑みかかってきた。だが、まだまだ私は口を閉ざして、彼を追い詰める。
「大丈夫! 雨風に強い素材を! 使いましたよ!?」
そういうことではないのだが……もう限界だった。
両手を動かし、必死に弁明するアシハラの姿を見て、私は笑い出さずにはいられなかった。
「よし、まずは焚き火だな。サラマンダー君! ……は、いないから」
リーダーらしく、大賢者が新たな焚き火台を作り始める。
「どうぞ、掛けてお待ちください。ちゃちゃっと、つまめる物から作っていきますんで……」
アシハラはそれだけ言うと、逃げ道を見つけた小動物のように素早く大賢者のもとへと移動していった。指示に従って、残された者たちは席につき始めた。
「すごい……これ、アルミかなぁ?」
ただ一人、アクセナだけが椅子のフレームをノックして、その材質を確かめていた。
類は友を呼ぶとは、このことか。席についた私の鼻先に、森の澄んだ空気が、少しだけ強くなってきた風に乗って、運ばれてきた。




