5 カオス
風光明媚にもほどがある美しい自然、穏やかでどこか懐かしい時間が流れる暮らし、新鮮な地元の食材がふんだんに使われた美味しい料理やお酒の数々、集落の人々は私たちのような脛に傷を持つ人間でも温かく迎え入れてくれた。正直言って別れは惜しかった。大人の私でもそう思ったのだから、キラにとってはもっと辛かったのだろう。訪れた別れの場面で、彼女は今にも泣きだしそうな、半泣き状態の顔を最愛の祖母へと向けていた。
「オーマ……」
これに対して領主ティナ・エーデル・アレキサンダーは、成人した人間には決して向けることのないであろう慈愛に満ちた表情をキラに見せながら口を開いた。
「まだまだ、一人前には程遠いですね。また遊びにいらっしゃい。あなたにはたくさん教えるべきことがありますからね」
祖母と呼ぶにはあまりにも若々しすぎる外見をした領主の愛情たっぷりのその言葉は、キラの自立心を促したようだった。キラは目に溜まっていた涙を拭って領主にハグをすると、力強く頷いた。
「よし! それじゃあ、もう行くわ。何度でも言うけど、年末年始に帰ってくるつもりはないから、そこんところよろしく。くれぐれも変な手紙とか送ってこないでくれ」
両腕を組んで見届けていた大賢者は実に息子らしく、ドライに別れの挨拶をした。大賢者に向き直った時の領主の顔は、すでに一切の妥協を許さない厳しい母親のものに変わっていた。
「レオナルド、わかっていますね? いつ、いかなる時も怠るべからずですよ? 常に最悪の事態を想定し、備えは万全に……」
「はいはい、それじゃあお疲れ。色々と御馳走さん」
「来たるべく時の為、各方面への……」
「わーかってるっての!」
「オーマ!」
人の話を聞かない親子の意地の張り合いに割って入ったキラが再び祖母と抱擁を交わした。領主は表情の変化忙しく
「いいですか、キラ。私がいなくても、足は指の間まできちんと洗うのですよ?」
と、キラが問題を抱えている箇所の修正方法を冷静に指導した。こうして私たちはとてもとても、とても素敵だった秋のアレキサンダー領をあとにした。
大賢者が次の住処として選んだのは、地中海の遥か上空に浮かぶ小さな島だった。魔法界にとって地中海沿岸諸国という地域は、よからぬ者たちが身を潜めるにはうってつけのエリアでもあった。世界中、大体どの国にも当てはまることだが隣国同士の仲がよろしくない。そういうこともあって国家間で連携をとることが難しい。なのに国境付近の警備はザル。そのため、国際魔法警備局が強制力を駆使して動かないと解決に至らない犯罪が多い。ユーラシア大陸側は都市型犯罪、アフリカ大陸側は盗掘や誘拐といった犯罪がデータ上は多かったと記憶している。場所によっては反社会的勢力による大規模な犯罪組織が都市全体を牛耳っていたなんてこともあったが、ちょうど私たちが秘匿戦争に明け暮れていた時期に、二人の大賢者によってそれらは浄化された。それでも犯罪というものは完全に消え去ることはなく、今日も存在し続けている現実を顧みるに、まだまだ気の抜けない混沌とした地域であることに変わりはなかった。
その小島は寒々とした岩石地帯だった。いつものウッドデッキ付きのテントもどこか弱々しく見えた。テントは外観だけであり、ひとたび中に入れば落ち着く雰囲気の漂った生活空間が広がっている。到着早々、大賢者は息をつく暇もなく一人で出かけていった。それからなんと一週間以上ものあいだ、彼は帰ってこなかった。理不尽に置いてけぼりをくらった私たちだったが、祖母という絶対的存在を失って抜け殻のようになってしまっていたキラを何とか慰めようと躍起になることで、そのことについてあまり考えずに済んだ。肝心のキラは三日と経たず、元の足の臭さを取り戻していた。
大賢者のいない退屈はテレビが救ってくれた。キラとピィちゃんがテレビに釘付けになっている間、大人組は各々が好きな飲み物を昼間から嗜んだ。特に外出を制限されているわけでもなかった為、皆で買い物にも行った。ゲームを買えばソフィーさんが無双した。ボードゲームだろうが、ウォーシミュレーションだろうが、ありとあらゆるジャンルのゲームで彼女に勝てるものは存在し得なかった。魚嫌いの人がいなくなったおかげで、遠慮せず魚介料理を楽しむこともできた。何でも作れるアシハラおじさんの存在はありがたく、全員に大好評だったクラムチャウダーももちろん美味しかったが、私が一人静かに感動を覚えたのはハマグリ鍋だった。その味といったら、毎日これでもいいと思えるくらいで、出汁と生姜の効いた上品な味わいのスープ、それによって煮込まれた具材は最高で、特に日本のお酒との相性が抜群だった。
これ以上の幸せはないと言ってもいいほどの平和な暮らしが続いた。しかしながら、確実に足りないものがあった。生活が豊かであればあるほどにその思いは募っていった。ある日の午後のことだった。皆でキッチンに集まって日本のお菓子である『練り切り』を作っていた時に、とうとうキラが核心をついた。
「なんか、レオがいないとつまんないな」
少しの沈黙の間、私は最初はソフィーさん、それからアシハラへと視線を移した。ソフィーさんはいつのものすっとぼけたような、少しだけおどけたようないたずらな微笑を浮かべ、アシハラは笑いながらも困惑したような曖昧な表情を見せていた。わかっていても私は決して口にしなかったが、キラの言ったことは正しい。結局、どんなに快適で素晴らしい生活を送ろうとも、私たちの日常には絶対にそれが必要であった。月並みなことしか思い浮かばなかったが、私はキラに慰めの言葉をかけることにした。
「そうだね。早く帰ってくると」
すべてを言い終わらないうちに、玄関先からドアの開閉音が派手に立った。当然、全員の視線がそちらに集まった。
「はぁ~、もうやだ」
突然の外出をした大賢者は帰宅も突然であった。両方の肩をガックリと落とし込み、その表情や暗く、えらくネガティブな言葉と共にリビングに待ちわびた混沌が舞い戻った。実に十日ぶりのことだった。
「怒られた……怒られちゃったよぉ……こちとら、もう大人なのにさぁ……」
大賢者はゴロンとソファに横になると、テレビを魔法で壁一面に拡大し、真昼間からポルノを流し始めた。
「こういうのも見放題だよ。大人だから。うわぁ……もう……はぁ……オナニーでもしちゃおうかなぁ」
自暴自棄になっているのか、なんにせよ大賢者の精神状態は最悪のようだった。対して私とアシハラ、そしてソフィーさんの口元は緩んでいた。キラに至っては太陽のように明るい笑顔をみせていた。ピィちゃんも両手を挙げてピィと鳴きながら家主の帰宅を歓迎し、サラマンダー君は尻尾を激しく振り回しながら大賢者の顔をベロベロに舐めまわしていた。
「よーしよし。ただいま、サラマンダー君。待っててくれたのかぁ? それはおりこうさんだったなぁ。それにしても……サラマンダー君だけだなぁ!? こうして一緒に悲しんでくれるのは!!」
声が大きくなった。大賢者がみせている落ち込みは、誰かに構ってほしいポーズであることは丸わかりだった。
「どうしたらいいんですかね、アレ」
ポルノさえ流れていなければ、私もサラマンダー君に続いていたかもしれないが、その時の私は大賢者の近くへ行く気にすらなれなかった。
「いやぁ……そう言われても。ねぇ?」
「ピッ」
「いいのよ。あんなの、しょっちゅうだもん。放っておきましょう」
あからさまな準備不足の為、緊急の会議は滞った。ここで声をあげたのはキラだった。
「レオを元気にすればいいのか?」
内心、ダメだろうとは思っていた。それでも何もしないよりはマシかと思い、私は彼女を煽った。
「それじゃあ、お願いしてもいい?」
「ふっふっふ。まかせろ」
キラは私たちにサムズアップを見せると、悠々と大賢者に近付いていった。
「レオ、レオ」
「あん? なんだぁ?」
ハスキー犬サイズのサラマンダー君を抱きしめたまま、ソファで横になっていた大賢者は、大人げなく我が子を睨みつけた。父親の子供だましに慣れているキラは少しも怯まずに両手を大きく広げると、自らの言葉に合わせてゆったりと体全体を動かした。
「ムガの作ったうまい肉料理と、モリモリのご飯」
ちょっと意味が分からなかった。ただ自分が今食べたいものを言葉にしただけ。ところがこれが効果てきめんだった。キラを睨みつけていた大賢者の目つきは少しだけ穏やかになり、口元は明らかに笑いを堪えているものに変わっていた。
「デザートはそうだなぁ……タルの作ったケーキと、ソフィーが入れた紅茶だ!!」
キラは何度も頷いて自信満々の笑みを大賢者に向けた。
「どうだ?」
「ちゃんと野菜も食え。この年中下痢ピー娘が」
おバカな娘の声かけは、大賢者にいつもの不敵な笑みを取り戻させた。大賢者に額を突かれたキラは、サラマンダー君ごと大賢者のことを抱きしめた。一瞬それを避けようとした大賢者だったが、思い直したのか娘の愛情表現を素直に受け入れた。
「おかえり、レオ!」
「気が済んだら、さっさと離れろ」
「なんだよぉ、照れるなって!」
「うるせぇ」
大賢者に振り払われたキラの次の興味は、壁一面に流れるポルノ映像作品に向けられた。
「あのさぁ、レオ。私もこういう事、やってみたいんだけど?」
「誰と?」
「ムガに決まってるだろ?」
「無理だよ。でかいんだろ? アシハラのちんこは」
「うん」
「どれくらいあるんだ?」
「なんだっけ。アレ」
再びキラは両手を広げると、今度はその手を上下に大きく振った。
「あ、そうだ。フランスパン」
「ぶっ……フハハハハ!!」
バカな会話だった。キラの選んだ単語は大賢者だけでなく、会話を聞いていたソフィーさんのことも大いに笑わせた。渦中のアシハラは聞こえないふりをしながら、練り切りに合う無糖の抹茶ラテを人数分、静かに作っていた。真偽が気になった私は、真面目にアシハラに尋ねた。
「本当に、そんな大きいんですか?」
「やめてください、そんな目で見るのは」
はぐらかされ、真相は闇の中に葬られた。
「魔法で小さくするからぁ」
「それはもっと無理だな。アシハラには通じないもん。今のお前なんかの魔力では」
「じゃあ、ムガが自分でキンタマを小さくすれば、できるんじゃないか?」
「そういう……法の抜け穴みたいなものを、すぐに見つけるんじゃない。とにかくダメなもんはダメだ。セックスはもっと体が大人になってから」
「じゃあ、チューは?」
「そんなもん勝手にしろ。ただし、誰も見てない所でやれ」
「えぇ? それはムズいよぉ」
「何がムズいんだよ?」
「だって、あの姉ちゃんが」
「タルをいきなり『あの姉ちゃん』て呼ぶんじゃねぇよ。そんな呼び方してなかっただろ、お前。誰のことかと思った。あー、びっくりした」
「きっしっし」
親子の会話はいつもの無駄のない無駄なものへと変わっていった。良くも悪くもキラの魅力を引き出せるのは、やはり大賢者なのだなと思わずにはいられなかった。




