〔伍〕夏は適度な水分補給を。
黒光りするほど年季の入った縁側を進み、床の間へと通された。
障子戸は開いたままだが、暖かい陽射しのおかげで、とくに寒い
ということはない。むしろ、春を思わせるほどの暖かい陽気に身を
預け、手入れの行き届いた美しい庭を一望。和やかな気分である。
「どうぞ。少し熱いので、気をつけて」
美咲先生は床を背にして正座り、茶碗の乗った皿を、すっと畳の
上で滑らせた。どういうわけか、左手の手袋はそのままである。
「ありがとうございます。いただきます」
皿ごと手に取り、蓋を開けると、芳醇な茶の香りが鼻を突いた。
「立花君」
「はい」
「お話があります」
あ?
「あなたにとって、重要な」
何だ。いきなり。
「でも、聞くだけではいけませんよ。きちんと理解を伴わないと」
唐突に脈絡のないことを言われて僕は、少しの間、沈黙した。
「伴わなかったら?」
「とても困ります」
「誰が?」
「あなたが」
まったく意味が理解らない。
「何故?」
「それをこれから話すのです」
若くて美人で男子生徒の人気も高いが、どこか掴みどころの無い
女性であり、おまけにじつは、びっくりするほど雑である。
「理解をしたら困らない、…と?」
「少なくとも、対策は出来ます」
何の対策。
「…あの。言っておきますけど…」
ふと思い当たり、機先を制すつもりで言った。
「諦めましたよ? 進学なら」
「昔々、あるところに、お爺さんとお婆さんが暮らしていました。
お爺さんは山へ柴刈りに。お婆―――」
「ちょっ。ちょっ。ちょっと」
「何です?」
そりゃ、こっちの台詞でしょ。
「何です? 藪から棒に」
「これは当家に古くから語り継がれる伝説。まあ、昔話の類です」
「で?」
「どうせ暇でしょ。進学しないなら」
そりゃ、そうだがよ。
「重要な話では?」
「立花君。先生が望むのは、あなたが理解することです。最初から
難しい話をしたら、あなたは直ぐに飽きてしまうでしょ。それでは
理解どころではないし、それではとても困るのです」
「誰が?」
「あなたが」
「だから、どうして?」
「それを、これから話すのです」
堂々巡りか。
昔々、あるところに、お爺さんとお婆さんが暮らしていました。
お爺さんは山へ柴刈りに。お婆さんは裏手の川で洗濯を。
ところが洗濯をしていると、ぷかりぷかあり、川下から桃の実が
流れて来るではありませんか。
桃の実は手の平に収まり切らないほど大きく―――むぅ?
「何です。のっけから話の腰を折って」
「あ。すみません。だけど。あの。川下?」
「何か問題でも?」
「問題はないですけど」
「鮭だって川を登るでしょ」
どういう理屈だ。
「細かいですね。相変わらず。先生は、あなたのそういうところが
心配です。この先、社会に上手く適応できるか」
あなたが雑なだけですよ。
―――どんぶらこぉどんぶらこ。
桃の実は手の平に収まり切らないほどに大きく、しかも熟れ頃、
食べ頃です。
季節は暑い夏の盛り。お婆さんは、とても喉が渇いていました。
もう、熱中症ぎりぎりです。まあ、そうなる前に川の水を飲めと
言いたくもありますが、そこへ桃の実が流れて来たわけですから、
まさに天の助けです。それはそれは美味しそうに、お婆さんは桃の
実を夢中で頬張りました。
さて。お爺さんとお婆さん。二人の間に子供はいません。そんな
二人は何でも分け合って暮らしていました。
笑った数も同じなら、涙の数も同じです。二人は、それほど仲が
良かったのです。
なのに、お婆さんったら丸ごと一人で食べちゃった。
どうしよう、どうしましょう。こんなのお爺さんに知られたら、
きっと離縁されてしまう。困った困った。およよおよよ…。
お婆さんは、その場に伏して泣きました。
そこへ、お爺さん。たまたま早く戻ったのです。
婆さんや婆さんや。…はてな。何処におるのじゃ?
あらまあ大変。あのじじぃったら、こんなに早く。
お婆さんは桃の種を急いでその場に埋めました。
しかし結局お婆さんは、すべて打ち明けることになったのです。
その晩。竈で煮炊きしている途中、くべる薪がなくなりました。
お爺さんや。すみませんが、薪を足してくだされ。
お爺さんは裏手にある薪を取りに行き、そこで仰天することに。
何と、裏手の川岸に竹が一本。それはそれは天高く、空を突いて
いたのです。
またそれだけではありません。その竹の幹の腹が、金色に輝いて
いるではありませんか。
こりゃたまげた。一体どうしたことかいな。川岸に竹が。しかも
金色に光っとるぞい。
お婆さんは離縁覚悟で、正直に話しました。かくかくしかじか。
当然、お爺さんは大変な剣幕。鼻から火。耳から煙。
この女郎がっ! 舐めた真似さらしてくれたのぉうっ!
ですが、そのうち逆切れしたお婆さんに半殺しにされてしまい、
やがて二人は仲直り。相談した結果、ならば、切ってみようとなり
ました。
天高く伸びた竹。その光り輝くところを鉈ですぱっと一刀両断。
するとそこには、手の平に収まるほどの小さな赤子と、小豆大の
金粒が幾つも詰まっていました。
赤子はすくすくと育ち、三日三晩で八尺に。
二人は純金を抱いて生まれたその子を、金太郎と―――むぅ?
「あ。いや。いいです。金太郎で。何となく、予測はしていました
から」
「馬鹿にされている気がしますけど」
「気のせいです―――それよりも。あの。八尺?」
「何か問題でも?」
「軽く二メートル以上ですけど?」
「では、六尺くらいにしておきます」
それで良いのか。
四日目の朝。金太郎が熊を相手に相撲の稽古をしていると、村の
子供達に虐められている一匹の亀に遭遇しました。
金太郎は大変やさしい心の持ち主。むろん、亀を救いました。
かわいそうに。もう捕まるでないぞ。さあ、早くお帰り。
ところが亀は帰ろうとせず、お礼がしたいと言いだしたのです。
金太郎さん。どうぞ私と一緒に来てください。
亀には、金太郎の正体が判っていました。
数百年、あるいは数千年に一度、ただ一つだけ実を付ける宝樹。
その宝樹の実の種から生まれし者こそ、やがて世界の王となり、
また種族を統べる長。それこそが、この金太郎であると。
亀は失われた実を捜しに訪れた、異世界からの使者なのです。
故に、亀は金太郎を連れ帰るために―――むぅ?
「桃太郎、かぐや、一寸法師、金太郎、浦島。この流れからして、
次は鶴の恩返しってところですか?」
「馬鹿にしていますね。とても」
「あるいは、傘地蔵とか」
「否定は、なしですか…」
「せっかくの天気です。この見事な庭を案内してくださいよ」
「つまり、もう飽きてしまったのね?」
「そういうわけでは」
「…いいでしょう。では、ずばり言います。金太郎の正体、それは
妖鬼です」
「鬼?」
「妖しき鬼と書きます。早い話、金太郎は人間の姿をした鬼子」
「なるほど。それなら三日で六尺にも説得力が」
「少しは真面目に聞く気になりましたか?」
「そんな。真面目に拝聴しているじゃないですか」
「そう?」
「ま、何とも支離滅裂な展開が、紅頭の書く小説みたいで―――」
「失礼な。あんな真性電波と一緒にしないで。もし彼が死んでも、
先生、お葬儀には出ませんから」
おめいら、何があった…。