〔廿陸〕刹那とは、時間の最小単位を表す言葉。
以前、ふと気になって、【一瞬】を辞書で引いたことがある。
するとそこには、【瞬き一つする程度。極めて短い時間のこと】
と載っていた。
ならば、瞬き一つに満たない場合も、【一瞬】と表現しておけば
一応は片が付いてしまうわけで、日本語の複雑さや曖昧さを改めて
知ると同時に僕は、【刹那】という言葉が持つ意味と立ち位置を、
何となく不憫に思ったものである。
まあいい。それはともかくだ。謎の発光が周囲を白々と染めた、
その瞬きよりも短い刹那に、驚愕の異変は起きていた。
暗くて煙の有無は判らないが、何かを焦がしたような臭気の中、
妖鬼は蹲るように巨体を屈めて、床に片膝を突いている。
さて。謎の発光などと語った時点で、諸君は察したに違いない。
こいつ。瞬きもせず見ていたくせに、何も把握しとらんな…、と。
まったくそのとおりである。もう何が何やらさっぱりで、じつに
申し訳なく思う。
なれど、過去は過去に過ぎず。重要なのは、今であろう。
妖鬼の身に何が起きたかは知らないが、もしかしたら二秒後には
立ち上がっているかも知れない今、それを待ってやる義理はない。
また、そうした焦りがさせたのか、僕は自然と無意識のうちに、
例の懐中時計を手にしていた。
「よかろう。最早、止めはせぬ。小僧、お主の好きにいたせ」
おやまあ。てっきり、また制止されるとばかり思っていたので、
後押しされたのは意外である。
「じゃが、しかしよ。使うからには確実に。何があろうと、絶対に
仕留めねばならぬでの。逃せば、お主に二度目はない。その覚悟を
今一度、聢と心に刻み込め」
弱肉強食の自然界に於いて、人間とは、何たる弱い生き物か。
鋭い角も牙も爪もなく、捕食者から逃げる俊足もない。
それ故に、長きに亘って樹上の暮らしを強いられてきた弱者は、
地上に降りても生き残れるよう、唯一、他種族よりも長けた頭脳を
磨いた。
が、その磨いた頭脳で生み出した英知の結晶、武器が通用しない
なら、残るは、いかさまするしかあるまいよ。
さらに、それでも足りない相手なら、いよいよ使い時であろう。
そう。取って置きの切り札を。
「もちろん。元来、僕は臆病ですので。だからこそ、理解も覚悟も
した上です。今度の今度こそ確実に、今すぐ殺ってやり―――」
「あいや、待たれよっ！ しばらくしばらくっ！」
おめいは歌舞伎役者かよ。
「あの並々ならぬ身体能力。さらには、この尋常ならざる頑強さ。
丈夫にも程がござろう。彼奴め、ただの妖鬼ではござらんぞ」
じゃ、何だってんだ。
「ったく、たまげちまうね。ありゃ一体、どういった身体の作りを
してるんだい？」
「ホント、たまげちゃいますね。彼の逆鱗に触れたというのに…」
げきりん？
「妖鬼らには、現世や人間の常識なんて当てはまらないわ。案外、
身体の何処かにアース線でもあったりしてね」
あーす？
「発動時間は十倍速の十秒のみ。彼我の戦力差もさることながら、
彼奴は堅固に過ぎるでござる。百合寧殿ならまだしも、立花殿では
技量に乏しく、かなりの苦戦になるのは必至」
くそ。言ってくれやがる。
「ふむ。どうかの、小僧。好きにいたせとは申したが、力技だけで
押し切るには、ちいと相手が悪そうじゃぞ」
「なら、どうしろっちゅうんですかっ！」
「これ。わらわにキレてどうする。美咲らが本堂から退避するのを
待ち、先ずは青い手玉で様子を見る―――というのはどうかの」
「…なるほどね。結局、そうなるわけですか…」
蹲っている妖鬼の姿を尻目に、百合寧さん達は本堂最奥にある、
正面出入り口とは別の扉へ向かっている。
「ちなみに、あの扉の奥はどうなっているん―――ぐぅっ！」
「あら？ そんなこともピンと来ませんの？ 馬鹿だから？」
…くっ。日傘。おめい、いつの間に…。
「あなたが最初に開けようとした、妖鬼も人間も出入りの出来ない
開かずの扉。あそこへ繋がる袋小路への入り口でしてよ？」
あったな。そう言や、そんなのも。
「実際は迷路のように入り組んだ造りで、所々に強い結界も施して
ありますわよ？ つまりは、奥へと進めば進むほど、妖鬼は自ずと
体力を削がれることに―――と懇切丁寧、猿でも理解るように説明
して差し上げておきながら何ですけど、そうしたことが今回の妖鬼
にも通用するかは、微妙に疑念がありますわね？」
ああ、そうかよ。戻った途端、よく喋るな。
「小僧。先に申したはずだがの。あの娘のことは案ずるなと」
それだ。何より、それが理解らない。
「良いな。手玉の効果次第では、一気に仕掛ける場合もあるでの。
余計なことに囚われず、妖鬼の動きと、己の保身だけに集中せい」
やれやれ。真剣心底、今度こそはと腹を括っていたのに、思わぬ
横槍が入ったものだ。
だが、言っていることは正しいし、どれも僕を案じてだ。
それを無碍には出来ないし、無視して飛び出す度胸もない。
「…わかりました。そういうことなら従いますがね。どうせなら、
もうちょい情報をくださいよ。こうしている間に、ざっくりと…」
で。ざっくりなされた説明を、ざっくり僕なりにまとめた結果、
眼前で起きている事の次第は、これも美咲先生の隠し玉。いかさま
みたいなものだった。
