〔廿参〕おみくじの【待ち人来ず】って、すごく嫌。
「早くっ! 早く飛び乗れっ!」
それは返事か掛け声か、みけは蚊の鳴くような声と同時に小さな
爪で駆け登り、外套の襟首に付いている帽子の中へと飛び込んだ。
僕と外出するときは、そこが彼女の指定席。そこから僕の肩に手を
掛けて、背伸びで外の景色を見る。それがお気に入りなのである。
さて。突然の襲撃に面食らい―――ちゅうても、相変わらず表情
なんざ判りはしないが、妖鬼はその後も威嚇を続ける仔猫に対し、
僕ら人間からしてみたら、そりゃもう過剰なまでの警戒を見せた。
てことは、要するにだ。つまり、こういうことではなかろうか。
妖鬼にとって猫という存在は、未知なる世界の未知なる生き物。
見るのも初めてなら、その特性や性能も一切不明。危険の度合いが
判らずに、どうしたものかと躊躇した。しかも、未だ動揺と緊張が
解け切らず、ある意味、混乱状態と言っても良い。
むろん、あれだけの速度で移動したからには、それなりに体力も
落ちているだろう。しかしそれでも先ほどのように、回復を待って
いるわけではない。単に愕いて足を止めただけ。充分、動くだけの
余力は残している。そう。冷静を取り戻せば、いつまでも大人しく
様子見なんざしちゃいない―――とまあ、以上が僕なりの見解だ。
だとすれば最早、急いでいるとか時間がないとか、そんな程度の
話ではない。妖鬼が動いてからでは遅いのだ。この数秒。未だ混乱
しているであろう数秒のうちに、動く前に始末する。今ならそれが
可能だろうし、後手に回ったら手遅れだ。殺れるときに殺る。その
鉄則だけは、何があろうと変わらない。故に鉄則なのである。
「しっかり掴まれっ! 振り落とされるなよっ!」
背に向けて口早に言いながら僕は胸元に垂れ下がる細い鎖を引っ
掴み、化学への確認も了解も得ぬまま、懐中時計の上蓋を開いた。
尤も、この判断が正しいかどうか、それは僕にも判らない。
だとしてもだ。何も行動を起こさずに、事が起きてしまった後で
くよくよと、悔悟の言葉を吐くのは御免。今ここで動かなければ、
待つのは絶望に暮れる未来のみ。いや。そんな最悪の未来すらも、
この目で見ることはないかもな。
言わずもがな、みけに続いて三矢の登場を期待した。
けれど、それもすぐに諦めた。いるならとうに姿を見せている。
みけも単身で妖鬼に跳び掛かるような危険を冒しはしないだろう。
結局、皆が笑顔と五体満足で本堂を出るには、出し惜しみなんざ
してちゃいけない。そういうことだ。
「行くぞっ!」
僕は強い意志と不退転の覚悟を決め、自らの推論と決断に従い、
竜頭を摘まんでいるその指先にぐっと力を―――。
「阿呆っ!」
途端、意識の中に、忽ち幼女の怒号が轟く。
「馬鹿も大概にいたせっ!」
ぎりぎりもぎりぎり。寸でのところで止めた僕に、座敷わらしが
続けて罵る。
「利口でないとは思っておったが、ここまでとはの。たまげたぞ」
何とも酷い言われようである。
「まったく、困った小僧よの。安易にも程があるぞ。時間に制限の
ある最後の切り札。そいつを初手から使ってどうする。ん?」
と頭ごなしに言われた僕も即座に応酬。声を荒げて反論する。
「どうするもこうするも、んなもん決まっているでしょうがっ!」
こちとら命の瀬戸際だ。だからこそ冷静に、生き残るために判断
した。それを安易だ何だと否定され、黙ってなんざいられるか。
「切り札だからこそ初手から使い、妖鬼が動く前にぶち殺―――」
「たわけ。いい加減、その急っ勝ちを何とかせい。なら訊くがの。
時間内に仕留め切れるという根拠と保証がどこにある。ん?」
「…それは。その。まあ…」
「仕留め切れず、その後、お主の身体はどうなるかの。ん?」
「…それは。まあ。その…」
「そうした後先のことは、ちらとも頭を過ぎらんのか。ん?」
じつに悔しく腹立たしくも、正論なので仕方がない。
「ああ、もうっ。わかりましたっ。わかりましたよっ」
僕は渋々ながらも懐中時計を懐に戻し、是光左文字をしっかりと
両の手で握り直した。
「けど、もう一度あの瞬足を使われたら、とてもじゃないけど…」
まるで疾走する単車。その様を連想させるほどの速度である。
「無理だ。今度こそ本当に、妖鬼を足止める術がありませんよ」
僕は日傘の指示先導で安全な場所に―――ま、安全な場所なんざ
何処を探してもないけどな―――移動する百合寧さん達を、一瞬、
ちらりと横目で見た。
一時はどうなることかと思ったが、美咲先生、百合寧さんに手を
貸してもらいながら、何とか自力で歩けるほどに復調している。
そんな様子を目にしたことで、沸々、僕の怒りはさらに増した。
あんな苦しそうにしている美咲先生は、二度と一生見たくない。
二度と傷付けさせてなるものか。もちろん、みけや百合寧さんも。
「あったところで間に合うかどうか。なら、今すぐ使ったほうが」
「あれかの。お主の知能と記憶力は、三歩で忘れる鶏以下かの」
阿呆で馬鹿で急っ勝ちの次は鶏かい。僕も何かと忙しいな。
「最後の切り札と言うたじゃろ。その分、代償も安くはない」
そりゃ、そうだがよ。
「つまりは追い詰められた窮鼠が猫に噛み付くための奥の手じゃ」
んなこと言って、結局、ただ窮鼠が猫に噛まれて終わりってな、
寒い下げになりゃしないかね…。




