〔参〕異世界人も箱入り娘も同じ。僕とは違う種族。
三矢 才太。
ある晩、それは突然だった。突然、煙のように顕われた三矢は、
本来、この世には存在していなかった、正真正銘の異世界人。
可能な限り関わらないことが望ましく、けど、いなきゃいないで
困ったことになるかもしれんぞといった感じの、何とも微妙な重要
人物なのである。
およそ一年前の冬。この三矢才太の協力を得、さらには、少女の
ような仔猫、または、仔猫のような少女の尽力によって僕は、人類
どころか地球どころか、全宇宙なんてものを救ったらしい。
今となっては、それを本当に僕が? と疑わしく思うくらい現実
離れな夢物語ではあるが、時として現実というものは、小説よりも
奇なのである。
ま、べつに嫌な記憶ではない。だから、忘れたいとか、そういう
ことはないのだけれど、なるたけ思い出さないようにはしている。
現実とお伽噺。その境界が曖昧になるのは何かと困るし。
「ありがとうございます」
扉を開けて待つ三矢に申し訳なさそうな笑顔で礼を言い、少女は
白樺のような細足で上品優雅に、その後部席から降車した。
もうおわかりであろう。とある少女である。
天吹 風花。
同じく聖開学園に通う同級生で、大変お家柄よろしいお嬢様。
何とも節操のない表現ではあるが、刀なら、折紙付きの大業物。
犬なら血統証付き。競走馬なら、母胎にいる段階で既に億千単位の
買い手がついてしまっているような超良血といったところで、その
お嬢様っぷりも育ちの良さも、最極上級。言うなれば、筋金入りの
箱入り娘というやつだ。
清楚で可憐で、誰もが認める人格者。
成績だって、幾分、由良には及ばないものの―――あの糞野郎が
異常なだけだ―――学年二位は指定席。
なのに、それでいてじつに奥ゆかしく謙虚で思いやりがあって。
第一、とにかく美しい。
何せ、二次元の女の子に執心し、生身の女の子だって画面越しに
見ないと興味が持てないという真性の紅頭に『ひょっとして、この
惑星の男という男を一人残らず虜にしちゃうんじゃないのか? と
心配になってしまうほどの完成度』とまで言わしめた容姿は、わざ
わざ言葉にするだけ安くなろう。
「どうしました? 突然、こんなところまで」
「もう…。昨日、お約束したばかりですよ?」
「は?」
天吹さんの言う交わしたばかりの約束とは、今月二十四日の晩、
渋谷は初台で催される、何とか交響楽団の年末慈善大音楽祭。
彼女曰く、それを心から堪能するには、前もって演奏される曲を
嫌というほど聴き込み、風呂で身体を洗う時に自然と鼻歌を奏でて
しまうくらい馴染んでおく必要があるのだそうな。
して、手渡されたのは、ずしりと重たい紙袋。おそらく中身は、
CD? とやらなのだろうが、それは予想外の重さであった。
「あの。もしかして全部?」
「はい」
「…こ。これはこれは。その。結構な量で…」
くすと笑み、収録されている楽曲についてを語り始めた天吹さん
だったが、聞かされている僕は何が何やら。
「土木作業員?」
「ドヴォルザーク」
「ちっちゃい子好き?」
「チャイコフスキー」
もう眩しいほどの笑みである。
「会うのは久しぶりだと、父も母も楽しみにしています」
日本の経済界を牛耳っているだの陰で操っているだのと囁かれる
人物に、会うのが楽しみだと思われることは、きっと得なことなの
だろうが…。
「また当日、夕方の四時に参りますので」
と嬉しそうに言い、再び車中の人となった天吹さんに結局、僕は
最後の最後まで言わなかった。
言うわけにはいくまいよ。今さら。再生機器がないなんて。
「では、ごきげんよう」
やれやれ。父も母も楽しみに…、か。
てことは、その後で仲良く食事会となるわけだ。今年も。
「おや?」
後部席の扉を閉めると、早速、三矢が訊いてきた。声が届かない
のを良いことに、幾分からかうような感じで。
「そんなに不満かね? 姫様とのデートが」
まさか、と僕は素直に否定した。
「ただ何となく。その。あれから一年が経つのかと」
どうやら思いは同じらしい。三矢は茶化すことなく頷いた。
「そうだね。早いものだ。こうして目を瞑ると、つい昨日のことの
ように感じるよ」
はい…、と軽く頷き、話を合わせたが、僕にとってこの一年は、
とても長く感じられた。それほど、日々毎日が不安だったのだ。
第一そもそも、僕が全宇宙なんてものを救う羽目になったのは、
天吹さんが闇側に拐かされたことが発端である。
なので、こうして目の前にいる今だって、いつ何時どんなことが
起こるかと、それこそ心配の種は尽きない。
むろん、天吹さんの記憶は消されているし、こうして何事もなく
日々を過ごしてはいるが、依然として闇側の驚異がなくなったわけ
ではなく、故に三矢は、天吹さんを闇側から護るため、今も現世に
存在している。
「あ。そうだ。ところで彼女は?」
「ふむ。今夜は帰ると言っていたから、夕方には戻るだろうね」
ここで言う彼女とは、少女のような仔猫、または、仔猫のような
少女のことである。
一言では語れぬ、如何ともし難い複雑な事情により、彼女は我が
立花家の愛猫であると同時に、天吹家の愛猫でもあったりする。
そのため両家を行ったり来たりしなければならず、じつに複雑で
多忙な日々を送っているのだ、…といっても所詮は猫なので、殆ど
丸くなって寝ているだけだが。
「そうですか。昨日は帰って来なかったから。その。母が心配を」
「ほう。お母さんだけかね?」
無粋なことを訊くんじゃない。
「くっくっくっ。どうやら体調を崩したみたいでね。昨日から殆ど
丸くなって寝ているよ」
それじゃ普段と同じだろ。
「じつは、私が少し風邪気味でね。だから昨夜、卵酒というものを
作ってみたのさ。で、予防の意味で彼女にも飲ませたら、どうやら
煮切りが甘かったみたいで、くっくっくっ、もう笑っちゃうくらい
酔っ払っちゃって、くっくっくっくっ」
結局、おめいが原因か。
「まあ、とにかく。闇側のことは心配要らない。こうしている間も
我々がしっかりと目を光らせているからね。大丈夫」
二日酔いの猫が目を光らせているとは思わんが。
「じゃ、そろそろ行くよ。あまり姫様を待たせ…」
と途中で言葉を切った三矢は、ぱちぱちと目を瞬かせた。
「それはそうと、これから何処かへお出掛けかね?」