〔拾柒〕急な体調不良って、じつは悪霊が原因。
「せ…」
僕は、やけに堂々大きく感じる背中に向かい、やっとこさ、振り
絞るように、掠れた声で呼び掛けた。
「…先生。美咲先生…」
「むぅ…?」
立ち止まり、首だけ動かし横目で見る。髪に隠れて、表情までは
わからないけれど、笑顔でないことだけは間違いなかろう。
そんな美咲先生の右手には、物騒なことに僕の届けた、研がれた
ばかりの刀が握られ、それが尚さら、僕のことを慌てさせた。
「どうしました? そんなに息を荒くして」
確かに、心臓は早鐘のように鼓動を刻み、冷たい汗が背を伝う。
軽い眩暈と、おまけに酷く吐き気もしてきた。これほど最悪な気分
というのも、中々に久しぶりである。由良の実験。目覚めたら丸腰
丸裸で、鮫が泳ぐ水槽の水底に沈んでいたとき以来だろうか。
「むぅ…。何だか顔も良くないし。具合でも悪いのですか?」
顔色だろ。
「いや。その。お気になさらず…」
「そうですか」
と、あっさり一言。それ以上の言及はなく、こくりと小さく一つ
頷き、…で? と再び訊いてきた。とても面倒くさそうに。
当然である。美咲先生にしてみれば、今は僕なんかに構っている
場合ではないのだから。
しかし、その様子があまりにも他人事といったふうで、こちらと
しては、それが少々腹立たしい。人の気も知らずにと。
「…で? じゃないでしょう。…で? じゃ」
僕は、その腹立ちをぶつけるように、少し強い口調で不貞腐れた
感じに言いながら近寄り、刀を握る右手首、一つに束ねられた長い
黒髪と細首の隙間から覗く着衣の襟首を、むんずと背後から同時に
掴んだ。これなら腕を振り解かれても、容易に逃がすことはない。
「何をしているのです。立花君。離しなさい」
「常套句を言わせる気ですか?」
「常套句?」
「離せと言われて離すなら、最初から掴みはしませんよ」
「なるほど…。ならば、聞き分けなさい。…ね? いい子だから」
小学生か。
「嫌です。美咲先生こそ、僕の話を聞いたらどうです?」
「あのね。立花君。時間がないのです。時間が」
さすがにかちんと来たらしい。美咲先生、くいと顎を振り、眉を
吊り上げ僕を見る。背丈の違いで自然と上目遣いにはなるが、この
表情は本物だ。本気で頭に来ている表情である。
「余計なことに気を取られず、あなたは、皆から話を聞きなさい」
「余計なこと?」
気持ちは理解るし、その言い分も、じつに正しい。美咲先生には
美咲先生なりの正当な理由があって、そのとおりに行動している、
また、しようとしているだけなのだ。
が、それを止めようとする僕のほうにも、僕なりの正当な理由が
あるわけで、それを、おいそれと譲るわけにもいかんだろう。
「余計ですかね? 死に急ぐ人を止めることが」
やれ止めろの、やれ行かせるなのと声を嗄らした幼女だったが、
突然のことに動転、完全に萎縮している僕の様子に、これでは埒が
明かぬと思ったようだ。
ふと、わざとらしく咳払いをすると、次いで、おどろおどろしく
低い声音を繕いながら、とても怖いことを宣たまいなされた。
『…小僧。よく聞け。もし、このままあれを見殺してみよ。お主は
人殺しも同然じゃ』
はい?
『絶対に許さぬ。一族郎党、末代まで呪い祟ってくれようぞ…』
いやいやいや。言語明瞭、意味不明。言っていることは判るのだ
けれども、言わんとすることが理解らない。
おい。見殺すって何だ。見殺すって。人殺し? 呪い? 祟る?
どういうことだと憔悴している間も幼女は、様々な情報を思念に
乗せて送り込み、同時に様々なことを滔々と語り続けたのである。
なるほど。言われてみれば合点がいく。
やたら静かで、周囲に人の気配を感じない。それは、あまり感じ
ないでも、殆ど感じないでもない。一切、まったく感じないのだ。
だけどまさか、これほどの屋敷に独りきり、美咲先生の他にいる
のが、足のある幽霊もどきだけだなどと、どうして誰が思おうか。
由緒正しい旧家。伝説が云々。その名を砕隠寺。
《我、鬼を砕き討つ者なり》
ならば、そういう家系で、そういう一族。その手の荒事を生業と
する暗躍集団。その道に精通し、一騎当千の猛者を束ねる女首領。
と楽観的に安堵してしまった僕を、どうして誰が責められよう。
人知れず、美咲先生が独りで退治しているなんざ、どうして誰が
思おうか。
…まあいい。語れば語るだけ、思慮の浅さが露見する。言い訳は
これくらいにするとして、とにかくだ。そんなこんなで、おかっぱ
幼女は、美咲先生の行動の意味と、この先に待つ未来予見までをも
語り聞かせ、しかし充分に、それは僕を得心させた。
お主の抱く半信半疑も、憑かれて少しは晴れたろう。
お主の見ている存在は、わらわ達の魂そのもの。
わらわ達は器を持たぬ。形を持たぬ。故に、人でも物でも憑ける
での。まあ、条件付ではあるのだが…。
先の言葉を用いるならば、お主は甲よ。因って、条件は満たして
おる。むろん、あれも例外ではない。
ただし、それは左腕を失うまでの、…いや。正しくは、あの様な
姿に変わり果てるまでは…、かの。
それからというもの、どういうわけか、何をしても憑けぬように
なってしもうた。
それこそ、幾度となく試してはみたが、何れも結果は同じでの。
この先、あれに憑くことは、もう二度と叶わぬやも知れぬ…。
わらわ達が憑くことで、その身に、わらわ達を宿すことで、その
者は人ならざる能力を得る。
どうじゃ。お主とて、ここまで申せば察しも付こうが。
あれは死ぬる覚悟じゃて。妖鬼を足止め、幾許かの時を得るため
にの。
それもすべては、お主を守りたいという、並々ならぬ強い思いが
あればこそ。
まったく。人が好いのか、融通が利かぬのか。困ったものよ。
そうは申せど、妖鬼を相手に小娘が、刀一口で何が出来よう。
やれやれ。わらわ達とて、こうした事態を、丸きり危惧せなんだ
わけではない。もし万一にはと、その覚悟までもしておった。
が、これほどに早く顕わるるとは、正直、言葉が見つからぬ。
小僧。申しておくがの。履き違いはしてくれるなよ。これを偶然
などと、努々、浅き思い違いはするでない。
良いな。お主がここを訪れたのは、互いの縁。運命よ。
もう神無月も過ぎたでな。神無月には、八百万の神々が出雲へと
出向き、人と人、男女の縁を結ぶと申すが、あるいは、その御導き
やも知れぬ。
小僧よ。頼む。あれにとっては、お主だけが唯一の救いじゃ。
然りとてしかし、無茶な頼みとは思うておらぬぞ。あれを救うと
いうことは、お主が、お主自身を救うと同義。
仮によ。もし、このままあれを行かせたとして、その先、お主は
どうなると思う。
知れたことよ。遅かれ早かれ、妖鬼はお主の前にも姿を顕わし、
何事かも理解らぬうちに、あれと同じ末路を辿るじゃろうて。
ま、それでも良ければ構わぬがの。嫌なら黙して協力せい。
なあに。お主には、わらわ達が付いておる―――いやさ、憑いて
やるでの。臆せずに、慌てず言われたとおりに行動すれば、然程の
労なく倒せるはず。そう案ずることはない。
さあ、あれを止めよ。ここから出してはならぬぞ。早ようせい。
「美咲先生。とにかく一度、座りましょう」
「立花君。先生、同じことを何度も言うのは嫌いです。聞き分けの
ないことを言って、先生を困らせるものではありませんよ?」
「聞き分けがないのは、どっちですか」
僕は、掴んでいる手に一層強く力を込めた。行かせるものかと。
「策があります。だから、言うとおりにしてください」
美咲先生、訝しげな目で僕を見上げて、ものすごく胡散臭そうな
表情をした。
「策?」
「はい。細かい説明は追々しますが、今は天吹さんに連絡を取って
ください。何もかも、まずはそれから」
「理解りませんね。あなたが何を言っているのか、さっぱりです。
彼女に連絡を取って、一体、何がどうなるというのです」
「だから、追々説明すると言っているでしょうが」
「ならば、手を離しなさい。これでは何も出来ないでしょう」
「駄目です。きちんと約束してくれるまでは、絶対に離しません」
と揉めている最中も、美咲先生は腕を振り解こうとしていたが、
力で僕に敵うはずもなく、やがて、その抵抗は空しく終わった。
すると呆れたように短く息を吐き、仕方ないと諦めたのか、少し
俯きながら肩を落とした。
「馬鹿な真似は止しにして、今すぐ連絡を取ってください。さあ」
「…まったく。あなたに色々と吹き込んだのは誰です?」
美咲先生は、半身を捩るように部屋の中を振り向いた。
直後である。
「きゃぁっ!」
美咲先生の甲高くも短い悲鳴を聞きながら、僕は畳上に頽れた。
大口を開け、呻くどころか呼吸も出来ずに。
ごすっ…
朦朧とする意識の中で、辺りに鈍い音が響いた。