〔拾陸〕餅は餅屋。山の事は樵に聞け。
美咲先生の様子から、それは容易に察しがついた。
どれだけ気丈に振舞おうとも、どこか焦燥の色が浮いている。
凛と毅然な表情の陰に、やはり、薄っすら暗い翳がある。
また、それは美咲先生に限ったことではない。
皆々一同、事態を重く見ているようで、ぴりぴりとした緊張感が
床の間一杯に充ちている。
子供らしからぬ存在感を漂わせ、何やら思案に耽る座敷わらし。
神妙な面持ちで腕組み、じっと目を伏せたままの姐御と女子。
苦虫でも噛んだように、眉間に皺を刻んだ化学。
何処を見るともなく不快を露わに、日傘を回す毒舌令嬢。
三つ編みに至っては、あたふた浮き足立った様子で、今にも泣き
出しそうではないか。
ぎっぎっぎぎっぎょりっぎょりっぎぎぎぎぃっ
僕の聞いた限りでは、少なくとも金属的、即ち、機械的な印象は
受けず、かといって、これと言うことも出来ないけれど、あらゆる
角度から好意的に解釈しても、これをまさか、幸福の訪いを告げる
小鳥の囀りと聞き間違うほど、まだまだ腐った耳はしていない。
ちなみに、この奇怪な音が妖鬼の歯軋りだと僕が知るのは、もう
少し後になってから。ほぼ瀕死状態も、驚異的速度で回復を遂げた
後に、目覚めた闇の中で聞かされるのだが。
「美咲先生」
これだけ由々しき事態にあって、黙っていられるはずがない。
僕は半端に浮かせた中腰から、勢いを付けて堂々と立った。
「立花君。座りなさい」
「いいや。座りません。それよりも、至急連絡を取ってください」
その名を聞き、ぽかんと口を開ける美咲先生。
「あまき、…さん?」
無理もない。この状況下では、何ら脈絡もないのだから。
が、僕にとっては、じつに大きな意味がある。
そう。天吹さんに連絡がつけば、四六時中、常に行動を共にして
いる三矢を呼べる。三矢なら、それが妖鬼だろうと恐竜だろうと、
きっと何とかしてくれる。多分。
しかし今は、それを説明している場合ではない。僕は、なるたけ
切羽詰った感じに、焦りを剥き出しにして言った。
「はい。すぐに。今すぐ急々に」
「それは、女子組の天吹風花さんのことを言っているのですか?」
「そうですそうです。それで、携帯電話の番号をご存知―――」
「知りません。ご存知のわけがないでしょう。担任でもないのに」
「なら、電話を貸していただ―――」
「ありません」
嘘をつくな。嘘を。
「立花君。とにかく、座りなさい」
「いや。聞いてください。きっと、奴なら―――」
「座りなさい」
「だけど、この手のことに長けている者が友人に―――」
「立花君っ!」
不覚である。迫力の一喝に、つい、たじろいでしまった。
「あのね。立花君…」
「…はい」
「あまり、駄々を捏ねてはいけませんよ?」
やめてください。それ。子供を見るような目をして言うの。
「すみません…」
駄目だな。こりゃ。もう何を言っても聞く耳は持たんか。
「よろしい。では、座りなさい。さあ」
…けどまあ。うん。そうだな…。
いいだろう。それならそれで。蜂の巣だって駆除は業者に任せる
ものだし、妖鬼退治の家系だか生業だか知らんが、蛇の道は蛇だ。
部外者が下手に出しゃばる幕ではない。
また、言い訳をするつもりはないが、しかし、その道に精通する
専門家が言うのだ。動くなと。じっとしていろと。
ならば、黙って従うべきであろう。登山だって何だって、忠告や
言いつけを守らなかったり、浅はかに身勝手な行動を取れば、自分
だけでなく、他人の足までも引っ張ることになるのだから。
そもそも元より、僕は余計なことに首を突っ込むほど、物数奇な
人間ではない。
何せ、もう二度と面倒事も厄介事も、ましてや、これで死ぬかも
なんて思いは二度と、二度と二度と御免なのだ。
ぎぎっぎょりっぎぃっ………
はて。どういうわけか、件の音が、ぴたりと止んだ。
それが吉か凶なのか、僕は固唾を飲み込んだ。
「大丈夫ですよね? ここにいれば、大丈夫なんですよね?」
後から聞いたら、きっと、自分でも笑うだろう。
それくらい、それは妙に上擦る、素っ頓狂な声だった。
「立花君。つまり、もう気づいているのですね?」
「は?」
「音の正体に」
「…ああ。そういうことですか。まあ…」
どうやら、吉。まだ問答していられるだけの余裕はあるらしい。
美咲先生の落ち着いた口調を聞いて少し安堵した僕は、隠すこと
なく正直なところを言った。それも、ちょっぴり不貞腐れ気味に。
「そりゃ、誰だって気づきますでしょうよ。日頃、耳にするような
音ではないし。それに、皆さんの様子を見れば」
「結構」
美咲先生は意外にも、じつに優しく笑んで言う。
「ごめんなさい。待たせてしまって」
「いや。べつに…」
そんなことより、その笑みが意味するところは何です?
美咲先生は元いた場所へ正座り直すと、薄桜色の袱紗が掛かった
漆塗りの盆を、その膝元へ静かに置いた。
「立花君。これを、あなたに託します」
一体どういうことか。唐突な申し出に僕は、肩を竦める素振りを
見せた。
だって、そうだろ。託すのは勝手だが、そういうことは、せめて
袱紗を捲って言うものだ。
「これとは、何です?」
しかし美咲先生は、ゆるりと首を横に振る。
「悠長に説明していられるほど、時間に余裕はありません」
「余裕がない?」
てことは、すぐそこにまで迫っているとか?
おい。本当に大丈夫なのか、ここにいて…。
「でも、問題ありません。詳細は、ここにいる者がしてくれます。
先生は、しばらく席を外しますので、その間、あなたは説明を受け
なさい。いいですね?」
と自分の言いたいことだけを言い、そそくさと立ち上がった美咲
先生に僕は、はあ…、と気の抜けた生返事をし、相変わらず深刻な
面持ちで居並ぶ五人を見ながら、どうしたものかと頭を掻いた。
…って、あれ? 五人?
ほんの数秒前まで、左翼で難しい表情をしていた座敷わらしが、
その姿を消していた。
して、何処へ行ったのかと、その姿を探そうとした矢先である。
ぞぞっ、と背筋に凍るような寒気が走り、次いで、得も言われぬ
不気味な悪寒が、全身を余すことなく駆け巡った。
「小僧。何も言うでない。そのまま、黙したままで聞け。良いな」
そりゃもう、愕いたのなんの。黙るも何も、声なんざ出るか。
諸君。おそらく知らない者も多いだろうから言わせてもらうが、
人間、心の底から愕いたり、真に恐怖を感じたときは、それこそ、
ただただ息を飲むばかり。全身の毛穴という毛穴が痛いほどに引き
締まり、声なんざ、蚊の鳴くほども出やしない。
悲鳴だの叫び声だの、そういうのは、その身に起きていることを
脳味噌が理解した後の話で、本当に肝が潰れるほど愕いたときは、
それが大の男であろうと、そうそう声は出ないものである。
僕を取り巻く連中が連中だけに、この一年程は何かと愕かされる
ことも多かったけれど、これほどまでに愕いたのは、飼いはじめた
仔猫が少女になったとき以来だろうか。
「あれを止めよ。行かせてはならぬ」
大きく明瞭な幼女の声は、ところが、僕の耳に向かい発せられて
いるわけではない。
どういうことか知る由もなく、また説明も難しいが、僕の思った
ままに言わせてもらうと、それを声とするのは誤りだろう。
幼女の気持ち。幼女の意識。幼女の思考。
そういうものが音声となり、僕の脳に働き掛けている。そういう
ものが声音となり、僕の意識に流れ込んでいる。
…と、そんな気がする。何となくだが…。
「今すぐ止めよ。何としても止めるのじゃ」
美咲先生は言った。
悪いことほど、不思議と重なるものなのだと。
たしかに、まったくそのとおりだし、じつに言い得て妙である。
いっそのこと、こんな掛け軸はやめて、それを座右の銘にしたら
いい。
で、どうせなら、そこへ一筆、付け足すことを薦めたい。
悪い予感ほど、不思議と当たるものなのだと。
「おいっ! 小僧っ! これっ!」
荒ぶる声が脳幹を揺らし、手も足も、指先までも痺れそうだが、
おかげで予感は確信となった。
「何をしとるっ! 早よう止めいっ!」
何てこった。もう滅茶苦茶である。
「小僧っ! 小僧っ! 聞いておるのかっ! おいっ! 小僧っ!」
そんなことが果たして可能かどうかはさておき、おそらく幼女は
僕の身体だ…。