〔拾肆〕神様は人見知り。
素通りという言葉を聞いて、先ほどのことが頭を過ぎった。
言うまでもなかろう。小鳥が三つ編みを突き抜けた、あの一瞬の
出来事だ。
小鳥は三つ編みの胸に突き刺さるような形で姿を消し、その直後
には背後から、そのまま上空へと飛び去った。
それはほんの一瞬のこと。まさに書いて字の如く、瞬き一つして
いたら、それこそ見逃していたかもしれない。
「立花君? 小鳥のことを思い出しているのでしょう?」
その問いに少し気まずいものを感じた僕は、ちらりと横目で三つ
編みを見た。
すると、どうやらもう気にしていない様子で微笑むものだから、
尚さら健気というか痛ましいというか。
僕は視線を美咲先生に戻し、やや遠慮がちに肯定した。
「…まあ。はい。あんな感じかなと…」
「ただし、先に言っておきますが、これから必ず矛盾します」
「矛盾?」
「必ず」
と胸を張られても。
「でも、仕方ないのです。正直、判らないことばかりで。手持ちの
情報から一応の仮説は立てていますけど、それも、どこまで合って
いるのやら…」
の割には、自信たっぷりに話してますよね。
「ですから、矛盾は矛盾のままで聞いてください」
「はあ…」
ま、それならそれで良いと思う。伝説だの昔話だの、そんな曖昧
不透明なものに、整合性を求めるほうが間違っているのだ。
第一、美咲先生は言っていた。妖鬼の目的は、人間の器だと。
ここにいる六人は、だから、身体を奪われたのだと。
ならば、妖鬼に襲われたという村人達も、乾涸びたり、その躯が
塵のように霧散するのは、それこそ矛盾。話は既に破綻している。
「立花君。それと、もう一つ」
何だ。
「何故いつまでも、そんなに表情を強張らせているのです?」
あなたがさせているのです。
「らしくもなく、真面目くさった表情をして。先生、笑ってしまう
でしょ。いつものようになさい。いつものように」
いつもって、どんなだ。
「あの―――」
「だらしなく」
「…………。」
「とにかく、普通でいいのです。普段どおりの表情になさい」
犇く群衆よりも頭二つ分ほど突き出た二体の妖鬼は、眼下で蠢く
人頭には一瞥もくれることなく歩みを進め、がらりと空いた拝殿の
前に立ちました。
妖鬼が同時に三体。
そこで、少女は戦慄します。
一体は自分を見、もう一体は的屋の男を見、残る一体が、自分も
的屋の男も無視して、拝殿の脇、さらに奥を見ていることに。
立花君。先ほど話した、甲と乙を思い出してください。
妖鬼にとって、乙は存在しないのです。
それまでに得ている情報と、自分の目で見た現実が、そのことを
少女に確信させました。
と同時に、直感します。
妖鬼にとって、乙は存在しない。なら、逆も然り。乙にとって、
妖鬼は存在しないのです。
実際、誰もが恐怖に青ざめてはいても、妖鬼そのものを見て恐怖
しているわけではなく、それは群集の様子からも見て取れました。
新たな妖鬼が二体も出現したというのに、群集は皆、依然として、
賽銭箱の下に逃げ込もうとしている的屋の男を、哀れむような目で
凝視しているだけなのですから。
ならば、妖鬼が見ているその先には、そこには必ず甲がいる。
そう。少女は気づいたのです。それが、愛する自分の娘だと…。
その事実に気づいた少女は―――むぅ?
「何です?」
「あ。すみません。あの。拝殿と本殿って、何か違うんですか?」
「あのね。立花君…」
そんなつまらない質問のために話の腰を折ったの? と喉元まで
出ている表情だ。
「神社へ御参りしたことくらいあるでしょう? 幾ら、変わり者で
偏屈な無神論者のあなたでも、縁起担ぎの一度や二度は」
この人は、僕を何だと思っているのかな。
「ここ数年、ご無沙汰ですけどね。近所の吉原神社か鷲。初詣に、
下谷神社まで足を伸ばしたことも」
「それなら話が早いです。拝殿は御参りの際、皆が拝み祈る場所。
あなたも御賽銭を入れたでしょ?」
「手持ちの小銭だけですが」
「結構。その賽銭箱奥の社殿が拝殿。本殿は御神体―――つまり、
神様がおわす社殿で、大抵は拝殿の奥に位置し、それら社殿を繋ぐ
のが幣殿、もしくは中殿とも呼ばれます」
「なぬ? そんな奥にいるんですか」
「あのね。立花君。神秘的という言葉があるでしょう。重要なのは
信じる心であって、物事には【見せず・見ずに】したほうが、良い
場合もあるのです」
にしたって、出し惜しみが過ぎるだろ。
「案外、人見知りなんですね。神様ってやつは」
「そうですね。たしかに、そういう点では閉鎖的かもしれません。
余程のことがない限り、本殿の御扉が開くことは皆無―――とまで
言ったら大袈裟ですけど、それくらい、まず、ありませんから」
なるほど。そりゃ、逃げ出すわ。足が付いてる生き神様なら。
「じゃあ、ついでと言ったら何ですが。あの。どうにも妖鬼が…」
美咲先生、小首を傾げる。妖鬼が何です?
「その。全然、浮かばないんですよ。妖鬼ってやつの容姿が」
伝説とまで言うのだ。その真偽の程は別として、相当、古い話に
違いない。
とすれば、群衆より頭二つ分ほど突き出た妖鬼というのも、そこ
まで驚愕するほどには、大きくなかったのではなかろうか。
何せ、元々が農耕民族。江戸時代あたりでは、男子の平均身長も
五尺二寸、百五十五センチ程度だったと聞くし、それだって、そこ
そこ食うことの出来た、武家人が主な対象らしいし。
つまり、社に逃げ込んだ群集の、その食生活までは知らないが、
おそらくは、ものすごく小柄だったに違いない。
で、そこから頭二つ分と言われたところで、現代に生きる僕から
してみりゃ、失禁だの肝が縮こまるほどでもないわけで、でかいの
何のと煽られてみても、やはり、ぴんと来ないのだ。
「なるほど…。言われてみれば、そのとおり。先生としたことが、
ついつい、自分勝手に話を進めていましたね。ごめんなさい」
「いや。こちらこそ、すみません。想像力が足りなくて」
「まったくです」
否定しなさい。
「で? どれくらいなんです?」
「まあ、大雑把にですが、その鴨居を少し超す程度でしょうか」
僕は胡坐を構いたまま、ぐいと首だけで鴨居を見上げた。
相当に古い屋敷ではあるが、造りは、現代と大きく違わない。
鴨居まで、およそ一間。つまり、六尺。それを少し超す…、か。
「ですので、先ほど指摘があったように、あなたの背丈なら、それ
ほど大きく感じることもないでしょう」
「いやいや。充分、大きいです」
ちなみに、僕が寸や尺で目測するのは、父や祖父の影響が強く、
家業が家業だけに、刃渡りを読むのも、寸と尺を使っている。そう
して日常的に馴染みが深く、寸尺のほうが、しっくりくるのだ。
また、せっかくなのでついでに言うが、今日、僕が届けた刀は、
刃渡り二尺一寸五分。およそ六十五センチで、室町から江戸初期に
かけての刀身は主に、二尺四寸、乃至、二尺六寸程度であるから、
幾分、短い部類に入る。そのことからも元の持ち主は、背丈の低い
小柄な人物だったと予測がつく。
尚、戦術的に騎兵を多用していたとされる鎌倉時代あたりだと、
その分、細く長く、反りが強くなるのは言うまでもあるまい。
「そうですか。大きさは納得です。なら…」
と僕は、妖鬼が上手く想像できない、最大の理由に言及した。
「金太郎のときに言ってましたね。亀の甲羅のように強靭な皮膚が
云々。それって何です? ま、皮膚ってことは、それなりに弾力も
あるのだろうし、また体毛とか、そういうのはないと思いますが」
しかし、どんな皮膚の色なのか。
今のところ、僕としては亀のような深緑だと勝手に思っているの
だが、違けりゃ随分、その想像も変わるだろう。
目は。鼻は。口は。牙は。角は。角はどうだ。一角か、それとも
二角か。まさか三角ということはあるまい。
等々、色々と訊くつもりでいた。
「どうなんです?」
ところがしかし、予想外というか非常識というか、そんな一言に
よって、何もかもが吹き飛んだ。
「きょ…?」
「恐竜です。恐竜」
そんな馬鹿な。