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麗香の証言通り、ダンスホールの一階奥にある備品倉庫にやってくると、あやめはドアを叩いた。
「暁! そこにいるの?」
少しして、ドアを挟んだあやめのすぐ正面から返事があった。
「あやめ」
「暁……! 良かった、待ってね」
備品倉庫の鍵はドアノブの鍵穴に直接差し込むタイプのもの。受け取った鍵を差し込むと、ガチャンと音がして鍵が開いた。あやめがドアを開けると、タキシード姿の暁がそこに佇んでいる。
「よ、良かったぁ。けがはない? 何か変なもの飲まされたとか、体調は?」
あやめが手を伸ばして暁の腕に触れる。ネクタイを解いてボタンをいくつか開けていることを除けば、暁は普段と変わらぬ隙のない出立ちだった。
「大丈夫だ、問題ない。なぜここがわかった?」
「麗香ちゃんに聞いた」
ちょっと無理やり。とは言わずに銀色の鍵を暁に見せる。
「他の生徒が来たら面倒だから、ちょっと隠れよう」
あやめはそう言って、暁の手を引いて二階に上った。複数ある控室のうちのひとつに入って内側から鍵をかける。
そういえば、はじめて出会った日も、こうしてこっそり二人で控室に逃げ込んだっけ。あの日と同じように、あやめはドア正面の腰窓の下に座った。ドレスのスカートが広がるのを手で押さえて、暁にも隣を勧める。暁が隣に座った。
「どうして大人しく閉じ込められたりしたの? 麗香ちゃん一人なら、そんなに簡単にやられたりしないでしょ?」
「いや……彼女の方が一枚上手だった。それに、捨て身だったから、こちらも強くは出られなかった。おそらく静夜に干渉されていた」
「……だから、静夜くんは麗香ちゃんの仕業だって知ってたのね」
「鴉森が言ったのか?」
「うん。暁の居場所は、麗香ちゃんに聞いてみてって」
暁は深くため息をついて天を仰いだ。外から差し込む薄明かりに暁の横顔が浮かぶ。
「油断していた。まさかこんなふうに俺に仕掛けてくるとは、考えていなかった」
暁が立てた膝の上で拳を握るのを見ながら、あやめは麗香に手を挙げたことをほんの少し後悔していた。裏があったか。思い至らなかった。拳は静夜にお見舞いすべきだった。
「これは、敵対ととるべきなの? 鷹と、鴉の」
「……」
暁は首を振った。静夜の真意はまだわからないということか。
「後夜祭の進行は問題なかったのか? すまない、いられなくて」
「ううん、大丈夫。進行内容自体は暁がいなくてもなんとかなったから」
それはもちろん、暁が完璧に整えてくれていたからだ。後夜祭実行委員のみんなもそれぞれがなすべきことを理解していた。
「そうか……ファーストダンスは、静夜と踊ったのか?」
「え? ああ、うん。私が踊らないと始まらないからね」
ファーストダンス。静夜の手を取って踊っていたあのときは、偽りなく楽しかった。暁のソツのないリードとは違い、辿々しいステップと浅い軽口。気に掛かることはあっても、あの一瞬は彼の気遣いの中で息継ぎが楽になった。彼のことを、人として好ましいと思う。
彼のあやめを好きだという気持ちと、暁を陥れようとする動機はたしかに両立する。でも……あやめの大事なひとを、傷付けるのは受け入れられない。
考え込むあやめを暁が見下ろしている。視線を感じて、あやめも暁を見上げた。この暗がりで、あやめはぼんやりとしか暁の顔を見ることはできないが、きっと暁にはあやめの顔がはっきりと見えているのだ。そう考えると、気恥ずかしい。今日はいつもよりしっかりメイクをしているから。変じゃないだろうか。
思わず顔を下げて、暁の胸元に視線を移す。白いシャツの胸元をなんとなく見ていると、薄闇の中で紅い染みが浮かび上がった。
「……リップ」
「え?」
「シャツにリップの汚れがついてる」
口に出すと、あやめの体温が急に上がる。怒りか、悲しみかわからないけれど、不快であることは間違いなかった。暁が確かめるように胸元を引っ張る。
「あ……これは」
「大丈夫。わかってるから、暁のせいじゃないって」
暁が何かしたわけじゃないのは、わかっている。でも、ここに染みがつく理由を考えれば、自分のものが無遠慮に汚されたような気持ちが胸の中に淀む。嫉妬だ。暁は私のもの。誰かに取られるかもなんて、思ってもみなかった。だってずっと、暁はあやめしか見ていなかった。
ずっと、あやめにだけ優しかった。
「……あやめ」
顎先に、暁の指が触れた。
「唇、噛んでる」
無意識に噛み締めていた。暁が親指であやめの唇に触れた。その瞬間、ぴくりとあやめの肩が反応してしまった。暁の指は、そのまま唇をなぞって慰める。暁の指にほんのり移ったあやめのリップを、暁は自身の唇に触れさせた。
暁の唇に、そのリップの色が移ったかは、暗くてわからない。その、意識的なのか無意識なのかわからない官能的な仕草に、あやめは吸い寄せられたように見入って――目を逸らした。
「……暁」
「ん」
「……ごめん、わかってる。もういいから」
溶けそうに恥ずかしさがこみあげて、あやめは暁の肩に額を擦り付けた。胸がズキズキする。ときめきで。ああ、馬鹿馬鹿。わかってる。
あやめはそのまま、暁の肩に頭を乗せた。暁もあやめの頭に、軽く側頭部を当てた。
「……後夜祭は、正直どうでもよかったが。ダンスだけが心残りだな」
「私と踊りたかった?」
「うん」
間髪入れない肯定にあやめの胸がまた跳ねる。
「あやめのドレス姿も、俺が最初に見たかった」
「今日は素直だね」
揶揄うように言うと、暁は黙り込んだ。やっぱり心細かったのかな、とあやめは思う。
ゆっくり深呼吸をして、そして引っ掛かっていたことを訊ねた。
「ね、聞いてもいい?」
「ん?」
「……暁のお父さんが失ったものって、なに?」
――沈黙。暁が固まったように動かなくて、あやめは頭を起こした。
「ごめん。言いたくないのはわかってる。でも、もうそうもいかなくなってきちゃった」
暁も体を起こして、あやめを見た。いつも頑なで、どんな時にもまっすぐ見つめてくる暁の瞳が、珍しく、揺れているように感じた。
「……それは」
暁が視線を逸らした。本当はあやめだって、聞かなくてもいいなら聞きたくない。暁が隠すということは、きっとあやめにとってよくないことだ。
だからあやめのために、暁は一人で背負おうとしている。一人で犠牲になろうとしている。暁が差し出さなければならないものは、あやめに関するもの。――どういうこと?あやめの代わりに、暁が何を差し出せるというのだろうか。
「それが……暁の秘密なの?」




