テイクワン
廃病院の廊下には、照明の熱気がこもっていた。
古いタイルの床にケーブルが何本も這い、壁際には機材ケースが並んでいる。スタッフ達の足音と無線の声が、静かな建物の中に反響していた。
西条凛は、壁にもたれたままスマートフォンを見ていた。
『西条凛、新作映画で初の監察医役』
『西条凛、監察医役への意気込みを語る』
記事を流し見しながら、小さく息を吐く。
「また見てる」
専属ヘアメイクの今井彩が、呆れたように言った。
凛は画面を閉じる。
「確認してただけ」
「それをエゴサって言うんだよ」
彩は凛の前髪を整えながら、顔を覗き込む。
「顔色悪い。ちゃんと寝てる?」
「寝てる」
「嘘。クマひどい」
凛は曖昧に笑って誤魔化した。
その時、若い女性スタッフが小走りで近づいてくる。
「西条さん、スタンバイお願いします」
「はい」
スマホをポケットへしまい、白衣の袖を整えた。
撮影部屋へ入る。
元は診察室だったらしい部屋には、大型ライトが並び、中央のベッドには白いシーツをかけられた男が横たわっていた。
今回は、監察医が遺体を確認するシーンだった。
スタッフ達が慌ただしく動き回る。
「カメラ確認お願いします」
「照明オーケーです」
「音、いきます」
ベッドの前へ立った。
少し深呼吸する。
静まり返った部屋で、監督の声が響いた。
「――本番!」
カメラが回り始める。
凛はゆっくりベッドへ近づいた。
「死後推定時刻は昨夜十時から十二時頃。外傷は確認できません」
役のセリフを口にしながら、男の腕へ触れる。
その瞬間。
指先が止まった。
冷たい。
ライトの熱気とは違う、生っぽい冷たさだった。
一瞬、思考が止まる。
さらに、鼻をかすめる臭い。
薬品とも違う。
湿ったような、嫌な臭い。
視線を落とした。
男の耳元。
小さなハエが止まっていた。
呼吸が浅くなる。
おかしい。
死体はダミーのはずだった。
めくってはいけない気がした。
それでも手が動いた。
震える手で、シーツをめくる。
そこで息が止まった。
――本物の死体。
静まり返った撮影部屋で、カメラの駆動音だけが響いている。
「……西条さん?」
助監督が怪訝そうに声をかける。
凛は答えなかった。
目の前の死体を見つめたまま、掠れた声で呟く。
「……これ、本物」
一瞬、空気が止まる。
「え?」
凛の唇が、ゆっくり動いた。
「……警察、呼んで」
近くにいたスタッフがベッドを覗き込み、短い悲鳴を上げた。
「うわっ……!」
男は後ずさった拍子に機材へぶつかり、そのまま尻もちをつく。
「な、何これ……!」
別のスタッフも顔を覗き込み、息を呑んだ。
一瞬、全員が固まった。
――それから現場が崩壊した。
「警察! 早く!」
「触るな!」
「誰か外行って!」
怒号が飛び交う。
誰かが泣き出し、誰かが部屋を飛び出していく。
スタッフ達が混乱する中、凛だけはベッドの前から動けなかった。
目の前の死体を見つめたまま、指先だけが小さく震えていた。




