一話『出会い』 3.怪異の末端
「まったく、傭兵とか言って、女じゃねえか。傭兵ギルドはこの村を救ってくれる気があんのかよ」
「テオ、聞こえるぞ」
「いんだよ。聞こえたって」
よくねえよ。
よっぽどそう言ってやろうと思ったが、大人気ないので止めておいた。
しかし、たとえ妖魔に襲われても、この男だけは助けまい。むしろ彼が首尾よく妖魔の腹に収まるまで、どこかに隠れていよう。そうしよう。
「今夜は暖かいね」
ジルの言う通り、昨夜とはうってかわって、今夜は妙に暖かかったし、この時期には珍しく、空気が湿っぽかった。それにも拘らず、夜空は澄んでいて、月が冴え冴えと輝いているのが、また不思議だ。
先頭を歩いているのは、テオたち村の自警団。その後ろを私とジル。さらに後ろをエルが無言で歩いている。
私としては、自分が先頭に立つつもりだったのだが、自警団様いわく、決められた巡回ルートがあるのだそうだ。当然、私はそれを知らないので、彼らについていくことになる。
エルに連れられて、村長の家で彼らと落ち合った時から、テオは機嫌が悪かった。温厚そうな村長が私を麓の町から来た傭兵だと紹介すると、さらに機嫌が悪くなった。ついでに「そんな頼りにならないヤツらより、俺の隣に来なよ」とジルに声をかけたが、すげなく断られ、最悪の気分になったと思われる。さっきから取り巻きどもに私やエルに対する厭味をぼやいては、あたりの木の幹を蹴ったりしている。ガキ大将がそのまま青年になったような男だ。ある意味素直なのだろうが、腹が立つことに違いはない。
しかし傭兵が村人に暴力を振るったのでは、外聞が悪い。何とか周囲の人にバレずに、奴をシメる方法はないものか…。
見回りは村の周囲の他、畑と家畜小屋まで巡回する。現在のところ異常はなく、月は間もなく中天に達しようとしていた。
妖魔も毎日出る訳ではないようだ。今日はもう何もないかもしれない。
「ねえねえ」
私の隣を歩いていたジルは、振り返ると、歩調を落として、エルと並んだ。
「はい」
するとエルは彼女よりさらに足を緩める。ジルは彼に合わせようとしてさらに速度を落とし、エルはそれよりさらに遅くなり、ジルはそれに合わせてさらに……二人とも立ち止まってしまった。なにやってんだ。
「どうしてわたしの後ろに回ろうとするの?」
「おれは一応自警団だから、無関係の人を守らないと…」
「それなら隣に並んでてもいいじゃない」
「でも、万一、後ろから襲われたら…」
エルもなかなか頑固だ。責任感が強いのか、ジルと並んで歩くのに抵抗があるのかは分かりかねた。普通のこの年頃の青年なら、ジルのような女性と並んで歩けるなら、飛び上がって喜ぶだろうが、エルはどうもあまり彼女に関心は無いように見える。ずば抜けてシャイなのか、ずば抜けて鈍感なのか、ずば抜けて女嫌いなのか、良く分からない。
「じゃあ、私が一番後ろを歩くから、あなたは彼女と並んで歩いたら?」
私がそう言うと、彼は躊躇した。
「でも、あなただって危ない」
「私は元々妖魔退治に来たんだから、本来なら私があなた方を守らなきゃいけない訳なんだよね。後ろを歩くより、前を歩いてもらった方が守りやすいんだけど」
まくしたてると、エルはやっと頷いた。
「判りました」
ジルは私に向かって、軽く肩をすくめると、青年と並んで早足で歩き始めた。しばらく立ち止まっていたので、テオたちとの距離が開いてしまっている。
ジルはやっと並んで歩き始めたエルに話し掛けた。
「ぶしつけなこと聞くけど、この村に来るまで、何してたの? さっきの男の人のこと、本当に知らないの?」
エルは黙ったままだった。
「話したくなければいいんだけど」
静かにジルが呟くと、青年はうなだれた。
「すみません……。でも、さっきの男は本当に知らないんです」
「あ、謝らないで。わたしこそ、立ち入ったこと聞いて、ごめんなさい」
「いえ…」
この青年、何者なのだろう。ジルと同じように、私も興味が湧いていた。
先ほどの変としか言いようのない小男といい、昔のことを語りたがらないことや、こんな山村で行き倒れていたことは、確かに胡散臭い。だが、宿屋の子供はよくなついているし、少々愛想が無いとはいえ、悪い人間には見えない。
ふと苦笑いがこみ上げる。
悪い人間に見えないから何だというのだ。問題は悪い人間か良い人間かではなく、彼らが自分に対して害を与えるか、そうでないかだ。良い人間が自分に対して、悪意を抱いていないとは限らない。
「どのくらいこの村にいるの?」
ジルは質問を変えた。
エルも表情を和らげる。
「1年ちょっと…」
「ずっと、あの宿屋に?」
「はい」
「恋人とか奥さんとかはいないの?」
「いえ、いません」
青年は口数が少ない。まるでジルが一方的に尋問をしているようだったが、不思議と微笑ましく見えた
「それじゃあさ…」
ジルは話を続ける。エルは首を振ったり、言葉少なに答えたり。
見たところ、二人とも同じ年頃―20歳前後のようだが、姉弟のようだった。
何となく彼らを温かく見守り、さらに前方に目をやれば、テオたち自警団は、村の側道を外れ、森に入ろうとしていた。
「森に入ると危ないですよー」
私は最後尾から声を張り上げたが、彼らは振り向きもしなかった。
「何考えてるんだ、まったく」
思わず毒づいて、私はエルたちを追い抜き、彼らの元に走った。
「ちょっと、森に入るつもりですか?」
自警団に追いついて、声をかけると、やっと一人が振り向いた。
「だって、ここが見回りのルートなんだから仕方ないじゃないか」
「でも、森は危険ですよ。ここから先は私一人で行きますから」
先頭のテオが突然振り向いた。
「そうはいかねえよ。この辺はあんたよりおれたちの方が詳しいし、いくら傭兵だからって、女一人を森にやる訳にいかんだろが」
言いたいことを言うと、さっさと彼は森に向かって歩き出した。他の男たちも続く。
バカにされているのか、気を遣われているのかは分かりかねたが、そうまで言われては、無理に止める訳にもいかない。
「なに?森の中まで入るの?」
追いついてきたジルもさすがに眉をしかめる。
「そうみたい」
「無謀ね」
低く呟いたが、彼女は躊躇わず、男たちの後を追った。私も続く。
森とは言っても木々は疎らで、月光が葉と葉の間から地面にこぼれている。先頭のテオが松明を持ってはいたが、さすがにこの途切れ途切れの月明かりの中、松明一本では頼りない。私は足を止め、自分の分の松明に火をつけようとした。
不意に月明かりが遮られた。
頭上を振り仰ぐと、月にいつのまにか雲がかかっている。
雲ではなかった。
ほんの2メートルほど先。地面から伸びる木々の梢を圧してそびえる、巨大な影が月光を遮っていた。
「気をつけて!」
一番先に声をあげたのはジルだった。
少し前を歩いていたテオたちが振り返る。彼らの持つ松明の明かりが影を照らし出した。
男たちが驚愕の悲鳴を上げる。
こんな巨大な生物が音も立てずに、こんなに近寄れるはずがない。少なくとも普通の動物ではありえない。
薄暗い赤い炎に照らされたのは、異形の巨人だった。森と同じ緑の肌は、異様に発達した筋肉で歪に盛り上がっている。両腕で一抱えほどもある眼球は顔の中央にひとつだけ。めくれあがった唇の間から、乱杭歯が覗いている。
妖魔だ。
自警団の勇士達は、異形の姿に悲鳴を上げたまま立ち尽くしていた。
「早く逃げなさい!」
私は叫んで、彼らの方に走る。
それよりも早く妖魔の手が伸び、自警団の一人をつかみ上げた。災いから逃れた者たちは、悲鳴を上げて飛び退く。
妖魔に近づいて、内心戦慄した。
巨大だ。私の頭が奴の膝くらいの位置にしかならない。
そう位の高い妖魔には見えないとはいえ、予想していたより遥かに大きい。家畜を襲う程度の被害だから、もっと小さな下級妖魔の群れだと思っていた。
その気になればあの小さな村ごと潰せそうな妖魔が出たなんて話は、ここ最近聞かない。傭兵ギルドもそして私も完全に読みを誤った。
加勢を頼みに、一旦町に戻るべきだったのだ。少なくとも、村人を連れてくるべきではなかった。私一人なら、逃げることもできるが、これだけ村人がいては…。
掴み上げられた男の悲鳴が響く。
躊躇している時間はない。私は地面を蹴った。
一気に距離を詰め、その勢いを利用して剣を怪物の腿めがけて突き上げる。
そのまま身をかがめて股の間をすり抜け、奴の背後に回った。
妖魔は怒りの咆哮を上げ、手に握っていた哀れな男を地面に叩きつけた。誰かの悲鳴があがる。
男はくぐもった短い叫びをあげたきり、動かない。
妖魔がこちらを振り返った時には、私は木立ちのひとつに身を隠していた。
男たちが放り出した松明が地面の上で燻っている。その弱々しい炎が怪物を照らしていた。
私の剣は脚の付け根あたりを深く抉ったはずだ。だが、妖魔にはほとんど堪えていないようだ。一つしかない巨大な目を血走らせ、自分に傷をつけた人間を、私を探している。
怪物は唸りながらしばらく辺りを見回し、私の姿を見つけられずに、また村人たちの方へ向き直る。
私はまた木の陰から飛び出し、怪物の膝の裏に切りつけた。そして再び木の陰に回り込む。
こうやって奴の隙をついては、少しずつ傷をつけていくしかない。正面から渡り合える相手ではなさそうだ。
妖魔が咆哮した。
奴は私の背丈ほどもある自分の腕を闇雲に振り回した。そこら中に生えている木に腕がぶつかり、鈍い音を立てる。その内の一本、まだ若く細い木が軋んで半ばほどから折れ始めた。
怪物は目ざとくそれを見つけ、幹をわしづかみにすると力任せに引いた。めりめりと嫌な音を立てて、樹皮がさらに裂ける。妖魔が裂け目に片足を掛け、さらに幹を引くと若木はそこから二つに折れた。
私は間合いを取ることも忘れてその光景を見ていた。
若木と言えど、立ち木を素手で引き裂くとは、とんでもない怪力だ。加えてその発想に至る知性。妖魔相手にそれなりに修羅場をくぐってきたが、これほど巨大で賢い妖魔と相対したことはない。しかも一人で。
いや、一人より分が悪い。これ以上村人に犠牲を出させるわけにいかない。
「やめろ!」
その時、私は信じられないものを見た。
エルという青年が倒れ伏す自警団の男を庇い、圧倒的に巨大な怪物の前に立ち塞がったのだ。
小柄な私に比べると、彼は長身だ。だが、この妖魔の前では、猫と犬ほどにも違うまい。
だが青年は臆せずに斧を振りかぶると、妖魔に切りかかった。その斧、薪割りに使ってたヤツでは……。あまりの無謀ぶりに私は制止の声も出なかった。
怪物が新しい獲物を見つけ、威嚇とも歓喜ともつかない咆哮をあげる。空を切って、引き裂かれた若木が、小枝をしならせながら振り回される。
すぐ近くにあった木にぶつかり、だん、と嫌な音を立ててぶつけられた木の樹皮が裂けた。怪物は一向に構わず即席の棍棒を振り回し続ける。森の木々の細枝が引きちぎられ、ばらばらと地面に散った。
だが、奇跡的にもエルにはそれは当たらなかった。動きの鈍い怪物の背後に彼は素早く回り込み、大地を蹴って妖魔の背中めがけて斧を振り下ろす。斧は怪物の背中、肩甲骨のあたりを抉った。
信じられない。
人間離れした、驚異的な跳躍力だ。私も身の軽さには自身があるが、同じようにしたところで、奴の腰に届くか届かないかというところだろう。
しかしその一撃も怪物の外皮を削いだだけのようだ。
妖魔は振り返り、地面に着地して態勢を整えようとした青年をがっちりとつかんだ。
まるで小石を投げるように、エルの体を放り投げ、木の幹に叩きつける。私は悲鳴を飲み込んだ。
エルは短い呻きをあげ、地面に投げ出された。そのまま動かない。自警団たちの悲鳴が聞こえる。
好機だ。
私は大地を蹴って怪物に背後から迫る。これ以上時間をかけていられない。私の身長で狙える場所は一つしかない。
外皮が固いなら、そうでない部分を狙うしかないのだ。目や口にはとても届かない。狙えるのは肛門しかない。
非常に気は進まないし、ヤツを仕留めた以降、同じ剣を使う気になるかは分からないが、上品ぶって手段を選んでなどいられない。あたしはそうやって生き残ってきた。
怪物の臀部が迫る。その向こう、地面にうつ伏せに倒れこんでいるエルが見える。怪物はとどめのつもりか、棍棒を振り上げた。
間に合わせなければ。
次の瞬間、私はの右腕に激しい風圧と痛みを感じて、叢に倒れこんだ。
とっさに胴体と顔を手足で庇ったのは上等だった。まさか、怪物が真後ろにまで棍棒を振り回すとは考えてもいなかった。
立ち上がろうとして、右足首に激痛が走る。倒れた拍子に捻ったのか、棍棒に当たった時に骨にヒビでも入ったのか……。
理由はどうでもいい。問題は立ち上がれないということだ。
激痛を堪えてふらつきながら立ち上がる間に、怪物はついに私に気付いて振り返った。血走った巨大な一つ目。石臼のような乱杭歯が並んだ口……。あまりにも異様で恐ろしい姿に、不覚にも震えがきた。
動かなきゃ。
その時、背後で熱気が膨れ上がった。髪が舞い上がり、うなじがちりちりと灼ける。
振り返るより早く、真紅の塊が尾を引いて私の横を通り過ぎる。
それは炎だった。
火焔がまるで生き物のように妖魔に襲い掛かる。
妖魔は初めて苦痛の声をあげた。強靭な外皮も熱には弱いらしい。肉が焦げる匂いが立ちこめ、見る間に怪物の背中が黒く焦げていく。
私は振り返った。
左手に弓を持ったまま、右手を突き出していたジルが、少し離れたところに立っている。彼女は叫んだ。
「前を見て!」
そうだ。戦いは終わっていない。私は妖魔に向き直る。
怪物を焼き焦がす炎は意志を持った別の怪物のように、足を胴を胸部をはい登る。皮膚が焼け焦げて縮み、爛れた。炎はさらに顔までも覆おうとしている。
だがそれでも、妖魔は動いていた。咆哮し、丸太のような腕をあたり構わず振り回し、地団太を踏んでいる。
再び奴に切りつけようと、痛む足を堪えて一歩踏み出すと、私の剣もまた突然炎を吹き上げた。
これは魔法だ。
この世界にある六つの精霊の力の内の一つ、炎の精霊による祝福。
右足を庇いながら、怪物に背後から迫る。その剛毛に覆われたふくらはぎに燃える剣を叩きつけた。
ただの剣では外皮を削ることしかできなかったが、白熱して火炎に包まれた剣は分厚い皮膚を焼け焦がし、体内の肉までめり込んだ。
すかさず剣を引き抜き、もう一度。
妖魔は空気を震わせて絶叫した。振り回す足に危うく蹴り飛ばされそうになり、慌てて飛び退る。右足に再び激痛が走った。
怪物が振り返る。その頭部まで炎に包まれ、私の元まで熱気が流れ込んでくる。もう奴は息も絶え絶えだろう。
だが私もこれ以上は……。
振り返るとジルはまっすぐにこちらに弓を構えていた。
彼女が右手を放すと、放たれた矢は吸い込まれるように、巨大な妖魔の喉に突き刺さった。
突風のような、声にならない悲鳴をあげ、妖魔は尻餅を付く。背中を大地に横たえる。