三人目:兄弟というもの②
「……あの」
「はい」
「ここどこなんすか」
柔らかいソファに腰を下ろしたまま、タクトは体を硬くしていた。部活でくたくたになって帰ってきて、姉から小言を言われ苛立ちが募ったまま自室への扉を開けると、大きな窓から庭のような場所が見える部屋にいたのだ。普段自室の窓から見える空とは段違いの輝きを放つ星空に目を向けながら、タクトは男に聞いた。
「一言で言ってしまえば休憩所です」
「休憩所……」
「ええ。心に悩みを抱えて、その行き場を失ってしまったお客様のための。コーヒーはお好きですか?」
「いや……」
「では麦茶」
「まあ好きです」
「では」
店主が指を鳴らすと透明なグラスに氷と一緒に入った麦茶が出てきた。店主の目の前にも同じものが出現する。
「……心に悩みを抱えてしまった人って、俺のことですか?」
「ええ。悩みや怒りをどこにぶつければいいかをご存知のお方は、そもそもここに繋がりません。好きにして構いませんよ。横になりたいと仰るのであればベッドを、何かを殴りたいと仰るのであればサンドバッグを、叫びたいと仰るのであれば防音室を提供いたします」
「至れり尽くせりだな……じゃあその、俺の悩みを、聞いてもらうのって」
「構いませんよ」
グラスを両手で抱え、タクトは恐る恐る口を開いた。
「俺、姉ちゃんがいるんですよ、年結構離れた。その姉ちゃんが、嫌い、っていうのは流石にあれですけど……」
「お気に召さない言動があると」
「そう!そうなんですよ!!」
勢いよく立ち上がった直後自分の行動に気がつき、タクトは顔を赤くしながら座った。
「……俺、大体最終下刻時刻まで部活あって。家帰って晩飯食って風呂入ったらもう寝てもいい時間で勉強する暇なくて……時期によっちゃ夏の炎天下でマーチングの通しとかやるし、家帰ったらくたくたでもうほぼ何もする体力なくて」
「お話を聞く限りでは、吹奏楽部に所属していらっしゃるようですね」
「はい。だから午前帰りかつ部活がない日がめちゃくちゃ貴重で。そういう日くらいちょっと休んだりテスト勉強したりとかしたいじゃないですか。なのに姉ちゃんそういう日に家事押し付けてきて。そりゃ姉ちゃんがやってる家事多いのは理解してますけど、だからって学校帰りの受験生にする仕打ちじゃなくないすか?」
「今の時代、受験はどんどん難しくなっていると聞きますしねぇ」
ぐい、と冷え切った麦茶を喉に流し込む。痛いくらいに喉が冷えた。目の前の店主はグラスを机の上に置いたまま静かに相槌を打っている。
「家事頼む時も『してくれない?』って質問で言ってくるくせに断ったら不機嫌になって小言言いまくったり自分の不幸自慢みたいなのしまくるし。断ってそんな態度取るくらいなら最初から頼まれた方がまだ気が楽ですよ」
「女性の方は言葉の裏に本音を隠したがる人が多いですからねぇ、お姉様もそのような人なのでは?」
「多分。……一番腹立つのは『私の時はこうだった』って言葉ですけど。自分がこのくらいの時はこうだった、親に言ったらこう言われた、だからお前もこうするべきだ、って。俺それ聞かされてないんだけど」
愚痴る声がどんどん大きくなっていく。グラスを握る手に力がこもった。
「親に話した時俺もその場に居合わせてたならまだいいんですけど、全然聞いてないし。てかその理論通じるなら俺姉ちゃんと比べて家族で遊びに行った回数めっちゃ少ないんだけど」
「お姉様が幼い頃は家族が少なく年頃の子供もいなかったから旅行に行きやすかったんでしょうね」
「数年に一回溜めてた怒りが爆発するとか言ってたけど、仕事断るたびネチネチ小言言ってんのは含まれねえのかよ。俺が何回本音言わなかったと思ってんだ」
敬語が取れ始めたことにも気が付かず、タクトは本音をボロボロとこぼし続ける。膝の上でグラスを抱えていたせいでズボンが結露で濡れ始めた。
「何より、自分がこの歳の頃はこうだったからお前もこうしろってなんだよ。俺はそれ使えないのに」
「下の兄弟が『自分は昔こうだったからお前もこうしろ』と言っても、上の兄弟はもうその年をとっくに過ぎていますからねぇ。確かにその手は少しずるいかもしれません」
「だろ?そもそも早く生まれて人生経験積んでる段階で下の俺が口論で勝てるわけねえし。かといって力で解決しようもんなら被害者ヅラだろうし。……家出したいけど、兄ちゃんがやってるし」
「お兄様が、家出を?」
「あ、はい。つってももう何年か前の話ですけど。警察沙汰にまでなったんすよね。結局隣の県で見つかったからいいけど。その時の母ちゃんの狼狽えっぷりを見てたら、迂闊に家出できなくて」
「ご両親に相談はなさらないんですか?」
「やってもいいけどそれで怒られた姉ちゃんが俺のこと恨んでまたネチネチ言い出すんで。……しんど」
家事を断った時の姉の態度を思い出し、胸が鉛を飲んだように重くなる。帰りたくない、そう思ってしまった。
「では、いっそその本音をお姉様自身に話してみては?」
「え?」
「もうお話しになっていますか?」
「いや、まだだけど……けど、どうせ言ったって分かってもらえないし。実際俺姉ちゃんの苦労わかんねえし」
「話さなくても分かってもらえないままなのでは?」
「……」
言ったら、姉はなんて反応を返すんだろうか。私の方が辛い、と被害者ぶるのだろうか。それとも、存外自分のことを理解する素振りを見せてくれるのだろうか。
「……じゃあ、一回だけ、話してみます」
「現状に苦しみ拠り所がないのは分かりますが、何もしなくては何も変わりませんからね。無理をしろとは言いませんが」
「いや、大丈夫です。……姉ちゃんに分かってもらえなかったら、また来ますから」
「では、二度と会わないことを願いましょう」
残りの麦茶を飲み干し、タクトは手を振って部屋から出ていった。
「……やはり血は争えないものなんでしょうかねぇ」
店主の呟きが、部屋の空気に溶けて消えた。
「……姉ちゃん、ちょっと、いい」




