二人目:兄弟というもの
「卓人、あんた今日午前帰りだったんでしょ、皿洗いしてよ」
「はぁ?俺普段部活で帰り遅いじゃん。午前帰りの今日ぐらいゆっくりしたいんだけど」
「……」
いつもいつもこれだ。今年高校三年生になる卓人は吹奏楽部。普段帰宅する時間が七時を過ぎることがザラにある。対して私は大学四年生。帰りが遅くなる日もあるが、基本的には卓人ほど遅くはならない。二つ下の真ん中の弟は六時過ぎに帰ってくることが多い。だからなのか、皿洗いも晩御飯作りも、基本的には全て私がこなしている。両親は共働きで二人とも外でお金を稼いでいる上、両親に「みんなもうそんなに子供じゃないから」と全員で家事を分担するよう言われたのだ。
そこまではまだいいのだが、問題は私が担当する家事が多過ぎること。言われたばかりの頃は感染症のため自粛していたから交代制できっちり回っていた。だが自粛が解除されると、卓人も二つ下の弟も学校で帰りが遅くなる。確かに家族の中で帰りが一番早いのは私だから私の分担が増えるのは仕方がないが、午前帰りの日にまで私ばかりが家事をしなくてはならないのは不公平なのではなかろうか。大音量で音楽をかけながら皿洗いを済ませ自分の部屋に続く扉を開けると。
「……は?」
一つの部屋が広がっていた。壁には「ちょっとレスト」と看板が掲げられ、大きな窓から植物が植えられている庭が見える。遠くから何かの鳥が囀る声が聞こえた。
「いらっしゃいませ」
「……あの、ここって、何のお店なんですか?」
「お店、というよりは、休憩所、でしょうか」
「休憩……」
ここしばらく縁のなかった言葉だ。店主が座っているソファの向かい側にそっと腰を下ろし、あたりを見回す。埃一つ落ちていない、シミの一つもない床、部屋の隅に飾られた花瓶、聞こえてくるのは外の草が揺れる音と鳥の鳴き声だけ。エアコンもないし窓も空いていないのにどこからかそよそよと風が吹いてくる。ソファに座ったまま固くなっていたからだが、ほんの少しだけ緩んだ。
「あの、お金とか……」
「いりません。私が好きでしていることですから。コーヒーはお好きですか?」
「はい」
「では」
店主が指を振れば、一つのコーヒーカップがアオイの前に現れた。黒茶色の液体を一口飲み、そっと店主を見やる。同じようにコーヒーを飲む店主の姿は、こちらに何も求めていないことがよく分かった。アオイと異なり、ひどくリラックスしているようだ。休憩所、という店主の言葉は本当らしい。自分も休まなければ、リラックスしなければ。そう思えば思うほど体に余計な力がこもってしまう。コーヒーカップを握りしめれば、店主が顔を上げアオイを見た。
「……無理に休もうとしなくても構いませんよ」
「え?」
「あくまでもここは休憩所ですから。目標も目的もありません。何かを強いることもありませんので、休むことが苦しいのであれば無理に休めとは言いません」
「……不思議な場所ですね」
「よく言われます」
そう言って、店主はまたコーヒーを一口飲んだ。
「無理に休めとは言いませんが、これだけは覚えておいてください」
すると、店主は唐突にコーヒーカップを傾けた。柔らかいカーペットが敷かれた床に茶色いシミが広がっていく。
「えっ!?」
アオイが驚いて声を上げると同時に、店主が指を一つ鳴らす。すると床のシミはマジックのように消え、店主の手元のカップには再びコーヒーが満たされていた。
「……」
「ここでお客様が何をなさっても、それを誰かが見ていたという証拠は残りません。誰の目にもつきません。それだけは覚えてくださいね」
「……」
アオイは自分の手の中のコーヒーを見つめた。茶色い水面に自分の姿がゆらゆらと揺れている。
「……私、兄弟の中で一番上なんです。だから、弟たちが甘やかされている中私だけ厳しくされるのが本当に嫌で」
「兄弟間の軋轢が生まれる大きな理由の一つですね」
「特に許せないのは、私が高校三年生の頃に、私以外の全員が熱を出して寝込んで、私が火事全部をこなさないといけない時があったんです。それで私が文句というか愚痴というか、そういう感じの事を母に言ったら『皆順番にやるのよ』って言われたんです。でも……」
「弟さんたちが高校三年生になっても同じように家事をしていないと」
「そうなんです。しかも普段は帰りが遅いから今から皿洗いや晩御飯づくりをしても遅くて間に合わないって言うのに、早めに帰ってきたら帰ってきたで『たまにはゆっくりしたいんだ』って。私だってゆっくりしたいのに」
いつの間にかコーヒーカップは机の上に置き、アオイは己が抱え続けていた不満をぶちまけていた。
「だからそういうのが溜まりに溜まって数年に一回噴火しちゃうんですけど、父も母も下の子達ばっかり甘やかして私の意見を聞きやしないし。私の時はこうだったって本人たちに言ってもごねて動かないし。私が精神科に通ってたのは誰のせいだと」
そこまで言って、アオイは慌てて口をつぐんだ。言ってしまった、勢いのままに。店主の顔を見ることができずに俯く。全身から嫌な汗が吹き出した。
「精神科に通っていたんですか、お疲れ様です」
「……すみません」
「何も謝ることはありませんよ、それを作らなければいけないほど、今の社会が人に何かを強制する場だというだけですから。あの世の中に放り込まれてケロリとしている人のほうが、今時珍しいものですよ」
店主の反応に、アオイは僅かに目を丸くした。嗤わないのか、腫れ物を扱うような反応をしないのか。元とは言え精神病にかかった人間を、邪険に扱ったり、逆に特別扱いしたりしないのか。
「……どうしてそんな、普通の人に対して接するみたいな」
「先程も申し上げましたが、今の社会はいささか厳しすぎる。あの中に放り込まれて何もない方が珍しい。それに、うちにいらっしゃるお客様の中には精神科に今も通っているという方もいらっしゃいますので。そういうお客様は、自分を大事にしないあまり気を使われることに対しても申し訳なさを覚えるようでしたのでこのような対応をしております。嫌でしたら言ってくだされば変えますよ」
「大丈夫、です」
「ではこのままで」
大抵の人は「気にしない」と言ってもチラチラこちらを見てきたり何も気にしていない演技をしていたりして、心の底から気にしていない素振りをしているところを見たことがない。けれど、この人は本当に、心の底から自分が精神科にいたことなどどうでもいいように振る舞っている。いや、実際どうでもいいと思っているのだろう。先ほどからコーヒーを味わったり、鳥の声が聞こえる窓の方へ視線を向けたりしていて、一度も視線が合わない。ここでは、自分は半端者などではなく、ただの一人の人間でしかないのだと理解し、肩の荷が少し降りた気がした。
「……ありがとう、ございます」
「お気になさらず。私にできることをしたまでですから。もう、お行きになりますか?」
「はい。そろそろ帰らないと、晩御飯作り間に合わなくなるんで」
「文句があると言うのに、きちんと仕事はなさるんですね。あまりご無理はなさらないよう。もう少しご家族に、ご家族がダメなら知り合いの一人にでも悩みは打ち明けていた方が気が楽になりますよ」
「はい。……また、来てもいいですか?」
「ここは来ない方がいい場所なんですが、どうしても耐えられないと思った時は、またいらしてください」
「ありがとうございます」
お辞儀を一つして、アオイは扉を開けて出ていった。
「卓人!皿洗いしといてよ!」
「だから言ったじゃん、午前帰りなんだからゆっくりしたいって」
漫画から目を離さない態度に苛立ちが募ったが、店主の言葉を思い出し、一呼吸おいて口を開いた。
「じゃあ皿洗いして晩御飯作らないか皿洗いせず晩御飯作るか選びなよ。家事は分担だって前にも言ったよ」
「……」
そう言うと、卓人は読んでいた漫画を置いて渋々台所へ向かった。
言えた。本音、言えた。ほう、と息をつく。自分の言うことを我慢しないことがこんなにも胸がスッとするものだと、思いもしなかった。これまでの人生は、我慢してばかりだったから。
家の窓から見える枝に止まっている鳥を見て、葵はふっと笑った。




