第八章:藤の花に込めた想い
数日後逸郎の元に高城の秘書から一通の封筒が届いた。中には多額の小切手と短い手紙が入っていた。
「この金は罪滅ぼしには程遠いと分かっています。せめて彼女の慰霊のためにお使いください。そしてもしよろしければ明子さんの墓参りをさせていただきたく。五十年間行くことができませんでした。高城和也」
逸郎はその小切手を破り捨てた。お金で解決できる問題ではない。そして墓参りについてはそれは高城自身が決めることだ。自分が口を出すべきことではない。
代わりに逸郎はある場所へと向かった。
桜木通りの佐伯文具店。
からんとドアベルが鳴る。佐伯時子はカウンターの奥であの日と同じように猫を撫でていた。猫は逸郎を見ると人懐っこく鳴いた。
「……あんたかい。なんだか顔つきが少し変わったようだね」
時子は全てを見通すような目で逸郎を見た。彼女には逸郎が何かを成し遂げたことが分かっているのかもしれない。
逸郎は何も言わずカウンターの上に小さな花束を置いた。それは白と紫の小さな藤の花を集めて作った簡素だが心のこもった花束だった。
「明子さんが好きだったと聞いたものですから」
時子は驚いたように目を見開いた。そしてその花束をそっと手に取った。
「……そうかい。藤の花あの子大好きだったよ……」
時子の目に涙が光った。花束の香りをそっと嗅いでいる。
藤の花は古来から日本人に愛され続けてきた花だった。紫の房状の花が風に揺れる様は雅やかで上品な美しさを持っている。平安時代の貴族たちも藤を愛し多くの和歌に詠まれた。「恋しくは形見にせむと手折りけん 袖ふる山の藤の花房」という古歌もあるように恋心の象徴でもあった。明子が藤の花を好んだのも偶然ではないだろう。
「便箋もそうだったしあの子の浴衣の柄も藤の花だった。『藤の花は高いところから垂れ下がって咲くでしょう。だから天国に一番近いお花だと思うの』ってそんなことを言ってた」
なんと美しい感性だろう。明子という女性の人柄がその言葉に現れている。
「もしよろしければあの電柱のそばに供えてはいただけないでしょうか。私のような者がするよりもあなたの手の方がきっと彼女も喜ぶでしょうから」
逸郎は深く頭を下げた。
時子は立ち上がった。猫が心配そうに見上げる。
「一緒に行きましょう。あの子にあんたのことも紹介してあげる」
二人は店を出た。電柱までの距離はわずか数メートル。だが逸郎にとってはこれまでの人生で最も重要な歩みだった。
電柱の前で時子は花束を地面に置いた。そして手を合わせて静かに祈った。
「明子ちゃんお友達が来てくれたよ。あんたのことを忘れずにいてくれる人がいたよ」
逸郎も手を合わせた。心の中で明子に語りかける。
(あなたの愛は無駄ではありませんでした。あなたの想いは確かにこの世界に届いていました。そして今もここに残っています)
風がそっと吹いた。藤の花が風に揺れる。まるで明子が答えてくれているかのように。
夕日が電柱を照らし長い影を地面に落としている。その影はもう逸郎には暗いものには見えなかった。それは確かにそこに存在するものの証なのだ。
逸郎は時子と共に静かにその場を後にした。振り返ると電柱の根元に供えられた藤の花が夕闇の中でほのかに光って見えた。




