第七章:告白の重さ
「……親父は絶対的な人間だった。俺の人生は生まれた時から親父に決められていた。大学も会社もそして結婚相手もな」
高城は自嘲するように笑った。その笑いには苦い響きがあった。
昭和四十年代の家族制度は現在とは大きく異なっていた。特に資産家や名士の家庭では父親の権威は絶対的で子供の進路や結婚相手まで決める権限を持っていた。個人の意思よりも家の存続と繁栄が重視され若者は自分の気持ちよりも家の利益を優先することが求められた。
「俺には政略結婚の相手がいたんだ。取引先の大企業の社長の娘だ。顔も知らない女とな。俺が明子と出会ったのはその縁談がすでに水面下で進んでいる時だった。……馬鹿だったよ。俺は本気で明子を愛してしまった。親父に逆らってでも彼女と一緒になれると本気で信じていたんだ」
幻の中で見た二人の幸福そうな姿が逸郎の脳裏に蘇る。あの愛は本物だったのだ。
「明子は俺にとって初めての本当の愛だった。彼女といると初めて自分が生きているって実感できた。彼女の笑顔を見ているとどんな困難も乗り越えられる気がした。毎日手紙をくれてな……どれもこれも愛情に満ちた美しい文章だった」
高城の目に涙が滲んだ。
明子の手紙は藤の花の便箋に万年筆で書かれていた。昭和四十年代の女性の多くは美しい字を書くことができ手紙は芸術作品のような美しさを持っていた。ペン習字が盛んだった時代で多くの女性が書道教室に通い美文字を身につけていた。明子の手紙もそんな時代の美意識を反映した美しいものだったに違いない。
「だが親父はそんな俺の甘い考えを一瞬で叩き潰した。もしあの女と一緒になるなら勘当するとと。高城家からも会社からも追い出すと。それだけじゃない。明子さんの実家のクリーニング屋が二度とこの街で商売ができないようにしてやるとまで言った」
それは愛する人を人質に取られたのと同じだった。和也は無力だった。
昭和四十年代の商店街は現在よりもずっと結束が強く同業者組合や商店街組合の力も大きかった。有力者の意向で一つの店を干すことは決して不可能ではなかった。高城家のような名士の家がその気になれば小さなクリーニング屋など簡単に廃業に追い込むことができただろう。
「そして最後通牒だった。『明日までにきっぱりと別れろ。でなければお前もあの女の家族も破滅させてやる』と。親父は本当にやりかねない人間だった。権力も金も手段も全て持っていた」
高城は両手で顔を覆った。
「俺は明子に別れを告げるしかなかった。……あの日彼女はいつものように俺に手紙を渡そうとした。俺がどんなに苦しい状況にいるか知るよしもなくただ真っ直ぐな想いを……。俺はそれがたまらなく辛かった。そして憎かった。何も知らずに俺を信じきっている彼女の純粋さが憎かったんだ」
だから彼は手紙を地面に叩きつけた。彼女をそして無力な自分自身を傷つけるために。
「『約束なんて最初からなかった』……そんなひどいことを言って俺は逃げた。明子の泣き声を聞きながら俺は車で逃げ出したんだ」
「……車で当てどなく街を走った。雨がひどかった。何もかも洗い流してくれればいいと思った。自分の弱さも情けなさも全部。そしてあの角を曲がった時だ。……まさか彼女がまだあそこにいるなんて思わなかったんだ……」
高城の声は嗚咽に変わっていた。
「飛び出してきたように見えた。いや違う。彼女は地面に落ちた手紙を拾おうとしていたんだ。俺が叩きつけたあの手紙を……雨に濡れてぐしゃぐしゃになった彼女の想いの欠片を。俺は慌ててブレーキを踏んだが……間に合わなかった。それどころか動揺してアクセルとブレーキを踏み間違えた……」
五十年の時を超えて真実がついに白日の下に晒された。それはあまりにも愚かで悲しい人間の弱さが引き起こした悲劇だった。
「……親父は全てを金で解決した。警察もマスコミも黙らせた。俺はただ親父の言う通りにするしかなかった。明子の葬式に行くことも許されなかった。俺は彼女を殺した上その死からさえ逃げ出したんだ」
高城は両手で顔を覆った。その肩は老人のものとは思えないほど激しく震えていた。五十年間彼を苛み続けてきた罪の重さがそこに現れていた。
「そして俺は親父の決めた女と結婚した。子供もできた。会社も継いだ。表面的には成功した人生を送った。だが毎日が地獄だった。明子の顔が頭から離れない。あの時の雨音が耳から離れない。彼女を殺したという事実が俺を一日たりとも安らかにさせてくれなかった」
逸郎はただ黙って高城の告白を聞いていた。彼を責める言葉は何も浮かんでこなかった。目の前にいるのは権力に守られた成功者などではない。愛する人を自らの手で殺めその罪の意識から五十年間一日も逃れることのできなかった哀れな一人の男の姿だった。
「……なぜ今あなたは私の元へ?」
しばらくして顔を上げた高城がかすれた声で尋ねた。その目は涙で赤く腫れていた。
「あなたは警察の方でもマスコミの方でもない。一体何が目的なのですか? お金ですか? それとも私を社会的に葬るつもりですか?」
「いいえ」
逸郎は静かに首を振った。そして自分が書き写してきたあの地図をテーブルの上で高城の方へと滑らせた。
「私はただの地図を作っていた男です。この電柱は全てを見ていました。あなたの喜びも苦しみもそして明子さんの最後の瞬間も」
高城は地図の上の「桜木通り五十六号」という文字を食い入るように見つめた。まるでそこに明子の魂が宿っているとでもいうように。
「明子さんは最後に何を拾おうとしていたのか。あなたはもうお分かりのはずです。彼女はあなたに投げ捨てられた自分の想いを最後まで諦めることができなかった。雨に濡れ泥にまみれてもあなたへの愛を拾い上げようとしていた」
その言葉は最後のそして最も重い一撃となって高城の心を打ち砕いた。
「う……あああああっ……!」
高城は獣のような叫び声を上げた。それは五十年間心の奥底に封じ込めてきた後悔と懺悔の叫びだった。彼は革張りのソファから崩れ落ちるように床に膝をつき子供のように声を上げて泣き続けた。その姿はもはや会社の社長でも権力者でもなかった。ただの壊れた一人の人間だった。
逸郎はその姿を静かに見下ろしていた。
これで良かったのだろうか。一人の人間の決して癒えることのない傷口をこじ開けてしまっただけではないのか。
だが逸郎は自分のしたことが間違いだとは思わなかった。たとえどれほど苦しくとも真実と向き合うことからしか本当の救済は始まらないのだ。高城は今日初めて自分の罪とそして明子の愛と本当の意味で向き合うことができたのだから。
逸郎は泣きじゃくる老人をその場に残し静かに応接室を後にした。ビルを出ると夕暮れの光が目に眩しかった。逸郎は自分がひどく疲れていると同時に何か大きなものを成し遂げたような不思議な達成感に満たされているのを感じていた。




