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三.違背の子(2)

 

 血の匂いは一度つくとなかなか取れない。

 手伝いが終わってから、川の水で汚れと匂いを洗い落とすのも一苦労なのだ。

 応急処置を施す為に、血を流したままで再度脇を抱え上げられて引き摺られてゆく罪人を流し見る。

 脂汗と涙と削がれた鼻から溢れ出る鮮血とで、酷く見苦しい顔になっている。

 この後、彼は鼻の削がれた顔のまま、領地の外れから他領へと追放されるのである。それが、この罪人に与えられた罰だった。

 内心で吐息しつつ、秋津は血で汚れた筵を片付け、側を流れる川の水で辺りに散った血を洗い流す作業に取り掛かるのであった。

 

 ***

 

 御堂へと続く道は雑草が生い茂り、殆ど埋もれて下草と道の境も曖昧だ。

 日が沖天に昇る頃には罪人の一応の手当ても済み、手伝い人足の非人たちにも暇が出された。

 これもやはり大した銭にはならないが、一応の取り分を受け取り、秋津も漸く家路についたのである。

 昼日中から暇が出されたとなれば、また何かしらの稼ぎ口を探しに行くことも考えたが、先日も十兵衛には無理を言ってしまったばかりだ。

 あまり頻繁に駆り立てると、流石の十兵衛も顔を曇らせるかもしれない。

 先日の磔での槍持ちに続き、今日は今日で鼻切り刑の罪人の頭を抑える役目だったのだ。大の男でも相当に神経がやられるだろう。

 日も高く昇ったが、御堂を囲む杉林を抜ける道は殆どが陰となり暗く澱んでいる。

 地元の人間は昼間でも近寄ることすら避けている場所だ。

 狐狸に化かされるとか、幽霊が出るとか、雰囲気だけで勝手な噂が流布されてゆく。

 暫く御堂に寝泊まりしているが、そんなものに出会した(ためし)は一度もない。

 どれも根も葉もない噂話に過ぎないが、その噂のお陰で安寧を享受出来ていることには感謝していた。

(まあ今はいいけど、冬は困るな……)

 夏の時期とは打って変わって、冬は深々と雪の降り積もる土地だ。

 このまま御堂で冬を過ごすのは、厳しいものがあった。

 それまでにもう少し寒さを凌ぎやすい住処に移り住むか、と考えていたところで、道は漸く明るくなり、僅かに開けた御堂の境内へ出た。

「あ」

 いつもは無人の御堂の、朽ちた階に休む人の姿が目に入る。

 恭太郎だ。

 秋津に気が付くと、恭太郎は立ち上がりこちらへ向き直る。

 思わず立ち止まってしまったが、秋津もややあって恭太郎のほうへ歩き出した。

 この上まだ何かあるのかと訝りながら歩み寄ると、驚いたことに恭太郎は秋津へ向けて深く一礼した。

「おまえのお陰で、今日は何とか耐えることが出来た。心から礼を言う」

「ちょっと、やめてくださいよ。誰もいないからいいようなものの、こんなところを人に見られでもしたら……!」

 郡代の嫡子があろうことか非人に頭を下げるなど、前代未聞だ。

「恭太郎様は勿論、元宮の御家の評判にまで傷がつくじゃないですか!」

 慌てて顔を上げるように言うと、恭太郎はゆっくり上体を起こして秋津を見た。

「本当に感謝しているんだ。おまえに叱咤され、勇気も貰った」

「だからって、それだけのためにお武家様がこんなところへ来ちゃあ駄目でしょう」

 わざわざ非人の娘を訪ねているなどと噂が立てば、恭太郎の立つ瀬がなくなる。

 父母からもお叱りを受けることは間違いない。

 噂話の独り歩きを馬鹿に出来ないことは、秋津もよく知っていた。

 だが、慌てる秋津とは裏腹に、恭太郎はまた階にゆるりと腰掛けてしまった。

「少しだが握り飯と漬物を持って来たんだ。今日の礼に、一緒にどうだ?」

 傍らに置いた包を膝の上に広げ、竹籠の蓋を開ける。

「腹は減っているだろう? さあ、ほら」

 昨日の青褪めた顔とは違い、今日は一段と明るい笑顔を浮かべている。

 とんとん、と階の古板を軽く叩いて自らの隣に誘う。

「お、お武家様の隣に並んでお相伴には預かれませんよ」

「? なぜだ? どうせ誰も見てはいない」

 いいから座ってくれ、と今一度乞われ、秋津は迷った末に少し間を空けて隣に座ったのだった。

 

 ***

 

 大きな握り飯と、胡瓜と茄子の漬物。

 常に満足に食えてはいない身からすると、それだけでも御馳走と呼べた。

 米を食べたのも随分久しぶりだ。

「……ご馳走様です」

 気まずいなとは思いつつも、空腹には勝てず、すっかりぺろりと平らげてしまった。

 それを見届けると、恭太郎も嬉しそうに破顔する。

「ところで、おまえは無宿なのか?」

 無宿とは、非人の中でも人別帳からも外された者をいう。

 秋津の場合は無宿とは違い、人別帳に名のある非人だ。

 非人長屋に住む者は人別帳に名前のある者たちばかりで、秋津も本来は今も長屋にいることになっている。

「あたしは、小さい頃に頭に預けられたから、今も長屋の非人てことになってるはずだよ。だから、無宿とは違う」

「そうだよな。でなければ刑場の手伝い人足は出来ないだろうし……」

 ではなぜ、と恭太郎は問う。

「縄張り争いで揉め事を起こしたんですよ。長屋には二十も三十も住んでるんだ。牢番してる奴もいれば、あたしや十兵衛みたいに刑場の手伝い人足をする奴もいる。生業はそりゃ色々だけど、みんなその傍らで自分の縄張りを廻って反故紙や髪を集めて売って、銭に替えてるんだ。他人の縄張りにまで足を延ばしちまったあたしが悪い」

 非人同士にも色々あるものだ。

 そもそもが、それぞれ違った事情がある。生まれたときから非人だった素性非人もいれば、よそから欠け落ちて非人になった者もいる。

 生国が違えば人の性質も異なるものだ。お国柄というやつだろう。そうした些細な食い違いから、どうしようもない諍いに発展することも間々ある。

「あたしの場合は母親が他領から流れてきた欠落者だったらしくてね。どこかの殿様の奥女中だったそうだよ。それが、奥小姓と恋仲になって身籠っちまった」

 不義密通の罪を犯して命からがら逃げて赤子を産んだのはいいが、追跡の手はなかなか緩まなかったようだ。

 それでも何年かは逃亡を続け、各地を転々としてきたが、やがて逃げ切れないと思ったか、或いはそんな暮らしに疲れたのか、母はとうとう源太郎に幼い秋津を託して姿を消したという。

 

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