らせつの影――境界を越えた者たち
みなさん……信じられますでしょうか。
日本には、宦官 はいなかった――。
歴史の教科書は、そう言い切ります。
けれど……『羅切』という言葉だけが、ポツリと、時の流れに取り残されているのです。
平安の昔から、江戸の終わりまで。
歴史の表舞台から消し去られた者たちがいました。
……『羅切子』。
麻酔などなかったとされる時代。
けれど、秘密の術は確かに存在したのです。
三国志の時代、名医・華佗が遺し、失われたはずの最高医学書『青嚢書』。
その写本は海を渡り、この国に辿り着いていた……。
曼陀羅の華から作られた秘薬が、深い深い眠りをもたらす中で、術は行われたのです。
仏の教えにおいて、魔羅を断ち、煩悩の根を切り捨てる行為――羅切。
大奥の奥深くに、あるいは絢爛豪華な遊郭の陰に、羅切子たちはいました。
男でありながら、男ではない身体を選び、女たちの世界へ溶け込んでいった者たち。
術を終えた時、羅切師は必ずこう囁いたといいます。
『ここへ来たことは、誰にも話してはならぬ。
羅切したと知られれば、お前の生きる場所はどこにもなくなるのだから……』
けれど、男娼たちの間では、公然の秘密として囁かれていました。
『あの術師の元へ行けば、女子に成れる』……と。
実は……江戸の古い川柳にも、その『影』はひっそりと詠み残されています。
『らせつして おんなのなかに まじるかげ』
『おとこには みえぬさかえを おんなしる』
不思議なものです。
男たちは、目の前で全裸の羅切子を見ても、抱いても、その正体に気づかない。
けれど……女たちには、一目見れば分かってしまうのです。
その身体に差す、ほのかな『影』の理由が。
男の世界からは隠され、
女の世界では、ただ静かに理解されていた存在……
明治という新たな時代が訪れた時。
混乱の波に呑まれ、羅切師も、羅切子も、歴史の闇へと消えていきました。
残されたのは、ただ『羅切』という一語のみ。
……これは、身体の境界を変え、定めに抗って生きた者たちの、切なくも美しい、夢の物語でございます。




