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第十八章 七年前の夏

 太陽が九歳になった夏、皆藤家は一つの重要な決断を下した。家族三人で初めて、すべての始まりの場所である海辺の町を一緒に訪れることにしたのだ。それは時久にとっても沙月にとっても、勇気のいる旅だった。


 その小さな漁港町は十二年の歳月を経ても、ほとんど変わっていなかった。古びた灯台は相変わらず港を見守り、坂道に並ぶ民家の屋根瓦は潮風に磨かれて鈍く光っている。そして何より、あのジャズバー「Blue Moon」も健在だった。


「ここがパパとママが初めて出会った場所だよ」


 時久が少し照れくさそうにそう説明すると、太陽は興味深そうに辺りを見回した。


「へえ、なんか古い映画みたいだね」


 太陽の率直な感想に、沙月と時久は思わず笑ってしまった。


 三人は午後の町を散策した。時久は古い一眼レフを首から下げ、太陽は小さなデジタルカメラを手に持っている。沙月はただ二人の男性を温かく見守りながら歩いていた。


「あの時の俺は、自分がこんな幸せな家族を持つことになるなんて想像もしていなかった」


 時久が坂道の途中で立ち止まり、十二年前を振り返った。


「私もです。一人旅の解放感を楽しんでいただけなのに」


 沙月も当時の心境を思い返していた。教師になる前の束の間の自由。将来への不安と期待が入り混じった複雑な時期だった。


 夕方になって、三人は例の砂浜を訪れた。太陽は初めて見る本物の海に大興奮だった。


「わあ、すっごく大きい!海お姉ちゃんの名前にぴったりだね!」


 太陽ははしゃいで波打ち際を走り回った。その元気な姿を、沙月と時久は少し離れた場所から黙って見つめていた。


「海がもし生きていたら、太陽と一緒にこの砂浜で遊んでいたでしょうね」


 沙月がぽつりと呟いた。


「ああ。きっと二人で砂の城を作って、貝殻を拾い集めていただろうな」


 時久も同じ想像をしていた。もしもの世界では、四人家族でここに来ていたかもしれない。しかし現実は違う。海の短い命があったからこそ、今の家族がある。その複雑な運命の糸を、二人はかみしめていた。


「パパ、ママ、何してるの?」


 太陽が駆け寄ってきて、両親の間に割り込んだ。


「太陽、楽しい?」


 沙月が息子の砂だらけの頭を撫でながら尋ねた。


「うん!でもね、一つだけ寂しいことがあるの」


 太陽の表情が少し曇った。


「何が寂しいの?」


「海お姉ちゃんが一緒にいないこと。お姉ちゃんも絶対にここで遊びたかったと思うんだ」


 太陽のその言葉に、沙月と時久は胸を熱くした。この子は本当に優しい心を持っている。会ったこともない姉を想う気持ちが、これほど純粋に表現されるなんて。


「太陽、お姉ちゃんはここにいるよ」


 時久がしゃがんで、太陽の目線に合わせた。


「どこに?」


「太陽の心の中に。そしてこの美しい海の中にも。風の中にも、夕日の中にもいるんだ」


 太陽はしばらく考え込んでから、空を見上げた。


「お姉ちゃん、僕たち家族で遊びに来たよ!楽しいよ!」


 太陽が大声で空に向かって叫んだ。その純粋な声が海風に乗って遠くまで響いていった。


 夜になって、三人は十二年前に時久と沙月が歩いたのと同じ砂浜を散策した。月明かりが波に反射して、まるで銀の道ができているようだった。


「不思議ですね」


 沙月がぽつりと呟いた。


「何が?」


「十二年前のあの夜。もし私がこの町に来ていなかったら、もしあなたがあのバーにいなかったら……。私たちの人生は全く違うものになっていたんでしょうね」


「ああ。海も生まれなかったし、太陽も存在しなかった」


 時久も同じことを考えていた。運命というものの不思議さ。一つの偶然が、これほどまでに多くの人生を変えてしまう。


「でも俺は信じてるんだ。たとえあの時出会っていなくても、俺たちはいつかどこかで必ず出会っていたはずだって」


「……どうしてそんなことが言えるんですか?」


 沙月が不思議そうに尋ねた。


「だって俺たちは海に呼ばれていたんだから」


 その言葉の深い意味を、沙月は問い詰めなかった。ただ静かに時久の大きく温かい手に自分の手を重ねた。


「パパ、ママ、あれ見て!」


 太陽が興奮して指差した方向に、二人も視線を向けた。そこには天の川が美しく広がっていた。都市部では見ることのできない満天の星空が、三人の頭上を覆っている。


「うわあ、すごい!お姉ちゃんもこの星空見てるのかな?」


 太陽の無邪気な疑問に、時久が優しく答えた。


「きっと見てるよ。そして太陽が元気に育っているのを、とても喜んでいると思う」


 三人は砂浜に寝転んで、しばらく星空を眺めていた。波の音が子守唄のように響き、時々流れ星が空を横切っていく。


「ねえ、パパ、ママ。僕、将来写真家になりたい」


 突然太陽がそう言った。


「どうして?」


 沙月が驚いて尋ねた。


「パパの写真を見てると、写ってる人がすごく幸せそうなんだ。僕も人を幸せにする写真が撮りたい」


 太陽のその真剣な表情を見て、時久は胸が熱くなった。


「太陽、写真家になるのは簡単じゃないよ。でも、本当にやりたいなら、パパが全力で応援する」


「本当?」


「本当だ。でも一つだけ約束してくれ」


「何?」


「写真は技術じゃなくて、心で撮るものだということを忘れないでくれ。被写体への愛情がなければ、いい写真は撮れないんだ」


 太陽は真剣に頷いた。


「わかった。海お姉ちゃんみたいに、愛情いっぱいの写真を撮る」


 その夜、三人は町の小さな民宿に泊まった。太陽はすぐに眠ってしまったが、沙月と時久は縁側に座って夜の海を眺めていた。


「十二年前の夜と同じように、波の音が聞こえますね」


 沙月が懐かしそうに言った。


「ああ。でも俺たちは変わった。あの時は二人とも一人だったけど、今は家族がいる」


「そうですね。そして、その家族を結んでくれたのは海なんですね」


 二人は手を繋ぎ、永遠に続くような波の音に耳を澄ませていた。寄せては返す波が、まるで海の優しい笑い声のように聞こえた。


 翌朝、三人は「Blue Moon」の前で記念写真を撮った。太陽が持参した小さな三脚にカメラをセットして、セルフタイマーで撮影した。


 十二年前、偶然の出会いから始まった物語が、こうして新しい世代に受け継がれていく。写真の中の三人の笑顔は、過去への感謝と未来への希望に満ちていた。


 帰りの車の中で、太陽は眠ってしまった。沙月と時久は静かに語り合った。


「あの町に行けて、本当によかった」


 沙月が心からそう言った。


「ああ。過去から逃げるんじゃなくて、過去に感謝することの大切さを改めて感じた」


 時久も同感だった。


「これからも、家族の歴史を大切にしていきましょう」


「もちろんだ。海の分まで、太陽を愛して育てていこう」


 車窓から見える風景が、ゆっくりと都市部の景色に変わっていく。しかし三人の心には、あの美しい海辺の町と、そこで感じた深い絆の記憶が永遠に刻まれていた。


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