表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
17/20

第十七章 ファインダーの向こう側

 時久は年に一度、必ず一人だけの旅に出る習慣を続けていた。それは海の命日に合わせて行われる彼だけの神聖な儀式だった。家族を愛し、家族に愛される幸せな日常から一時的に離れ、娘の魂と対話するための大切な時間。


 彼は健太のあの古いニコンF3だけを手に、毎年異なる世界の片隅へと向かう。そしてその美しい風景の中でたった一枚だけ写真を撮るのだ。海の魂に捧げるための特別な一枚を。


 今年の秋、時久はスコットランドのハイランド地方にいた。グラスゴーから車で三時間ほど北上した人里離れた高原。そこは霧に煙る雄大な渓谷と、どこまでも続く紫色のヘザーの丘が広がる神秘的な場所だった。


 朝霧が立ち込める中、時久は一人丘の頂に立っていた。足元には露に濡れたヘザーの花が無数に咲いている。遠くには古い石の教会の尖塔が霧の中にぼんやりと浮かび上がっていた。


 この風景は海が愛したひまわり畑とは全く違う。しかし不思議なことに、時久にはこの場所に海の存在を強く感じることができた。生命の循環、自然の永遠性、そして愛する者を失った後に残る静かな美しさ。それらがすべてここに凝縮されているようだった。


 時久は慎重にカメラを構えた。ファインダーを覗きながら、彼は海との最後の日々を思い返していた。あの小さな病室での偽物の海遊び。ひまわりに囲まれた最後の家族写真。そして海の最期の笑顔。


 シャッターを切る瞬間、時久の心に海の声が聞こえたような気がした。


 『パパ、元気?ママと太陽くんは?』


 その優しく懐かしい声に、時久の目から涙がこぼれ落ちた。


「ああ、みんな元気だよ。太陽はもうすっかりお兄さんになったんだ。君のことをいつも話してるよ」


 風がヘザーの花を揺らし、まるで海が笑っているような音を響かせた。


 『それならよかった。パパもママも、もう悲しまないで。私はとっても幸せだったの』


 時久は一人、その幻聴とも思える声に答え続けた。


「ありがとう、海。君のおかげで俺は本当の父親になれた。本当の家族を持つことができた」


 『パパ、約束して。これからもずっと太陽くんの良いパパでいて。そしてママを大切にして』


「約束する。絶対に約束する」


 時久はその場にしゃがみ込み、ヘザーの花に手を触れた。その小さな花びらの感触が、なぜか海の小さな手の温もりを思い出させた。


 旅から帰った時久は、いつものように現像した写真を沙月に見せた。スコットランドの雄大な風景を背景に、一本の古い樫の木が立っている写真だった。


「今年は樫の木なのね」


 沙月がその写真を手に取りながら言った。


「ああ。樫の木は長寿の象徴なんだそうだ。何百年も生き続けて、その根は地の底深くまで伸びている。まるで愛のようにね」


 時久の説明を聞いた沙月は、深く頷いた。


「海の愛も、私たちの心の奥深くまで根を張っているのね」


「そうだ。そしてその根から新しい芽が育っている。太陽という名前の、希望の芽が」


 二人は手を繋ぎ、庭のひまわり畑を見つめた。夕日に照らされたひまわりたちが、まるで海の笑顔のように輝いていた。


 その夜、太陽は両親に一つの提案をした。


「パパ、ママ、今度の海お姉ちゃんの誕生日に、みんなでお墓参りに行かない?」


 太陽の純粋な提案に、沙月と時久は胸を熱くした。


「いいね、太陽。きっと海も喜ぶよ」


 時久がそう答えると、太陽は嬉しそうに飛び跳ねた。


「やった!お姉ちゃんに太陽が描いた絵を見せてあげる!」


 太陽の無邪気な喜びを見て、沙月は改めて実感した。愛は決して失われない。形を変えて、世代を超えて受け継がれていくものなのだ。


 時久もまた、ファインダー越しに見続けてきた世界の本当の意味を理解していた。写真は単なる記録ではない。愛を伝え、記憶を保存し、そして未来に希望を残すためのメディアなのだ。


 健太が遺したあのカメラで撮り続けてきた数千枚の写真。それらすべてが、愛の物語を語っている。失われた命への鎮魂歌であり、新しい命への祝福歌でもあった。


 時久の写真家としての旅は、もはや個人的な表現活動を超えて、愛の伝道師としての使命になっていた。ファインダーの向こう側に見えるものは、美しい風景だけではない。人間の魂の輝き、愛の永続性、そして生きることの尊さだった。


 その夜、時久は久しぶりに深い眠りについた。夢の中で彼は見た。広大なひまわり畑の中で、海と太陽が手を繋いで走り回っている光景を。そして遠くから、健太が温かい笑顔でその様子を見守っていた。


 目覚めた時、時久の頬に涙の跡があった。しかしそれは悲しみの涙ではなく、深い感謝と平安の涙だった。愛する者たちは決して失われない。心の中で、写真の中で、そして新しい命の中で永遠に生き続けるのだ。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ