二章1 [前座]
伊織が鬼宗になった日それが弟子入りをした日ということになる。
それまでは他の一門の者からしてみれば、ただの自称圓鬼の弟子ということだ。
だが圓鬼一門からしてみればいつから弟子入りしていたなど、どうとでも言える。
そんな事を言って圓鬼は、見習いとしての期間を有耶無耶にして鳴り物ができる様になるとすぐに楽屋入りさせると言った。
それを言われた鬼宗は、すぐに覚えてしまい5月から楽屋入りする事を許された。
楽屋入りを許されたものの、5月までまだ2週間もある。
その期間に何をするかというと、もちろん噺の稽古である。
噺の稽古はこれまであまり上手くはいっていなかったが、これはでとは違いきっかけを掴めたのだろう。
どんどん噺の情景やテンポ、声の強弱、人物の演じ分け他にもいろいろ良い方向に進んでいた。
どうも【二階ぞめき】でコツを見つけたのだろう。
すると今まで中々上がらなかったネタが驚くほどにスムーズに上がった。
きっかけがあると人はガラッと変わってしまうことがこれで分かった。
そんな成長した鬼宗が噺を15個目を上げた頃にとうとう5月が来た。
楽屋入り当日、鬼宗は少しだけ緊張していた。
緊張していると言っても、圓鬼の前で噺を披露する時に比べれば屁でもない。
そんな事を思いながら、先日も来た古風な印象を感じる建物である新宿高野亭へと入っていく。
楽屋に入ると鬼宗以外に人が3人いた。
1人は丸みを帯びた優しそうな男性。
1人は痩せ型の長髪の男性。
1人はちょっと強面な男性。
「山麓亭鬼宗です。今日からよろしくお願いします」
3人とも驚いた様に鬼宗に駆け寄って来た。
その中の強面な男性が、
「お前、山麓亭に鬼の字って事は圓鬼師匠の弟子か?」
みんなそんなに驚いてどうしたのだろうか。
てか今日の準備はしなくていいのだろか。
そんな事を思いながら頷くと嫌な顔をされてしまった。
嫌な顔をされながらも自己紹介はしてくれた。
丸い人は、藤家小太郎。
細身な人は、心新亭可ん太。
強面な人は、楠桐丸、立前座(前座を仕切る人)らしい。
自己紹介も終えてから前座の仕事を桐丸兄さんが教えてくれた。
前座の仕事は、まずは楽屋での師匠たちの世話、高座の準備、出囃子での太鼓や演目での鳴り物、とこの様に沢山の仕事がある。
そして開口一番での高座やはりこれが一番楽しみにしていたものだ。
まぁしかし開口一番を決めるのは、立前座である桐丸兄さんだ、どうもあまり良く思われていないらしいので初めての高座は遠いかもしれない。
早く受け入れてもらって開口一番を任せられるようになりたいものだ。
開演時間の前になると続々と楽屋に人が来だした。
人が来るということは世話などの仕事が増えるということだ。
仕事が増え忙しくなると他を気にしている余裕が無い。
しかしながら楽屋の中には常にいるので人の声というのは自ずと聞こえてくる
仕事をしながらも聞き耳を立てていると、こんな会話が聞こえて来た。
「最近喘息の様な咳が出てて喉が痛くってね、しかも今日はやけに痛む」
「そりゃ大変だね、これ喉にいいらしいから、ほら飲みな」
落語を長年やっている師匠方でも喉を痛める事があるらしい。
咳のせいなので仕方がないのだが、喉は落語にとっての商売道具の1つでもあるので大切にしないといけない。
「ぞこの頭真っ白なお前、ネタ帳見せてくれないか?」
喉が痛いなんてレベルでは無いだろう。
誰がどう聞いても喉が枯れていて言いづらいが聞くに耐えない。
師匠の言っていたネタ帳とは今日の高座で行われたネタを書いている物である。
喉を痛がっていた師匠がネタ帳を見て今日やるネタを決めているようだ。
そんな最近喉が痛いと言っていた師匠が今から高座に上がるようだ。
あんな喉の調子で大丈夫なのかと心配ではあるものの、プロはそんな調子が悪いなどお客さんには悟らせないだろう。
その師匠はなにせ真打なのだから。
真打の噺を聞いてみたい気持ちはあるが忙しくてそれどころじゃない。
その師匠は楽屋を出て舞台の方へと向かった。
いやしかし分かってはいたものの、前座の間は苦労が絶えないだろう。
「そこの前座、アイツ少し酒の匂いがしなかったかい?」
「そいですね」
まさか酔っているのか、いやそれはないか…
多分昨日飲み過ぎたのだろうな。
喉が枯れて二日酔いの可能性があるなどコンディション調整が少し甘いのではとは思った。
体の調子を整えるのもプロの仕事ではあろうがもしも調整が悪くてもそれを悟らせないのもプロであろう。




