第38話「焦燥の蒼」
海鳴りが、低く唸っていた。
岩礁地帯に押し寄せる波が白く砕け、飛沫となって宙へ散る。
その向こうで、三機の統治機兵が赤い光を灯していた。
岩礁の下に広がった赤い導光線が、網のようにアーク・ギガントを囲んでいる。
赤い線。
赤い光。
赤い包囲。
それは、王都で見た深紅の侵食を思わせた。
けれど、ここは王都ではない。
港町リヴァリアの外れ。
海と岩と古い港湾施設の残骸が残る、忘れられた沿岸区画。
その中心で、アーク・ギガントは剣を構えていた。
左肩部装甲損傷。
駆動系に軽微な遅延。
ルナとの通信は不安定。
それでも、まだ戦える。
「……ここで止めよう」
声は、思ったより静かだった。
怒りではない。
焦りでもない。
ただ、胸の奥に沈む何かを押し込めるような声。
アーク・ギガントが告げる。
――敵機、包囲陣形を形成。
――岩礁下部の旧港湾導光設備と同期している可能性があります。
「分かった」
――離脱経路、三方向中二方向が封鎖。
――推奨行動、上空離脱後、灯台外縁部への移動。
ノアは一瞬、視線を上げた。
灯台。
第四避難施設の手がかり。
そして、その先にはリヴァリアの街がある。
避難は進んでいるはずだ。
ゴルドが声を張り上げ、ギアを動かせる者たちが道を開き、ハルトも必死に走り回っている。
ミリアとルナも、レピオスの診療所周辺で人々を誘導しているはずだった。
街に戻せない。
それだけは、できない。
「上には逃げない。ここで引きつける」
――長期戦は不利です。
「うん」
ノアは小さく頷いた。
アークの言うことは正しい。
きっと、いつだって正しい。
それでも。
ここで自分が退けば、統治機兵は灯台へ向かうだろう。
港湾施設が壊される。
避難途中の人々が巻き込まれる。
セーラの眠る診療所にまで、危険が及ぶかもしれない。
そんなことはさせられない。
「街を守れるなら、それでいい」
言ってから、ノアは自分の言葉にかすかな違和感を覚えた。
それでいい。
本当に?
考える間もなく、右側の統治機兵が動いた。
杭打ち機を備えた巨大な腕が岩礁を砕きながら迫る。
「くっ!」
アーク・ギガントは踏み込み、切断刃でその一撃を受け流す。
火花が散った。
衝撃が操縦席を震わせる。
いつもなら、ここで即座に反撃へ移れる。
敵の腕を弾き、懐へ踏み込み、核に近い駆動部を狙う。
だが、アーク・ギガントの動きは半拍遅れた。
重い。
蒼き巨人が、本来の軽やかさを失っている。
ノアの背筋に冷たいものが走った。
自分が、動かせていない。
――王統同調率、さらに低下。
――機体反応精度、八十二%。
「……ごめん」
――謝罪は不要です。
――ノア、精神波形の安定を優先してください。
「分かってる」
分かっている。
呼吸を整えればいい。
視野を広く持てばいい。
アークを信じればいい。
ゴルドも言っていた。
ギアは力任せじゃいけない。
相棒みたいに扱わなければならない。
あれはギア・ノードの話だった。
でも、きっとアークだって同じだ。
アークは道具じゃない。
自分を守り続けてくれた相棒だ。
分かっている。
分かっているのに。
胸の奥のもやは、消えなかった。
昨日の決勝。
ゴルドのギアに崩され、膝をついた瞬間。
観客の拍手。
ハルトの泣きそうな笑顔。
ミリアの「負けたけど、ちゃんと助けたじゃん」という言葉。
すべてが温かかった。
だから、悔しいなんて思ってはいけない気がした。
負けたことより、セーラを助けられたことを喜ぶべきだった。
実際、そう思った。
なのに。
「……なんで」
ノアの呟きは、波音に消えた。
正面の統治機兵が単眼を光らせる。
――抹殺対象の王統同調低下を確認。
「っ……!」
赤い光弾が放たれる。
アーク・ギガントは左腕の防御機構で防ぐ。
光弾が盾の縁をかすめ、胸部装甲に衝撃が走る。
――胸部装甲損耗。
――中枢防壁、軽微低下。
操縦席が揺れ、ノアの身体が座席へ叩きつけられた。
「ぐっ……!」
痛みが走る。
だが、それよりも強く胸を締めつけたのは、別の感覚だった。
まただ。
また、足りない。
アークに乗っているのに。
アークが力を貸してくれているのに。
自分は、まだ届かない。
もしアークがいなかったら。
もしミリアが危険に晒された時、自分一人で戦わなければならなかったら。
自分は、誰かを守れるのか。
――ノア。
アークの声が響く。
いつもと同じ静かな声。
けれど、そこにはわずかな強さがあった。
――街への直接被害予測は、避難進行により低下しています。
――今なら、後退しても街への被害は軽微と推測されます。
「でも、まだ避難は終わってない」
――ノア。
――現在のあなたの生存率は、急速に低下しています。
「大丈夫」
また、その言葉を口にした。
大丈夫。
大丈夫じゃないことくらい、自分でも分かっていた。
けれど、他に何と言えばいいのか分からなかった。
ミリアに心配をかけたくない。
アークに無理をさせたくない。
ルナに不安定だと言わせたくない。
だから、大丈夫と言う。
大丈夫ではない自分を、隠すように。
三機の統治機兵が同時に動いた。
一機が正面から圧力をかける。
一機が左側の岩礁を砕き、退路を塞ぐ。
最後の一機が海面に腕を沈め、赤い導光線をさらに強く脈動させた。
足元が揺れる。
「何を――」
――旧港湾固定機構、敵性同期。
――足場が制御されています。
次の瞬間、アーク・ギガントの足元の岩礁が沈んだ。
バランスが崩れる。
「しまっ……!」
アーク・ギガントは背部推進を吹かせて体勢を立て直そうとする。
だが、そこへ正面の統治機兵が突進した。
巨大な腕が、アーク・ギガントの腹部へ叩き込まれる。
轟音。
視界が跳ねた。
――腹部装甲損傷。
――姿勢制御、不安定。
ノアは息を詰めた。
「まだ……!」
アーク・ギガントは右腕の切断刃を振るう。
蒼い刃が統治機兵の肩部装甲を裂いた。
だが、浅い。
敵は止まらない。
背後から赤い光弾。
左から杭打ち腕。
正面から重装の体当たり。
アークは受け、避け、弾いた。
だが、そのたびに損傷が増えていく。
――右脚部駆動系、負荷上昇。
――背部推進機構、出力低下。
――王統同調率、危険域突入。
光板の警告が赤く染まる。
ノアは荒い息を吐いた。
どうして。
どうして、動かない。
いや、違う。
アークが悪いんじゃない。
動かせていないのは、自分だ。
「ごめん、アーク……僕が……」
――否定します。
アーク・ギガントの声が、いつもより強く響いた。
――ノア。
――あなたの精神状態が乱れていることは事実です。
――しかし、それは弱さではありません。
ノアは目を見開く。
「弱さじゃ……ない?」
――はい。
――あなたは街を、人々を守ることを最優先としています。
――その意思は、当機の戦闘目的と一致しています。
「でも、同調率は下がってる」
――原因は、守る意思ではありません。
アーク・ギガントは一拍置いた。
――あなたが、自身の生存を戦闘条件から除外し始めているためです。
ノアは言葉を失った。
自分の生存。
その言葉だけが、操縦席の中でやけに大きく響いた。
「……そんなこと」
ない。
そう言おうとした。
けれど、言えなかった。
港は遠い。
人々は逃げている。
統治機兵は自分を狙っている。
なら、自分がここで倒れても、街は助かるかもしれない。
統治機兵たちが次の目標へ向かったとしても、その頃には避難は終わっている。
港湾施設への被害も、最小限で済むかもしれない。
昨日のギア・コンチェルトと同じだ。
勝てなくても。
負けても。
目的を果たせるなら。
それでいい。
そう思ってしまった。
思ってしまっていた。
アーク・ギガントの中枢光が、さらに揺らいだ。
――ノア。
――その判断は承認できません。
「……分かってる」
声が震えた。
「分かってるよ、アーク」
分かっている。
ミリアと約束した。
死なずに戻ってくる。
一緒に帰る。
そのためにミリアが全力で支えると、そう言ってくれた。
分かっている。
でも。
もし、自分が戻ることと、街を守ることが両立できないなら。
選ばなければならないなら。
きっと。
「……僕は」
その先は言葉にならなかった。
統治機兵の一機が、背部の湾曲翼を展開した。
赤い導光線が岩礁全体を走り、三機の間に巨大な拘束陣のような光が形成される。
アーク・ギガントの足元に赤い輪が浮かび上がった。
――拘束場、発生。
――炉心出力、急速に低下。
「動け……!」
ノアは両足に力を込める。
アーク・ギガントの脚部が軋む。
蒼い粒子光が噴き上がる。
だが、赤い拘束場がそれを押さえ込む。
――拘束解除、不可。
――王統同調率、限界域。
「アーク……!」
――ノア。
――緊急脱出を推奨します。
「だめだ」
即答だった。
けれど、それは苛立ちではなかった。
静かな、痛いほど穏やかな拒絶。
「僕が出たら、アークはここに残る」
――当機は王統機兵です。
――ノアの生存を最優先します。
「僕も、君を置いていけない」
アーク・ギガントは沈黙した。
ノアは操縦席の光板越しに、前方を見据える。
三機の統治機兵が、同時に武装を構えた。
赤い光が一点へ集束する。
とどめ。
それが来ると、分かった。
アーク・ギガントは拘束され、出力は上がらない。
自分の身体も、痛みと疲労で重い。
ノアは不思議と、恐怖を感じなかった。
ただ、ひどく静かだった。
街は守れた。
港からは十分に離した。
人々の避難も進んだ。
セーラも、ハルトも、シーニャも、レピオスも、きっと無事だ。
ミリアも、ルナも。
なら。
目的は、果たせた。
昨日と同じように。
負けても。
目的は。
その時だった。
胸の奥で、沈んでいたものが浮かび上がった。
違う。
昨日と同じじゃない。
昨日、自分は負けた。
セーラは助かった。
皆が笑ってくれた。
ゴルドも賞金を渡してくれた。
それで良かった。
本当に良かった。
でも。
悔しかった。
勝ちたかった。
負けたくなかった。
誰かを助けられたから、それでいい。
そう思う一方で、心の奥では、ちゃんと悔しかったのだ。
そして今も。
街を守れたから、それでいい。
そんなはずがない。
本当は。
本当は――。
「……負けたく、ない」
唇が、かすかに動いた。
小さすぎる声だった。
誰にも届かない声。
アーク・ギガントだけが、それを聞いていた。
統治機兵の赤い光が臨界に達する。
ノアは目を閉じた。
「……ごめん、ミリア」
約束、守れないかもしれない。
その声は、ノア自身にも届いたか分からないほど小さかった。
次の瞬間。
空が、赫く裂けた。
遥か上空から飛来する、眩く鮮烈な赫い光。
深紅ではない。
統治機兵の放つ、あの妖しい紅ではない。
陰る大地を照らす太陽のように鮮烈な、誇り高き赫。
一閃。
統治機兵の放とうとしていた赤い光が、空中で断ち切られた。
轟音。
衝撃波が岩礁を砕き、海水が柱のように跳ね上がる。
ノアは目を開いた。
アーク・ギガントの前に、ひとつの機影が降り立っていた。
黒を主体とした装甲。
その全身を走る、赫い導光。
金の紋様が肩と胸部を縁取り、白銀の副装甲が関節と刃のような輪郭を輝かせている。
蒼き王の巨人と対をなすような、赫き親衛の巨人。
背部に広がる光翼。
それは騎士の外套のように、静かに、力強く、戦場の風を受けていた。
アーク・ギガントの声が、ノアの耳に響く。
――機兵反応、識別。
――王統親衛機兵〈ソル・ヴィルトゥス〉。
ノアは息を呑んだ。
「ソル……ヴィルトゥス……?」
その時、静かな声が響いた。
「遅れたな、王子」
低く、澄んだ声。
かつて敵として聞いた声。
王都の白い塔で、自分を追い詰めた声。
けれど今は、その響きがまるで違っていた。
ノアは、ただその名を呟いた。
「……アウレリウス……?」
赫い光が、海鳴りの中で燃えていた。
――第39話へ続く
※おことわり
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