第36話「隠された灯台」
翌朝。
港町リヴァリアには、いつもと変わらない潮風が吹いていた。
夜明けの海は淡い金色に染まり、港に並ぶ船の帆がゆっくりと揺れている。
蒸気式荷揚げ機の煙突からは白い蒸気が上がり、石畳の通りには魚を運ぶ荷車の音が響いていた。
昨日のギア・コンチェルトの熱気は、まだ街のあちこちに残っている。
けれど、ノアたちが向かったのは闘技場ではなかった。
レピオスの診療所。
扉を開けると、薬草と消毒液の匂いが鼻をかすめた。
寝台の上では、セーラが静かに眠っている。
昨日より顔色は少し良くなっていた。
呼吸も落ち着き、腕に浮かんでいた黒い斑点も、わずかに薄くなっている。
ベッドの横では、ハルトが椅子に座ったまま、船をこぐようにうとうとしていた。
その隣には、シーニャもいた。
小さな手でセーラの指先をそっと握りしめ、寝台の端に寄り添うようにして座っている。
目元は赤い。
きっと、夜の間に何度も泣いたのだろう。
それでも、シーニャはセーラを見つめたまま離れようとしなかった。
隣のハルトの頭が、かくんと落ちる。
「……はっ!」
ハルトは目を覚まし、慌てて周囲を見回した。
「寝てない! おれ、寝てないからな!」
シーニャが小さく呟いた。
「……寝てたくせに」
「寝てない!」
「うそ。すごく寝てた」
ミリアが小さく笑う。
「うん。すごく寝てたね」
「ねーちゃんも見てたのか!?」
「うん。すごく見てたね」
「くっそぉ……!」
ハルトは顔を赤くして、両手で頭を抱えた。
そのやり取りに、シーニャの表情がほんの少しだけ緩む。
けれどすぐに、彼女はセーラの顔を見た。
「……セーラお姉ちゃん、大丈夫かな」
その声は、不安で細かった。
ノアは寝台のそばへ歩み寄る。
「昨日より、少し楽そうに見えるよ」
「ほんと?」
シーニャが顔を上げる。
「うん」
ノアが頷くと、シーニャはセーラの手を握ったまま、小さく息を吐いた。
「よかった……」
その声に、ミリアも少しだけ目を細めた。
奥の棚を整理していたレピオスが振り向く。
細い縁の眼鏡の奥で、いつものように目を細めている。
「おやおや、朝から元気だねえ。診療所で騒ぐ子は、ついでに診察してあげようか?」
「やだ! 先生の薬、苦いじゃん!」
ハルトが即答する。
シーニャも小さく頷いた。
「……そう。すごく苦い」
「二人して手厳しいねえ」
レピオスは肩をすくめた。
「良薬は口に苦し、というやつだよ」
「先生は苦いのに苦くないって嘘ついてくるってセーラ姉ちゃん言ってた!」
ハルトが言うと、シーニャも続けた。
「セーラお姉ちゃん、いつも先生の言葉を信じて騙されるって言ってた」
「セーラも意外と根に持つタイプだねぇ。ちょっとした冗談なのに」
レピオスは肩をすくめた。
軽い口調。
けれど、寝台のセーラへ向ける視線は真剣だった。
ノアはセーラの様子を見て、ほっと息を吐く。
「容態は?」
「峠は越えたよ」
レピオスは薬瓶を棚に戻しながら答える。
「まだ安静は必要だけどね。『黒熱病』の進行が予想以上に早かった。昨日の浄化薬が間に合わなければ、少々まずかった」
ミリアの表情が曇る。
「でも、もう大丈夫なんだよね?」
「医者というのは、大丈夫と言い切るのにとても臆病な生き物でね」
レピオスはそう言ってから、にこりと笑った。
「ただ、助かる見込みは十分ある」
その言葉に、ハルトが椅子から飛び上がった。
「ほんと!?」
「ほんと」
レピオスの言葉にシーニャも目を見開く。
「セーラ姉ちゃん、助かるの?」
「やったなシーニャ!」
ハルトはその場で小さく跳ねた。
シーニャはセーラの手を握りしめたまま、ぽろぽろと涙をこぼした。
「よかった……セーラお姉ちゃん……」
ミリアがそっとシーニャの背中を撫でる。
「よかったね」
シーニャは何度も頷いた。
「うん……うん……」
そこへ、診療所の扉が勢いよく開いた。
「がっはっは! 朝の見舞いに来たぞ!」
現れたのはゴルドだった。
大きな身体を少し屈めて扉をくぐり、片手には紙袋を持っている。
「ゴルドのおっちゃん!」
「ほれ、港の焼き菓子だ。セーラが起きたら食わせてやれ。もちろん先生の許可が出てからな」
「うわー!うまそう!ありがとなおっちゃん!」
ハルトの目が輝く。
シーニャも涙を拭きながら、小さく頭を下げた。
「……ありがとう、ゴルドのおじちゃん」
「おじちゃんじゃなくて、おっちゃんでいいぞ! がっはっは!」
レピオスは横から紙袋を覗き込む。
「砂糖が多すぎるものは却下だよ」
「何だと!? 見舞いに甘いものは基本だろう!」
「患者の胃腸は君の腕ほど頑丈じゃないんだ」
「それもそうか! がっはっは!」
ゴルドは豪快に笑った。
その笑い声に、セーラがわずかに身じろぎする。
全員が一瞬、静かになった。
セーラはゆっくりと目を開ける。
「……ハルト……シーニャ……?」
かすれた声。
ハルトはすぐに寝台へ駆け寄った。
「セーラ姉ちゃん!」
シーニャも手を握ったまま、身を乗り出す。
「セーラお姉ちゃん……!」
「声、大きい……」
「ご、ごめん!」
ハルトが慌てて口を押さえる。
シーニャも涙を拭きながら、こくこくと頷いた。
セーラは弱々しくも、少しだけ笑った。
「……みんな、ありがとう」
ミリアが目元を緩める。
「よかった……」
レピオスは軽く手を叩いた。
「はいはい、感動の再会はほどほどに。患者はまだ休む時間だ」
「先生、空気読めよ!」
ハルトが小声で抗議する。
「空気よりも脈を読むのが医者の仕事でね」
レピオスはそう言って、セーラの額に手を当てた。
ふむ、と呟くと静かな口調で言った。
「熱は下がり始めているから問題ない。もう一眠りするといい」
セーラはもう一度、目を閉じた。
今度は苦しそうではない。
静かな眠りだった。
ノアはその様子を見て、胸の奥に温かいものを感じた。
昨日、勝つことはできなかった。
けれど、セーラは助かった。
それだけは確かだった。
「……よかった」
ノアのその呟きは、本心が半分。
残り半分は、どこか自分に言い聞かせるような響きだった。
セーラが眠りにつくのを見届けたレピオスが、ノアたちへ向き直る。
「さて」
その声色が、少しだけ変わった。
軽さは残っている。
だが、目の奥にあるものは真剣だった。
「君たちには、借りができたね」
「借り……ですか?」
ノアの問いに、レピオスが頷く。
「医者は患者の命を助けるために全力を尽くすのが仕事だ。だが今回は、君たちの助けがなければおそらくセーラは助からなかった。医者として、まずは礼を言わなければならない」
ノアは黙って聞いている。
その様子を見て、レピオスは続けた。
「以前も言った通り、君たちが探している『第四避難施設』なるものについては知らない。だが、旧王国時代の遺跡と思われる『灯台』なら心当たりがある」
「それって……」
「だがこれも前に言った通り、危険を伴う場所には違いない。それでも行くかい?」
試すようなレピオスの視線がノアに向けられる。
ノアはゆっくりと頷いた。
「はい。第四避難施設の手がかりがあるなら、確かめたいです」
「だろうねえ」
レピオスは棚から古びた地図を取り出した。
昨日見せたものと同じだ。
黄ばみ、端が擦り切れた古地図。
そこには、現在のリヴァリアとは少し違う海岸線が描かれている。
「この灯台は、街の西端にある」
レピオスは細い指で地図の一点を叩く。
「今は使われていない。海を照らすには位置が悪すぎる。灯台としては、どうにも妙なんだ」
「街外れの灯台……これって遺跡だったの!? 絶対行くなって言われてたところだけど……」
ハルトが驚きの声を上げる。
レピオスは呆れたように答える。
「不用意に近づくと危ないのは事実だよ。禁足地にも近く、それこそ黒熱病に罹る危険だってある」
ハルトがひぇっと声を上げた。
そこにルナが携帯導光端末から投影される。
手のひらサイズの姿で空中に浮かび、地図を見つめた。
『レピオス先生の言う通り、こちらの地形照合でも、この灯台地下に不自然な空白領域が確認されました』
「便利だねえ、ルナちゃんは」
レピオスがにこりと笑う。
ルナは少しだけ瞬きした。
『ルナちゃん、ですか』
「嫌だったかな?」
『呼称として不適切ではありません。ただし、私は中央補助人格端末ですので』
「分かった分かった。では中央補助人格端末ちゃん」
『より不自然になりました。変更を推奨します』
まるでアーク・ギガントのような物言いに、ミリアが吹き出す。
「レピオス先生、ルナでいいと思うよ」
「それもそうだね。じゃあルナ、続けてもらえるかな」
『はい』
ルナは淡い光図を展開した。
現在のリヴァリア。
古地図の海岸線。
地下水路。
古い灯台。
そして、その下に広がる不明領域。
『王国第四避難施設の記録座標は欠損しています。しかし、アーク・ギガントの航路記録、王都中枢の断片記録、リヴァリア旧地形を照合すると、この灯台地下は最有力候補です』
ゴルドが腕を組む。
「つまり、旅のにいちゃんたちが探してる場所が、あの古灯台の下にあるかもしれねぇってことか」
『はい』
ハルトが目を輝かせる。
「すげえ! 秘密基地みたいだ!」
「秘密基地というより、避難施設らしいんだけどね」
ノアが答えると、ハルトはさらに興奮した。
「おれも行く!」
「「「却下」」」
レピオス、ミリア、ノアの声がほぼ同時に重なった。
ハルトは頬を膨らませる。
「なんでだよ!」
「今危ないって話をしたばかりでしょうが」
レピオスが嘆息しながら答える。
「君はセーラのそばにいてあげて」
ノアが言う。
「でも……!」
「今セーラが目を覚ました時、ハルトがいなかったら寂しいと思うよ」
ハルトは黙った。
その言葉は、彼によく届いたらしい。
少し唇を尖らせた後、小さく頷く。
「……分かった」
そして顔を上げる。
「でも、にいちゃん。ちゃんと帰ってこいよ」
「うん」
「あと、灯台にギアがあったら教えて!」
「それは約束できないかな……」
「じゃあ、見つけたら!」
「見つけたらね」
ハルトは満足そうに頷いた。
シーニャも、セーラの手を握ったままノアを見上げた。
「……危ないところに、行くの?」
ノアは一瞬だけ言葉を探した。
「少しだけ。だから、ちゃんと気をつけて行くよ」
「……無事に帰ってきてね」
「うん。帰ってくるよ」
シーニャは小さく頷いた。
レピオスは地図を畳み、ノアに手渡す。
「灯台へは西門から出て、古い防波堤沿いに進むといい。途中に倒れた標識がある。そこから先は禁足地に近いから気をつけるように」
「セーラが入ってしまった場所ですか」
ミリアが尋ねる。
「そうだ」
レピオスの表情が、少しだけ重くなる。
「本来は多少越えたところでさほど害はないんだが、標識を見失ったことでかなり奥まで入りこんでしまったのだろう」
「じゃあ、わざと奥まで入ったわけじゃないんですね」
「もちろん。あの子は無茶はするが、無謀ではない」
レピオスは苦笑する。
「そこは、ハルトとは違うね」
「先生!」
ハルトが抗議する。
ゴルドが大笑いした。
「がっはっは! 言われてるぞ、ハルト坊!」
「おっちゃんも笑うな!」
診療所に、少しだけ明るい空気が戻る。
だが、ノアは地図を握りしめながら、胸の奥に緊張を感じていた。
禁足地。
粒子汚染病。
第四避難施設。
それらはすべて旧文明から遺されたものだ。
そして、その過去は決して優しいものばかりではないことはわかっている。
だが、それらに対して自分は知らないことが多すぎる。
ノアはそう思った。
「行こう」
ノアが言う。
ミリアが頷く。
「うん、行こう」
ルナも静かに答える。
『案内を開始します』
ゴルドがノアの肩を叩いた。
「旅のにいちゃん」
「はい」
「灯台ってのは、海で迷った奴に帰る場所を教えるもんだ」
ゴルドはにっと笑う。
「お前さんが探してるもんも、見つかるといいな」
ノアは少し驚いた後、頷いた。
「ありがとうございます」
「なに、いいこと言っただろ?」
「はい」
「がっはっは! 自分で言ってて照れるな!」
レピオスが呆れたように眼鏡を直す。
「照れるなら言わなければいいのに」
「そういうな先生! 大人にはたまに格好つけたい時があるんだ!」
「それで格好ついてるなら納得もするんだけどねぇ」
そんなやり取りを背に、ノアたちは診療所を出た。
港町の西へ向かう。
リヴァリアの賑やかな通りを抜けると、街の表情は少しずつ変わっていった。
露店の声は遠ざかり、船乗りたちの笑い声も薄れていく。
やがて、石造りの住宅が減り、古びた倉庫と崩れた防波堤が目立つようになった。
海風は強くなり、波の音が近くなる。
ミリアは携帯導光端末を押さえながら歩いた。
「ルナ、通信は大丈夫?」
『はい、現時点では安定しています。ただし、古灯台周辺には粒子汚染度の高い区域が存在する可能性があります。投影に乱れが生じる場合があります』
「その時は?」
『端末本体の機能は維持されますが、私の応答速度が低下する可能性があります』
ミリアが顎に人差し指を当てて尋ねる。
「つまり、ルナが寝ぼける?」
「いえ、寝ぼけません」
「じゃあ、ちょっとぼんやりする?」
「いえ、しません」
「じゃあ、反応が遅くなるだけ?」
「はい」
「最初からそう言えばいいのに」
「……今後、簡易表現への変換をさらに検討します」
ノアは少し笑った。
この二人のやり取りは、不思議と心を軽くしてくれる。
やがて、道の先に古い標識が見えた。
倒れたまま、砂と草に半ば埋もれている。
そこには、かすれた文字でこう書かれていた。
――この先、立入禁止。
――旧汚染区域。
ミリアの表情が引き締まる。
「ここが……」
『セーラが境界を越えてしまった場所ですね』
ルナが言う。
その先には、乾いた崖地が広がっていた。
ノアたちは標識の脇を通り、崖地を避けるようにして防波堤沿いを進んだ。
やがて、海に突き出す古い岬が見えてくる。
その先端に、灯台が立っていた。
白い石造りの塔。
ただし、その白は王都アステリアのような清らかな白ではない。
潮風に削られ、ところどころ黒く汚れ、ひび割れている。
灯台の上部には、光を放つための窓があった。
しかし、その向きは奇妙だった。
海ではなく、内陸側。
それも、地上よりもずっと高いところに向けられているようにも見える。
ミリアが首を傾げる。
「本当に、海を照らす灯台じゃないんだね」
『はい』
ルナの声が少し硬くなる。
『構造に不自然な点があります。外見上は確かに灯台ですが、上部装置は海辺を照らすというよりももっと上方の、何かを監視・調査するような用途が想定されます』
「上方の監視……?」
ノアは呟いた。
ルナが空中に光図を展開する。
上空を照らす灯台。
岬。
その奥に、広い空間の影。
『地下構造を確認。王国施設規格との一致率、上昇』
ノアの心臓が高鳴る。
今回の目的であった『第四避難施設』。
本当にそこにあるのか。
そして、そこに何があるのか。
確かめなければならない。
そう思った時だった。
アーク・ギガントから通信が入った。
――ノア。報告があります。
アーク・ギガントの声。
静かだが、どこか緊張を帯びていた。
ノアは即座に反応する。
「どうしたの?」
――遠方に炉心反応を検知。
――複数の識別不明機が接近中。
「炉心って……統治機兵?」
その言葉に、ミリアが振り向く。
ルナの投影が一瞬、乱れた。
『通信干渉を確認しました。発信源、不明』
ノアは海の方を見る。
波の向こう。
港町のさらに外。
そこに、黒い点が見えた。
いや、点ではない。
何かが、こちらへ向かっている。
ゆっくりと。
しかし確実に。
ルナの声が揺れる。
『……これは、統治機兵のものと思われる擬似炉心反応です』
ノアの表情が強張った。
王都で終わったはずの戦い。
だが、その影はまだ消えていなかった。
古い灯台の地下に眠る手がかり。
港町へ迫る統治機兵。
リヴァリアの海風が、急に冷たく感じられた。
――第37話へ続く
※おことわり
本作品は、設定の整理や本文草稿の作成補助・推敲に生成AI(ChatGPT等)を使用しています。使用用途・範囲の詳細については、作品概要ページをご確認ください。




