7-3 決着
「これで終わったかしら」
帰ってきたうつし世の、百瀬の家の裏庭に降り立ち、つい後ろを振り返ってしまった。
そこには、見慣れた朔夜の家しかない。
「朔夜は何も心配しないで」
「百瀬、逆に心配だわ」
ひとりで何かを仕出かす気では、と半眼に睨みあげると、百瀬は無邪気なほど曇りのない笑みを返してきた。
「ほんとうに、僕は大丈夫だから」
重ねて言う百瀬が朔夜を抱き寄せるのにあらがわず身を寄せて、彼の胸もとでため息をつく。
「無茶はしないよ。朔夜が悲しむとわかっているからね」
「私のためではなく、百瀬のために、その身を大事にしてほしいの」
「僕は朔夜のものだから、朔夜のものを大事にする、という意味では」
「私の話、聞いてた?」
朔夜はもうひとつため息をこぼして、百瀬の肩に頭を軽くぶつけてやった。百瀬は嬉しそうに朔夜の髪を撫でるばかりだ。
「……きょう、百瀬の家に泊めて」
狭間にいるあいだに、ずいぶん夜が更けていた。朔夜の家にもう明かりはなく、静まり返った夜のもと、世界に百瀬とふたりきりのようだった。
まだ、ふたりきりの世界にいたくて、百瀬を見上げて強請る。百瀬は伏し目に朔夜を見下ろし、静かに微笑んで、「いいよ」と言った。
「昔みたいに、同じベッドでは眠れないけれど。……今は、まだ」
「夢をつなげて眠ればいいわ」
「ほんとうはいつも、朔夜を帰したくなかった」
「言ってくれたらよかったのに」
「朔夜を怖がらせて、逃げられるわけにはいかなかったもの」
朔夜は三度目のため息をついて、いっそう抱きしめてくる百瀬に身を任せる。
その百瀬の怖がりのせいで、朔夜に『契約』を唆したわけだから、諸悪の根源だ。
でも今さら、咎めるつもりもない。
「もう隠しごとはない?」
問うてみたら、百瀬は黙って、完璧に美しく笑う。どう見たって怪しい。
「今度は、何」
「たいしたことではないよ。ただ……今の朔夜は、困ってしまうだろうから」
「そうやってささやけば誤魔化せると思わないで」
くすぐったい耳を押さえながら釘を刺すと、百瀬は軽やかな声を上げて笑った。
何やら曰くがありそうだけれど、百瀬がそうやって笑っていられるなら、まあいいか、と思う。
いちばんの願いは、同じなのだろうから。
*❀*
週明け、つい刺繍に夢中になって、寝不足ぎみの目をこすりながら家を出る。
それでもいつも通り門のところに百瀬の姿を見つけて、足取りを軽くした。
「おはよう、百瀬!」
「おはよう」
朝から、夜半のような静けさで微笑む百瀬の目の奥には、やはり真紅の光がちらつく。その光を、今の朔夜はすなおに美しいと思う。
百瀬がごく自然な動きで朔夜の手を取り、ほどよい力加減で握る。人より冷たい朔夜の手は、そうして百瀬と同じぬるさになってゆく。
「今日は、鳩羽さまのところに寄って帰りましょう。解決したって報告に」
「うん。鳩羽さまは、もしかして全部ご存じだったんじゃないかな」
百瀬は怒るでもなく、いつもの、歌うような調子でもの静かに話した。
「人ならざるものの仕業だったら、自分で動いてそうだもの」
「鳩羽さまはきっと、私たちを試したのね」
「僕たちの選択に任せてくださったんだよ」
おっとりと言う百瀬に目を向けながら、朔夜は百瀬とは少し違うことを考えていた。
鳩羽が見守ったのは、村主新とどう決着をつけるかではなく、百瀬とのことだったように思う。
ぼんやり百瀬を見上げたままでいると、目が合って柔らかに微笑みかけられる。
「百瀬って、ずっと私を見てない?」
「どうかな」
やや悪戯っぽく笑う百瀬は、いつもより肩の力が抜けているように見えた。いつも、何を考えているかわからないようでいて、彼なりに気を張っていたのかもしれない。
「ずっと見ていたいとは思っているよ」
「前を見て」
「前なんて見なくてもわかるよ。朔夜も、そうでしょう」
わざとらしく朔夜を見て言いながら、百瀬の足は、足下を駆け抜ける小さなあやかしを器用に避けた。それでも、近所の人の姿が見えたときには、ちゃんと前を向いてそれらしく歩く。
おはようございます、と声を揃えると、近所のおかみさんは少しからかうように、明るく挨拶を返してくれた。彼女は、朔夜たちが『普通』でないとは、つゆほども思っていないだろう。
(仲が良すぎるとは思われているわよね)
今さらながら、なんだか恥ずかしくなってきて百瀬から距離を取ろうとした。すると、百瀬の手にぐっと力が入り、痛くはないけれど抗えない、絶妙な力で引き戻される。
「今さら恥ずかしがる必要がある?」
百瀬は、わざと朔夜の耳に唇を寄せ、朝に似つかわしくない、やや掠れたひそやかさでささやいた。
「必要かどうかじゃないの」
言葉がなくても、朔夜と百瀬のあいだには特別な絆があり、互いの感情を知る。夢を繋げて、眠っていても一緒に過ごすこともできる。
生まれる前から、ずっとそう。
人ならざる力を持ち、人のなかで生きている。それが自分たち。
「なんだか最近、意地悪じゃない?」
「僕が知らない朔夜のことを、もっと知りたいから」
百瀬からは意外な答えが返ってきた。朔夜が思わず目を丸くして百瀬を見上げると、朔夜を見下ろす百瀬は眩しげに、それでいて柔らかく目を細めた。
「いつでもそう。朔夜が僕に言ってくれたように、僕も朔夜のことは、誰よりわかっていたいよ。何もかもを知りたいと思う」
「隠しごとなんてないわ」
「そういうことじゃない」
百瀬は仕方がなさそうにふうと息をついて、空いているほうの手で指折り数えだす。
『庇護欲、独占欲、支配欲。そういうもの』
涼しい表情で、けれどとろりとした感情に乗せて朔夜に響かせてくる。そのくせ、朔夜が離れていくのを恐れるように、繋いだ手に力を込める。
朔夜の心境は触れているところから伝わったようで、彼はすぐに息をついた。
「僕のことを過保護だと言うけれど、朔夜だって過保護だよ」
「どうして」
「いま、僕に欲があることで、安心したでしょう。あるに決まってる」
「だって、好きな色も食べものも、いつも『朔夜が好きなら』って言うじゃない、百瀬」
朔夜が唇を尖らせると、百瀬は悪びれず言った。
「朔夜のこと以外、些事だから」
「百瀬のことは些事じゃないから」
すかさず言い返す。だが百瀬にはちっとも応えた様子がなく、美しいかんばせに、どこか妖しい微笑みをつくって朔夜を見下ろした。
「そうやって朔夜が僕を気にかけてくれるぶんで、ちょうどいいと思う」
「よくない」
「いいよ。僕を大事にしてね、朔夜」
耳をくすぐる百瀬の秘事めいた声音に、朔夜は頬に熱がのぼるのを感じ、きゅっと唇を引き結んだ。
主従関係をほのめかすくせに、百瀬は朔夜が彼の言うことを聞き入れると思っているし、譲る気も感じられない。
そんな百瀬に、朔夜は勝てる気がしない。
「大事にしているでしょう」
「僕は欲張りだから、もっと」
「わかったから、ちょっと離れて!」
学校が近くなってきて、いつもよりさらに近い百瀬の体を押しのける。百瀬はくすくす笑いながら、おとなしくいつもの距離に戻ってくれたのだった。




