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第三話 いにしえの契約とふたたびの罪⑨

 うしろをついてくる百瀬は何も言わず、夕暮れの空の下に、ふたりの足音だけが聞こえていた。聞こえるはずの雑多な物音が遠く、しばらく歩いてから、結界を解かないままでいたのを思い出した。


「僕の命も、君が使ってよ、朔夜」


 結界にほんの少し意識が逸れたとき、百瀬が朔夜の手を強く引いて、しかしその力とはうらはらに、落ち着いた静かな声で言った。

 朔夜は思わず足を止め、百瀬を振り返る。百瀬は月のない夜を思わせる沈む黒の瞳に、朔夜だけを映していた。夕陽は彼の輪郭のみを照らし、顔には影が落ちている。

 暗がりであっても――暗がりであるからなおさら、彼の瞳の底に、黒と混じり合わない紅の光が見て取れた。

 百瀬の手はいつもより冷たく、それがいっそう、人ならざるもののように思わせる。


「百瀬……」


 朔夜は返答に詰まって、ただ彼を見上げた。

 さっき、ほんとうは少しだって命令などしたくなかった。朔夜が百瀬に命令できてしまうこと、百瀬が朔夜に服従すること、それらがたとえ事実でも、ずっと目を逸らしてきたのだ。


「……どうしてそういうことを思うの」


 百瀬はひとつ瞬いて、ほんの少し眼差しを緩める。仕草ひとつで、朔夜が最終的には彼を受け容れると、疑っていないのが伝わる。

 それは間違いではなかった。行きつくところまで行ってしまえば、朔夜には彼を拒めない。

 きっと、百瀬に譲るつもりはないのだ。

 そこまでわかっていて、朔夜はどうにか首を振った。


「私の願いは、百瀬が幸せであることよ。百瀬が誰にも縛られず、百瀬のために生きられることよ。百瀬が、自分をそう思えることよ……」


 半歩踏み出して互いの距離を詰めた百瀬は、握っていた手を解かないまま反対の手を朔夜の頬にかけて上向かせた。彼にじっと見つめられて、身動きを封じられてはいないのに、目を逸らすことさえできない。


「僕は朔夜のものでありたい。朔夜が生まれてくるまでのほんの三年で、孤独を嫌というほど知ったよ」


 そこで息をついた百瀬は、すぐに言葉を継いだ。


「何にも縛られないことは、僕にとっては幸せじゃないよ。自分の居場所がないってことだから」

「……百瀬の、幸せってなに」

「……言わない。朔夜が僕に対して責任を感じていることも、そのせいで僕の幸せを義務としていることも、僕にはわかってる」

「違う……」

「僕がそこにつけ込んだら、朔夜には拒めないことも」

「違う!」


 心臓が強く跳ねる。百瀬の言葉を押し返すように、指先までかっと熱くなった。


「契約がないと私があなたのことを大切に想わないって、そう思っているから、そんなことを言うのよ」


 目を瞠った百瀬が何か言いたげに口をひらくのを見て、朔夜は思い切り彼を突き飛ばした。無理やりその腕の中から飛び出して息を吸う。


「ばか!」


 けれど、それきり何も言い返せなかった。言葉に詰まるところも、潤む目から涙がこぼれるところも見られたくなかった朔夜は、罵倒に百瀬が怯んだ一瞬の隙をついて駆け出した。

 細かく枝分かれし、曲がりくねった道を利用して早々に百瀬を撒き、子どもの癇癪のような自分のありさまに呆れながらも、やりきれない思いを荒い息とともに吐きだす。


 どれだけ逃げてもどうせ意味はない。家は隣同士で、鳩羽とは百瀬も懇意だし、友人たちを巻き込むわけにはいかず、こういうとき、朔夜がほかに行く場所もなかった。

 それでもでたらめに走り続けた。苦しくなった呼吸に気を取られて足がもつれ、転びかけてようやく足を止める。


「……帰りたくない」


 自分の影を見下ろしてつぶやき、ため息をついた。

 夏が近い夕暮れは長く、陽が沈んでもなおしばらくは明るい。そうはいっても、黄昏時というにふさわしい薄暗さである。遅くなれば、父や母が気を揉むに違いない。

 両親のことを思うと、とたんに頭が冷えた。朔夜を貴族や役割のしがらみから遠ざけ、ただの娘として扱う父や母は、朔夜にとって他愛ない日常の目印だ。

 いっときの興奮が過ぎ去り、心細さが襲ってくる中、朔夜は後ろを振り返った。

 誰もいない。百瀬の気配もなく、置き去りにしてしまった罪悪感がこみ上げる。


「百瀬を、ひとりにしないって決めたのに」


 彼に抱いたもどかしい苛立ちと困惑よりも、ひとり置いてきてしまったことがもの悲しくて、急いで来た道を戻ろうとした。


 そのときだ。

 近くの路地から子どもの悲鳴が聞こえた。切羽詰まったものというより、歓声混じりではあったが、妙な気配も感じてそっと路地を覗く。そこで、子どもが数人、地面に置いた何かを囲んではしゃいでいた。まだ小学校に通う年頃で、みな制服ではなく着物を着ている。


「何をしているの?」


 近所の子どもたちは、だいたいが顔見知りだ。朔夜が声をかけると、彼らはいっせいに顔を上げ、笑ったり気まずそうにしたりと思い思いの表情をみせた。


「朔夜おねえちゃん」


 手前にいた少女が少し恥ずかしそうにしながら立ち上がったとき、その足元を抜けて、四つ足の獣に似たあやかしが逃げていった。子どものひとりに取り憑いていたようだったが、それは狐か鼬かくらいの大きさで、妖気も強くはなく、さほど害はないだろう。子どもたちにも見えていない。

 あえて追うまでもないと捨て置き、朔夜は改めて子どもたちを眺めた。

 特に異変はない。心配することはなさそうである。


「何をしていたの?」

「占い。ゆい子ちゃんの好きな子のこと、教えてもらってたの。相手がゆい子ちゃんのことが好きかどうか」

「ちょっとぉ」


 ぺろっと白状した幼い女の子を、一番年かさの少女が小突く。彼女がゆい子で、朔夜を見て恥ずかしそうにした少女だ。


「大事なことは、あんまり占いに任せないほうがいいわよ」


 朔夜は、足元を逃げていったあやかしを思いながら軽い忠告をした。他愛ない遊びだろうが、半端でも占術の気配に引き寄せられたあやかしが、悪戯をしないとも限らない。


「でも、よく当たるって評判なのよ」


 ゆい子の次に年長の少女が、ませた口調で言う。朔夜は肩をすくめた。


「人の気持ちなんて、占いでどうこうできるものじゃないの。ましてや、想いを交わすなんてなおさら」


 子どもに言っても理解はできるまい。わかるようになるころには、占いでは救われない気持ちを抱えているのだろう。

 案の定、きょとんとする子どもたちを前に、朔夜はお姉さんらしい笑みを向けた。


「とにかく、みんな、そろそろ帰らないとだめよ」

「はあい」


 興が削がれたからか、子どもたちはすなおに応えて解散した。めいめいに家路を辿る彼らを見送り、それから、その場にひとり残った少年に視線を向ける。


「あーあ、つまらないの」

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