5-2 見えない心
お裁縫の練習を後日にしてもらい、空き教室で雛子の相談に乗るあいだに、一度だけ邪気を感じた。
雛子を逃した恨みだろうか。
帰り際には刺繍を施したハンカチをお守り代わりに渡し、晴れやかな顔で笑うようになった雛子と、校門まで一緒に歩く。
「そういえばおねえさまも、こっくりさんにご相談があったのでは? おねえさまが困っていらっしゃるなら、わたしが……お力に……」
もじもじと頬を赤くしてはセーラー服の裾を引っ張ったりしている雛子のいじらしさに、どうしたって胸がきゅんとした。
「ありがとう。でも私は、あのおまじないが気になっただけなの。だから大丈夫」
「よかった……。あ、神森さん……と、君枝ちゃん?」
ほっとして前を向いた雛子が、不思議そうに百瀬と君枝の名をつぶやいた。つられて校門を見た朔夜もふたりを見つけ、きょとんと瞬く。
百瀬は朔夜の過保護な許嫁として女学校でも知られているが、やはり見知らぬ男性だからか、かかわろうとする子はほとんどいない。
百瀬も、朔夜以外にはもの静かな性格で気配をあまり感じさせず、せいぜいがすれ違いざま挨拶を交わす程度だ。
「君枝ちゃん、用事があったはずじゃ……。何かあったのでしょうか?」
雛子がそう疑問を口にするほど珍しい光景だった。
君枝は楽しそうに頬を染めて背の高い百瀬を見上げており、何か問題があって話しかけたようには見えない。百瀬はよそ行きの薄い笑みをうかべ、年長者らしく落ち着いた様子で応えている。
霊力伝いに遅くなることは連絡してあったから、百瀬から朔夜のことを尋ねたわけでもないだろう。
「待たせてごめんね、百瀬」
「朔夜、おかえり」
振り向いた百瀬の笑みがふわりとほころぶ。百瀬に微笑みでうなずき返したあと、君枝に視線を移すと、彼女は先ほどまでと違い、硬い顔をして唇を結んでいた。
「君枝ちゃん、どうしたの?」
雛子が、無邪気ゆえの無遠慮さで君枝に尋ね、君枝はふいと顔をそむけた。横顔から見える頬が赤い。
朔夜が視線で百瀬に問うと、彼はぱちぱちと目を瞬かせ、よくわかっていないようである。
朔夜がふたたび君枝を見やると、ぱちりと目が合い、かと思えばさっと逸らされてしまった。
「……ふたりとも、遅くならないうちに帰るのよ」
ほかにかける言葉もなく、それだけ言って百瀬の腕をつつき、並んで歩き出す。
最後にちらりと振り返ったとき、笑って手を振ってくれる雛子の隣で、君枝は黙ってお辞儀をした。
*❀*
「君枝ちゃんと、何の話をしていたの?」
市電を降り、ひと気の少ない住宅街に入ったところで、朔夜は百瀬と並んで歩きながら尋ねた。
百瀬は「君枝ちゃんって言うんだ、あの子」とのんびり言ったのち、曖昧に首をかしげる。
「何、というほどは……。天気の話かな、そろそろ本格的に暑くなりますねって、僕がこんな格好だから、暑そうに見えたのかも」
百瀬は軽く腕を広げて、自分の服装を示す。黒い詰め襟に黒い外套と、相変わらずだ。
「確かに、そろそろ暑くないの?」
朔夜のセーラー服もまだ長袖だが、梅雨を前に、もうまもなく合服期間に入る。朔夜が襟もとをつまんで引っ張っていると、百瀬がその手を取って離させた。
「はしたないことをしないの」
「どこが見えるわけでもないわよ」
唇を尖らせる朔夜から、百瀬が微妙に視線を外した。そういえば、と、もう一度自分の胸元に目を落とす。
背が高く、すぐ隣にいる百瀬だと、隙間から肌が見えてしまうのかもしれない。
「…………」
さすがに恥じらいをおぼえ、無言で襟を整えた。
「朔夜は、あの子の悩みごとは解決したの?」
「したと思う。たぶん」
「たぶん?」
首をかしげる百瀬に、朔夜は雛子から取り上げたまま持ってきていた紙切れを見せた。
鳥居と五十音表を目にした百瀬が目を眇め、視線で説明を求めてくる。
「あの子が持っていたの」
「街で流行っているものと同じだね。そんなに悪いものを喚び出す力はないはずだけど」
あまりよいものではないとはいえ、簡易で他愛ないおまじないだ。
もしこれで喚び出しているモノが、朔夜がたびたび祓っている怪異なのだとしても、このまじないだけであんなに邪気をまとうとは考えにくい。
「誰も出所を知らないおまじないなの。学校で流行るあれこれってそういうものだけれど……これは、誰かが故意に持ち込んだのだと思う」
朔夜は感じる違和感を慎重に口にした。
「きっと、何か細工がされてる」
「誰か、に心当たりがある?」
「……村主新に、妹がいるの。うちの学校の生徒だそうよ」
問題のその妹と、朔夜はまだ会っていない。学校に村主の名をもつ娘はおらず、妾腹か、事情のある子だろうと推測している。
朔夜があまり知らない子なら、おそらくは本科からの編入組だ。
「……そう」
簡潔にうなずき、百瀬は目を伏せて何か考え込んでいる。その横顔を見上げて、君枝はなぜ百瀬に恋をしたのだろう、と思う。
ほとんど話したこともないはずだ。それとも毎日校門のところで待っている百瀬には、朔夜の知らないうちに、女学生たちと言葉を交わすことかあるのだろうか。
(そんなの、言ってたことないけれど)
どこか落ち着かない。朔夜は小さく息をついた。
これは嫉妬だ。
ほかの子を気にかけないでほしい。秘密にしないで。
あなたは私の……。
(……だめね)
意識して深く呼吸をし、気持ちを鎮める。
「朔夜?」
「……なんでもない」
嫉妬なんて知られたら、百瀬は絶対に気にかける。そして、朔夜の意に添おうとするのだろう。
たとえ本心ではなくとも。
百瀬の真意を、もうずっと、知らずにいたように思ってしまう。
「朔夜、ひとりで危ないことはしないで」
「そういうことを、考えていたのではないわ……」
百瀬は朔夜をじっと見下ろしていたが、ふと、するりと朔夜の手を取り、指を絡めてきた。
嫉妬を悟られたのではないかとどきりとしたのに、百瀬は薄く楽しそうな笑みをうかべて、朔夜の指を指さきで擦ったりなどして遊んでいる。
「子どものころは、いつもこうして手を繋いでいたね」
「今でも、いつだって繋いでいるじゃない」
百瀬がやけに感慨深げに言うから、朔夜は肩をすくめて言い返した。
彼は少し沈黙したのち、風が吹けば紛れそうな小声でつぶやいた。さいわい、ちょうど凪の時間で、辺りにひと気もなく、朔夜は彼の言葉をはっきりと聞き取った。
「……目を離したら、朔夜はすぐ迷子になりそうだから」
繋いだ百瀬の手は朔夜よりも熱く、彼の存在を知らしめる。
「私、もう、小さな子どもじゃないんだから……」
妙に気恥ずかしくなってしまい、朔夜はわざとらしくふいと目をそらし、歩みを速めて靴音を鳴らした。繋いだ手がつかの間ほどけそうになって、百瀬が慌てたように追いかけてくる。
「今日のお夕飯はハンバーグよ」
「あれ? 昨日もそうじゃなかったっけ」
「お母さまがソースの研究を始めてしまったの」
元貴族の朔夜の家には、今でも住み込みの使用人がいる。しかし、同じく貴族出身の母は、花嫁修業の一環としてお嬢さま向けの料理教室に通った結果、料理の楽しさに目覚めたらしい。
嫁いだ当初から料理人と意気投合し、台所を縄張りにしているのであった。
そして、凝り始めると止まらない。
百瀬もそれは知っているから、「今度はソースなんだ」と笑った。前回はカレーだった。
「食べたいものがあれば私が作るわ」
「ハンバーグ好きだよ。でも、そうだな。ほんのり甘い蒸しパンが食べたいかも」
「にんじんを入れましょうね」
百瀬はちょっと苦い顔をしたが、すぐに微笑んだ。にんじんの蒸しパンを作るのは初めてではない。百瀬も味をわかっていながら、にんじんと聞くと、とりあえず苦い顔をしてみせるのだった。
「ふふ」
「朔夜、僕ににんじんを食べさせることができて、ごきげんだね」
「百瀬が子どもみたいに拗ねてみせるのがおかしいの」
「…………」
百瀬は弁解したそうな顔を朔夜に向けたものの、結局、黙っていることにしたらしい。
朔夜だって、百瀬のそれが戯れであると理解している。
(いつも……いつまでもこんなふうに……ただ普通に)
どうかこの世界が、優しくありますように。
幼いころ、自分たちが親や友人たちとは違う存在なのだと知ったとき、朔夜は未来を恐れてそう願ったのだ。
「朔夜」
百瀬が柔らかに目を細めて微笑む。
このままでいられなくなる未来が怖い。
だから表面を取り繕って、『普通』を装ってきた。
けれど百瀬の瞳の奥にちらつく紅い光を、その美しさを、否定したいわけではない。
「さっき、君枝さんと話をしたとき、彼女、朔夜をとても褒めていたよ。みんな朔夜のことが好きで、憧れているんだって」
「君枝ちゃんが?」
「どうして意外そうなの?」
「意外っていうか……。女の子の事情よ。気にしないで」
君枝の恋心など思いもしない百瀬が、ひとつ瞬きを挟んで、改めて朔夜に微笑みかけた。
「お勉強もお裁縫もお料理も運動も、何でもできて優しくて可愛い、とてもすてきなひとだね、僕の朔夜」
百瀬の言葉を聞いた朔夜は、ふらりと足を止めて立ち尽くした。絡んでいた指がほどけてしまう。
「朔夜?」
数歩先で百瀬が不思議そうに振り返る。
そんなふうに、百瀬に褒められる道理はない。
大きなあやまちを犯して、それを埋め合わせるだけのものもない朔夜に、百瀬が、どうしてそんなことを言えるのだろう。
あの『約束』を交わすとき、すべてを知っていたなら、百瀬はどうして朔夜を止めなかったのだろう。
「……百瀬、あなたは……」
百瀬は戸惑いと心配がないまぜになった顔で数歩を戻り、ふたたび朔夜の手を取る。
細く骨ばっているが、大きくて温かい百瀬の手。朔夜がそっと握り返して見上げると、百瀬はほっとしたように頬を緩めた。
「どうしたの?」
百瀬とは、誰よりわかりあえると思っていたのに。
今は、その美しい微笑みに何が隠されているのかと疑ってしまう。
「……ちょっと、裾が乱れただけ」
百瀬への感情を、うまく言葉にできない。
風が吹いてさらわれた亜麻色の髪が、頬にこぼれかかってくる。それを百瀬が掻き撫でて、目もとをすこし紅く染めて笑った。
「どうして笑うの。頭がへん?」
「ちがうよ」
繋いだ手から、百瀬の感情が伝わってくる。温かくて、やけに嬉しそうだ。
心を閉じてはいなかったから、朔夜の疑念も伝わってしまっているだろう。
それなのに、見上げた百瀬はただ穏やかに微笑んでいた。




