第三話 いにしえの契約とふたたびの罪⑦
「またあなたなの」
百瀬の視線を追うまでもなく、その気配を感じ取って朔夜もうんざりと言う。遅れて首を回し、村主新の姿をみとめて目を眇めた。
「何か、ご用?」
ひんやりと地に溜まる冷気のような声が、朔夜からこぼれる。
「三顧の礼という言葉もあるからな」
村主新は、いかにも慇懃無礼な笑顔を貼り付けていた。道の真ん中に立ちふさがり、いかにひと気がないといえ、目障りで、不審で、迷惑このうえない男である。
通りがかりの人にこんなところを見られたくなくて、朔夜は周囲に目くらましの結界を張った。
「字面だけ知っていても、意味がないのよ」
品の良さを損なわない範囲で嘲笑をうかべてみせる。朔夜の反応は想定していたらしく、新は眉ひとつ動かさないまま、無礼な笑顔を崩さない。
「君にも利のある話だ」
「私にあなたは必要ないと言ったはず」
「それがお前の答えで、本当にいいんだな?」
「他にない」
冷たく言い、前にいる百瀬の手を握り、きびすを返して歩き出そうとした。
だが次の瞬間、百瀬が突如として朔夜の手を引き、強引に抱きかかえて飛び退った。百瀬の手が、朔夜の横腹に痛いほど食い込む。
朔夜がはっとして新を振り向く途中、すぐ目の前、たった今踏み出そうとしていた場所に、何の前触れもなく激しい雷が落ちた。
「……っ」
とっさに百瀬の胸に顔を伏せて、目を灼く雷光をやり過ごす。
それでも瞼の裏がちかちかと白く明滅するようで、朔夜が瞬きを繰り返して視界を取り戻そうとするあいだに、百瀬がゆらりと頭を上げた。
彼は焦げた地面を一瞥し、静かに視線をすべらせて新を振り返る。
「百瀬」
目が眩んだままの朔夜には、その百瀬の動きはおぼろげにしか見えていなかった。だから、彼を守らねばと真っ先に思ったのだ。
雷は朔夜に襲いかかったように見せかけて、新が本当に狙ったのは百瀬だ。朔夜に何かあれば、彼が庇うだろうことはわかりきっている。
常の百瀬なら、それをわからないはずはない。
けれど、何とかまともにものが見えるようになった朔夜は、百瀬の目が真紅に染まっていることに気がついた。朔夜の呼びかけにも応えず、沈黙している。
それは、嵐の前の静けさだった。
「おれも、必要であるなら争うことを厭わない」
張り詰めた空気をほくそ笑むかのように、新が先の百瀬の言葉を弄んだ。
「何が必要だと言うのよ、百瀬は化物なんかじゃないのに!」
「お前がそう言ったところで、事実は変わらない」
朔夜は体の芯が震えそうなほど怒りを感じているというのに、新は気にも留めない様子でいなすように肩をすくめる。そして思わせぶりに目を細め、朔夜に手を伸ばした。
「無駄な争いを避けたいというなら、おれの手を取ればいい」
「私がそうすると思う?」
「拒んで、傷つくことになるのは誰だろうな?」
新のまわりで霊力がざわつく。ところが新がそうして力を顕わにしたことで、朔夜には彼の霊力の質がさほど高くないのを感じ取った。
人が神と交わって力を得たのは遥か遠い過去のこと、今に至ってはわずかな名残でしかない。
新も例に漏れず、薄まる血に抗えない人間にすぎないようだった。
「お前はおれの敵になるのか?」
「敵でもないし味方でもない」
そう答えたのに、新の霊力が敵意を帯びる。朔夜たちを攻撃の対象とさだめて、間合いをはかっていた。
「帝都もこの世も、今となっては人が生きる場所だ。化物どもに脅かされるなど、あってはならない。そうは思わないのか」
「百瀬も、私の知り合いも、化物と呼ばれるいわれはないし、人を脅かしもしない」
「手綱を握るお前がそんなありさまでは――」
新が宙に右手を振りかざす。
それに朔夜が身構えるより、百瀬の動きのほうが早かった。
「…………」
百瀬は何かを低くつぶやいたようだったけれど、うまく聞き取れない。
そして聞き返す間もなく、奔流のような霊力が百瀬から放たれて新を呑み込もうとした。
「百瀬!」
それは百瀬のもつ、純粋な力そのものだった。新はかろうじて結界を張ってしのいだようだが、彼程度の力では、百瀬に押し負けるのも時間の問題だろう。
普通に幸せになりたいと願わねばならないほど、人として生きてゆくことを難しくするほどの力。
いつも、百瀬はそれを言葉で操る。
百瀬が強力な言霊遣いであるのは、強すぎる力すら御する強靭な理性の持ち主だからだ。
その彼が今は我を忘れていた。
「怒ってる……」
百瀬の激情を感じて、朔夜は呆然とつぶやいた。
いつももの静かで穏やかで、それがもどかしかった。表に出さない気持ちがあることはわかっていたが、それがこんなに激しく噴き出すとは想像していなかった。
「化物めが」
「違う」
低い侮蔑の声で朔夜ははっと我に返り、言い返しながら状況を見直した。幸いにも目くらましの結界は壊れておらず、百瀬の荒れ狂う力はまだ結界の内側に留まっていて、周囲への影響はない。
百瀬の力では、朔夜の作った結界を壊せないのだ。
「自分が敵わないからって、化物扱いして蔑むのは卑劣だわ」
「こんな状況で、まだ言うのか」
「こんな状況を招いたのは自分でしょう。百瀬は」
そこで、喉がひくついて声が途切れた。百瀬の力は尽きず、結界の中をいっそう濃く満たしてゆく。
「……百瀬は、あなたがいなければこんなふうにならなかった。この世にあってはならないのは、百瀬じゃない」
新が顔を歪めたのは、朔夜に罵られたからばかりではなかったろう。百瀬の力は朔夜を決して傷つけないが、新は違う。抵抗する新の霊力が尽き、防壁の結界が消えたら、彼は千々に引き裂かれてしまう。すでに、結界の綻びをすり抜けた百瀬の力が、新の肌を浅く嬲っている。
新の力は朔夜が思っていたよりも弱く、反撃の気配がない。防壁に手いっぱいで、それ以上の抵抗のすべを持たないようだった。
「……百瀬」
朔夜は新から視線を逸らして、百瀬を見上げた。瞳の真紅が不気味に煌めいても、その眼差しはうつろだ。うつろなままじっと新を追っている。呼びかけてみたが、朔夜を気にかける様子はない。
「百瀬」
少し強く名を呼ぶ。いつもなら絶対に振り返ってくれるのに、今の百瀬には朔夜の声が届いていない。
朔夜は大きく息を吸って、体の横で手のひらを握り込んだ。爪が食い込んで痛みを感じるほど、そうして次には花が開くようにゆっくりと指をほどいてゆき、長く息を吐く。
一度伏せた視線を上げ、振り向かない百瀬の横顔を見つめた。




