エピローグ『小さな英雄』
※終わりにあとがきが含まれます。ご興味のない方は改行が続いた段階でお読み飛ばしください。
(あれ……僕……)
暗い深層にあれば、その背から立ち昇る泡沫を緩慢と追うように。あるいは、遠く煌めく水面にたゆたう、波光の揺らめきへその手を焦がすように。
「うっ……」
澱のように沈んでいたブランクの意識を、浅いまどろみまでたぐり寄せて、そのまま掬い上げたのは小鳥たちのさえずりだった。仲睦まじく語り合う二羽の鳥たちは、赤枯れ色の髪をした少年が目覚めるまでを見届けると、満足したかのように飛び立っていく。その温かい羽音を聞いて。ブランクののぼせた頭は、芯に脈打つ痛みにようやく気がついた。
(痛った……どこだろ、ここ)
ブランクの視界に最初に飛び込んだのは、張り合わされた木の板と、それらを支える梁である。窓の外には枝打ちのされていない針葉樹が立ち並んでおり、どちらかと言えば広葉樹が見えることの多かったブランクたちの家でないことは、確かであった。
(夢──とかじゃないよね?)
頭の中に虫の巣食ったような痛みがチクチクと続き、ブランクは、これが夢でないと知る。昨日はどうしたっけ。確かジャンに何か頼み事をされて、それで──と、記憶を辿るうちに、ブランクは、自分の右手に、頼りなく震える、何かを握っていることに気がついた。
(ん……? 何か、あったかい?)
ちらっと視線を見遣れば、そこにはもこもことした白色の毛玉があった。いや、厳密にはそのような、長い髪である。それは自分が枕していたベッドにうつ伏せて、規則正しい寝息を立てている。
「あ……メル?」
そうして初めて、自分が握っているのが幼気な少女の小さな手のひらであり、昨日大きな死闘を繰り広げたのだということを、ブランクはようやく思い出した。そうすると、途端に頭の中のもやが晴れていくようで、脳幹にされた蓋の開く音が、どこからともなく聞こえてくるような気がした。
「あ……う……にーちゃ……?」
「あ、ごめん、メル。起こしちゃった?」
ブランクが、寝ぼけまなこをこする少女に気を遣うとその少女──メルは、がばっと飛び起きて、それから数回自分の髪を握り、顔を真っ赤にしてそのまま部屋の外へと出ていった。
「あー……そういえばメルって──」
人見知りだっけ。そう続けそうになって、それからその足音がドタドタと──慌ただしく戻ってくると、ブランクはいよいよ異変を察知した。
(なんか──ヤバい気がする!)
えもいわれぬ命の危機を虫が知らせた時、果たしてその扉は開かれた。
「にーちゃあッ!」
赤枯れ色の髪した少年の腹部に、もこもこの白い弾丸が突き刺さる。羊髪の少女の、全身全霊を懸けた突進全ての衝撃を、甘んじて受け止めて。体をくの字に曲げながらブランクは「あ、死ぬ」と思った。
魂を吹きこぼすような衝撃をその身に受けながら、ブランクは、続いて部屋に立ち入った人物に眉を持ち上げ、その目の色を、鋭く変えた。
「やっと目を覚ましたのか、ブー坊」
「……ダザン」
意外な人物──ダザンがのっそりと部屋に現れると、ブランクの声がこわばる。無遠慮に寝室に立ち入ったその大男は、近くの椅子を手前に引っ張り込むとそのまま椅子へ腰掛けて、小さな悲鳴のようにその四本足に弱音を吐かせた。
「無茶をするやつだ。ワシはジャンにやれ、と言ったつもりだったんだがな」
「ふんっ。誰がやったって、結果は一緒でしょ」
ブランクの記憶が確かなら、最後にトドメを刺したのはおそらくジャンである。それでも素直にそう言えないのは、きっとダザンに対する当てつけだろう、と、ブランクは思った。
それを知ってか知らずか、ダザンは「まあいいさ」とバッサリ切り捨てて、それから熊のように大きな手を、ブランクへ向かって差し伸べた。
「お前のおかげで村の者が助かった。礼を言う」
その手をそのまま握り返すのはなんだかずるいような気がして。ブランクは、後ろめたさに毒気を抜かれて、背中を丸めた。
「僕なんて──何も、してないよ」
ポツリとそう呟く。結局、ジャンやウィルの助けがなければ、何もできなかった。自分がしたことといえば、結果だけで見れば時間稼ぎだけだ。
色んな魔術を使った。組み合わせて、不出来ながらも、無詠唱魔術にも挑戦して。それで自分ができたことと言えば、時間を稼いで、それから左腕を折ることだけ。それがウィルは魔術一つで右腕を削り取って、ジャンはあれほど苦戦したゴゲラをただの一撃で絶命させた。
あの時自分にできたことなんて、たかが知れている。きっと石を投げつけたり、方法こそ違えど、誰にだってできたことなのだ。そんな後ろ向きな気持ちに引っ張られて俯いていると、ダザンは「ふむ」と一つ唸りを入れた。
「ワシはそうは思わんがな」
意外なところから、ブランクを救う一言が放られた。それをただの気休めだろうと思っていると、ダザンは続けた。
「お前の手元には今、何がある?」
「え? ……あっ」
ダザンにそう言われて下を向くと、ブランクの手は、もこもこした髪を撫でていた。さらにその下から瑠璃色が覗き込み、潤みを帯びた瞳が、ブランクの琥珀色のそれと、しっかり交わった。
「にーちゃ──ありあと!」
(あっ──)
そう言われると、ブランクの瞼の裏から、さあっと熱を帯びた何かが瞳を覆った。それらは役割を終えると、頬を伝いながらポタポタと衾を叩いて流れ落ちていく。
「あれ…………なんで、これ──」
止めようとしても、その止め方が分からない。とめどなく溢れてくる熱に視界を奪われて、ブランクは、とうとう声が震えた。
「にーちゃ?」
いたいの? と尋ねる声は、心配そうだ。けれどぼやけた視界では、その顔色を窺い知ることも叶わない。
「ありがとう、メル。なんでも、ないんだ。なんでも──」
誰かの役に立てた。それだけで、ブランクにとっては、この上ない喜びがあった。
ずっとウィルやジャンの陰にいた。いつも感謝されるのはあの二人で、自分はその活躍に花を添えるようなお手伝いばかりで。きっと何者にもなれない自分に気づいてからは嫌気が差して、いつしか外にも出なくなって。それでも世間では、月と太陽が昇る。
流れる歳月に取り残されないように、諦められないものがあったから、しがみつくように、同居人の眠ることを確認してから、ひたすら剣を振っていた。いつの日か、名を馳せる英雄になれることだけを、ひたすら信じて。
悪あがきにも似たその努力は、自分を裏切らなかったらしい。
「どうだ、誰かに礼を言われるのは。悪い気はしないだろう?」
ここに来てブランクは、ダザンがこの村に留まる理由が初めて分かった。もしもこの村にダザンがいなければ、途端にこの村は立ち行かなくなるだろう。製錬や製鉄は高度な技術者がいなければ成り立たないし、きっとこんな辺鄙な村では、満足な支払いなど夢のまた夢だ。けれど、それを圧しても届く温かな声は、きっとダザンの心を満たしてくれているはずだ。
「メル、ありがとう……」
「にーちゃ? えへへ、あったかいね」
ブランクが思わず抱きしめたメルは、戸惑いに少し体がこわばった。それから優しく抱き返してくれたのは、きっとメルなりの優しさだろう。
「メルも、あったかいね」
「ふへ、えへへ」
笑い合う二人の姿を見守っていたダザンは、そっと席を立った。それから扉の外に立つ者に、入らないのか? と声をかける。
「いや、野暮だろ」
「ううう……メルぅ〜」
一様に反応するのはジャンとウィル。ウィルは心底悔しそうに泣いていて、まるで失恋でもしたようだ。
「女々しいやつだな、お前も。カッコつけようとして長い詠唱のいる魔術使おうとしてたんだって? そのバカでブランクが死にそうだったんだぞ。ぜってー入らせねえからな」
「だって、だってぇ〜……」
「だってじゃねー。オンナにカッコつけるのは、お前にはまだ早いな」
「うぅ……」
食い下がるウィルを引きずりながら、そうだ、とジャンは去り際に言う。
「ジジイ。治療と部屋と、貸してくれてありがとな」
「礼ならいらん。代金はたんまりいただいたからな」
先日ブランクが持っていた硬貨袋をそのまま手にするダザンは、その底面をポンっと満足げに叩いた。それを惜しむように見ていたが、やがてジャンは諦観の一息をついた。
「ま、オレもいいもん見れたし、安い買い物か」
ドアの向こうで楽しそうに話し合う二人の姿を見て、ジャンはそう言った。
「魔法剣──良かったのか?」
ダザンにそう尋ねられると、ジャンはあー、と後ろ頭を掻いた。
「元々アイツのために買おうとしてたもんだがよ──」
ちらと赤枯れ色の髪を一瞥すると、ジャンは、もう必要ねー、と白歯を見せて笑った。
「英雄なんてもんは、特別な何かがなくてもなれちまうもんなんだよ」
そうしてニヤリとしたり顔で笑ったジャンは、手で盃を煽る仕草をする。
「今日のところは『小さな英雄』に祝盃でもあげるとするさ」
去り行く青年の姿を端目に、大男は、赤枯れ色をした髪の少年と、羊髪の少女とを見遣る。そして、それも悪くない、と小さく呟いて。
小さな英雄の門出を祝ったダザンは、フッと笑みをこぼしてその場を立ち去ったのだった。
※以下は『あとがき』となります。読み飛ばしていただいて構いません。
読者の皆様、ご愛読ありがとうございます。作者の水落護です。この度は当作品をお目通しいただき、誠にありがとうございます。重ねてお礼を申し上げます。
今回この章を執筆するにあたって決めたテーマは『勇気の出し方』でした。
主人公であるブランク・ヴァインスターは、物語の主人公に憧れを持っていますが、自分はそうはなれないだろう、と思っていました。しかし、いざ目の前にその資質を持つ人がいると、どうしても諦めずにはいられません。殻を破るには最初の勇気が必要でした。そしてそれを持てるかどうかが、『英雄になる条件』だったのです。
どれだけおっかなびっくりに最初の一歩を思い留まろうとその一歩さえ踏み出してしまえば、あとは流れに身を任せるしかない。つまり──『成るように成る』のです。
それは人の助けであったり、嬉しい誤算であったり、努力の積み重ねであったり。様々な要因が複雑に折り重なる偶然によって、未来は約束された必然へと向かっていきます。
私も趣味で執筆していたのでこの作品を投稿するかどうかを永らく悩んでおりましたが、投稿初日からブックマーク・評価・果てはランキング入りを果たしたりと、皆様方の応援を受けて楽しく執筆作業を進めさせていただいております。
最初の一歩にはいつも勇気が必要とされますが、実際動き出してみれば、存外なんとかなることの方が世の中には多いです。何かやってみたいことがあるのなら、積極的に挑戦をしてみても面白いかもしれません。
さて、今回で第一章『小さな英雄』は幕を引き、次章からは第二章『瑠璃色の記憶』が始まります。ゆるやかに進んで参ります当作品ですが、引き続き、読者の皆様方に楽しんでいただければと思います。
長々と失礼致しました。ここまでお目通し下さった読者の皆様には本当に感謝の限りです。ありがとうございます。
今後とも【The Alter Story】応援のほど、よろしくお願い致します。