第九十九話『ノワール領の裏表』
時は昼頃。最初にネロ、次にアルフレッド、後を追うようにエレノアが噴水前に到着したところだ。鐘はちょうど三度目が鳴ったところで、エレノアは頬の汗をハンカチで拭った。
「ごめんなさい、待たせてしまったかしら?」
「いや?」「僕もいま着いたところだよ」
「そう、よかった。……リーリエは?」
二人に尋ねると、首が横へ振られる。エレノアはまたかと思った。時間にルーズなところなんか、いかにもリーリエらしい。苦笑を浮かべた一同の思いは、一つのところに纏まった。
「もうすぐお昼時ですし、どこかで軽食でも取りながら成果を語らいましょう」
「僕もお腹ペコペコだから助かるよ」
ネロの反応がなかったので、エレノアは彼が少食でお腹が空かないのかと思った。だが、しっかりとお腹を抑えて腹の虫のご機嫌取りをしているのだから、意外とかわいいところもあるものだ、とエレノアはすこし笑った。
「そうね。あそこのコーヒーハウスなんかどうかしら?」
「えっ。コーヒーハウスでいいのかい?」
ギョッとしたアルフレッドに、エレノアは「あら」と声を低くした。
「不服?」
「いや。僕やネロは結構足を運ぶから慣れてるけど、女の子だと煙の臭いが気になるんじゃないかい?」
アルフレッドがどこか遠慮がちにそう言うと、エレノアは口を尖らせた。
「これからのご時世、男だとか女だとか関係ないわ。今をときめく皇帝陛下も、部族統一を成し遂げた手腕をお持ちだけれど、歴とした女性よ。東方より取り寄せた紅茶を女性向けに流行らせた背景はあれど、しっかりコーヒーハウスでの会談もしていると窺っているわ」
圧倒するほどの理詰めで説得されて、アルフレッドは参ったなと後ろ頭を掻く。
「そう言われると僕も変なこと言った気がするな。ごめんよ」
「分かってくれたらそれでいいのよ」エレノアはツンとそっぽを向いた。アルフレッド相手にこんなことを言うつもりはなかったのだが、最近は父から女性らしさを求められることが多いせいか、居ても立ってもいられなかったのだ。しかし言葉にしてからエレノアを襲ったのは後悔だ。こんなのは八つ当たりで、アルフレッドとの間に、重たい沈黙が見えない壁となって隔たりを構えた。仕方なしにコーヒーハウスへ向かおうとすると、エレノアの先行くネロが突然振り返り、眉間にシワを寄せた。
「どうしたの、ネロ?」
ネロの視線を辿れどその先には雑踏しかない。よもやリーリエでも居たのかと思っていたエレノアからすればとんだ肩透かしであるが、ネロの唇は重々しく開かれた。
「……魔術反応だ」
ネロはウサギの耳を跳ねさせながら、時間を置いて返す。ネロは一言、二言呟けばその足元から小さな魔法陣のようなものを光らせ、その中から白いネズミを生み出した。召喚術だ。
「いけ」
そうして主人から号令を受けると、ネズミは瞬く間に人混みを掻き分け消え去った。すぐさま追跡するネロを追いかけて、二人も慌てて後を追いかけた。
「ちょっとネロ、まだリーリエが──」「魔術反応はリーリエのものだ!」「──えっ?」
珍しく声を荒げるネロに、エレノアの心臓は早鐘を打つ。魔術を使う際、人は魔術反応と呼ばれる特殊な周波数を発生させる。それは人によって千差万別であり、例えどんな魔術であろうとも発生する。もちろんあらかじめ追跡魔術をしかけておかなければ分からないほど微弱なものではあるが、エレノアたちはツェールドマルク邸にいる時から既に打ち合わせでそれを行っていたのだ。
エレノアは大げさだと高を括っていた。それがどれだけ愚かな慢心であったかを、痛烈に思い知らされた。エレノアは一刻も早く、疾く速くと運ぶ足捌きは、もはや気が気ではない。唇を結び直すとその速力を上げて、一気にネロと並んだ。
「もっと急いで!」
「……分かった」
エレノアに急かされ、ネロはさらに速力を上げた。二人がついて来れるように気を遣っていたらしく、なんとか食らいつくエレノアの後を、青ざめたアルフレッドが追いかける。
「──この辺りのはずだ」
辿り着いたのは倉庫の立ち並ぶヴェレニオン商会の所有する土地だ。所々にその家紋たる蛇を貫く剣をモチーフとした紋章が描かれてある。
「リーリエ……リーリエ、どこ……?」
フラフラと飛び出そうとしたエレノアの腕を、ネロが引っ張って建物の隙間へと戻した。突然捜索の邪魔をされて、エレノアは離してよと声を荒立てた。しかし、
「ここで敵に見つかれば、ツェールドマルクを助けられるやつはいなくなる」
そんな言葉が突きつけられた。それどころか、俺達の身も危うくなるなどと続けられれば、エレノアも返す言葉がなくなってしまう。エレノアは俯いた。
「……見張りが来るようだ、隠れるぞ」
そう言って三人で隠れられそうな物陰を見つけたネロは、二人を誘導して鳴りをひそめる。冷静に状況を判断するネロがいなければ、早々にアルフレッド共々見つかっていただろう。そうは分かっていても、この状況で他人事のように淡々と物事を進めるネロに、エレノアはやはり苛立ちを覚えずにはいられなかった。それでもネロの言う通り見つかればリーリエを救う手立てなどなくなってしまう。
(……いえ、そもそもリーリエの魔術反応がしたと言うのもネロが言っているだけで勘違いかもしれないわ。元々確証のないことですもの。広場に戻ったら「なにしてるの?」なんてあっけからんと現れたりして。もしリーリエに何もなければ、どうしてあげましょうか)
近付いてくる無警戒な足音に、エレノアの怒りが頂点に達しようとした時だった。
「そういえばさっきの子──ツェールドマルク家のご令嬢らしいな」
そんな言葉が聞こえてきた。見張りの話にエレノアの瞳孔はかっ開き、側頭が突然重たくなってふらついた。聞き間違いと思った。しかし、会話はそこで終わらない。
「なんか喚いてたよなー。でもノワール領に連れて行かれたってことは、あの子も奴隷行きってことだよな?」
「見境ねえよなあ。でも貴族のご令嬢なんて足がつきそうだし殺す可能性もあるけどなあ。報復とかも怖いって聞くし」
殺す。その言葉が聞こえた途端、エレノアは脳みそを直接ハンマーで打たれたかのような衝撃で、立つことができなくなった。
殺す。死ぬ。リーリエが。自分の発案で。アルフレッドの問題。ヴェレニオン家の闇が。ネロ。アルフレッド。リーリエ──。お母様、お父様……!
「エレノア……大丈夫かい?」
「アルフレッド……?」
脳内を渦巻く思考に押されてポロポロと涙が溢れていたことに、エレノアはアルフレッドから渡されたハンカチで気がついた。ペタンと座り込んで地面に預けていた手で、エレノアはハンカチを受け取った。
「……ありがと」グスっと鼻を鳴らしたエレノアは、ハンカチで目元を拭うと、掠れた声で礼を述べる。するとアルフレッドは「問題ないさ」と笑いかけ、見張りたちの後を追うネロに続いた。一人だったらどうにもできなかっただろう。エレノアは二人の存在に心から感謝した。
「しっかし貴族のご令嬢を奴隷かあ。もしもだけどよ、考えただけで夢のある話だよなあ。かなりそそるぜ」
「バーカ。どっちにしたって俺たちみてーな貧乏人じゃ、逆立ちしたって縁がねーよ」
「けっ、んな夢も希望もないこと言うなよなー!」
ゾッとする。自分の親友を新しく発売したオモチャのように語る男たち。腹の底から湧き上がる嫌悪感。男とは斯くいう生き物なのだろうか。そんな軽蔑に研がれた眼光が、ネロとアルフレッドへ差し向けられる。だが二人の表情も穏やかでない。ましてや、アルフレッドなど怒りと悔しさで唇を噛み締めている。エレノアはほっと胸を撫でおろした。
「おっ、もうすぐ交代の時間じゃねえか。宿舎に戻ろうぜ」
「んぁー、そうだなー」
踵を返した二人に、三人は慌てて木箱の陰に隠れた。去りゆく二人の足音は規則的な歩幅が等間隔に響き、平常心しか見えない。まさか尾行されていたなどとは夢にも思っていないようだった。
「行っちゃったわね……」
「これ以上の尾行は厳しいだろう。一同宿場町へ戻ろう。今日の列車はもう稼働しない」
「リーリエが危ないのよ?」
走ってでも探さなきゃ! そう力説すると、ネロは鋭い視線でエレノアを突き刺した。
「……直に日が暮れる。夜は視界を悪くするだけでなく、悪人達に居場所を与える。次に誰かが捕まれば、事態は収集がつかなくなる。これはもう、遊びじゃない」
「なっ……わたしは遊びなんかじゃっ──」
エレノアの顔が火を噴きそうなほど赤くなった時だった。
「まあまあ、二人とも」
アルフレッドが穏やかな顔で仲裁に割って入った。アルフレッドはネロとエレノアの視線を交互に認めると、まずネロに微笑みかけた。
「ネロ、だめだよ。ものには言い方があるから」
「……すまない」
「それにエレノアも」
「わたし?」まさか矛先がこちらへ向くとなどと思っていなかったエレノアは、怪訝に眉をひそめた。アルフレッドはネロの言ってることはもっともだよ、と諭すように優しい口調で言う。
「昼間でさえ、リーリエは捕まってしまった。それに、夜目の利く彼らの領域で行動するのはあまりに無謀過ぎる。もっと冷静さを持って行動しないと、僕たちが捕まってしまっては、大人たちを巻き込んでの大騒動だ。実際、僕も今はお家のことなんてそっちのけに、その方がいいんじゃないかと思ってる」
巻き込んでしまって申し訳ない、と頭を下げられると、エレノアはそんなと首を振る。
「男の子が簡単に頭を下げないでよ! ……分かったわよ。ごめんなさい、もうワガママは言わないから」
だからお願い、とエレノアが頼み込むと、アルフレッドはようやく面を上げた。その顔はやはり苦悩に満ちていて、見るからに自分の責任を悔いていた。
「話は纏まったか?」
「あなたって人は……」
「……そういうとこだよ、ネロ」
なぜ他人事なのだろうか。エレノアの怒りは再びはらわたを煮やしたが、火を吹くことはなかった。それから町へと戻った一行は宿を取った。本来リーリエと泊まるはずだった部屋をエレノアが使うことになったのだが、見張りもかねてかネロとアルフレッドが押しかけている。そこまで信用がないのか、という落胆と、やはり心に生まれた焦りが、ふくれっ面で窓の外を眺めさせた。そんな不機嫌な少女へ向けて、アルフレッドはどこか遠慮がちに笑いながら、本題を切り出した。
「えっと……結局分かったのは、ノワール領にいるってことだけかな?」
「そうだ。それもあまり猶予はなさそうだ」
「それなら早く行けばいいじゃない」
ぼそりと呟けばアルフレッドはますます気まずそうに笑った。
「えっと、食事をもらってくるよ、話はまずそれからにしようよ」
橋渡し役が部屋を後にすると、不機嫌そうに眉をひそめたエレノアと、無表情なネロだけが残される。気まずさと憎らしさと複雑な感情が入り混じり、エレノアは顔を背けた。ネロも当然何も喋らないだろうと思っていたエレノアであったが、次の言葉にはさすがに驚きを禁じ得なかった。
「アルフは……ツェールドマルクに恋をしている」
「……ウソ!?」
「本当だ」
何度も相談を受けた、と続くとその話の信憑性は増すばかりだ。しかし先ほどまでの落ち着きようなどを思い返せば、エレノアには疑わしい話であった。だからこそすぐに疑う言葉を投げかけたが、面と向かって事実だと証左されれば口を結ぶより他はない。そうであればアルフレッドの心中を慮ることなど容易く、それでもなお冷静さを保とうとするのは自分が取り乱しているからなのだと気付き、エレノアは途端に恥ずかしさに苛まれた。
「アルフも気が気ではないだろう。君の様子を見ていくらか落ち着きを取り戻したようだが、今休んでおかなければきっと疲れて間違いを冒す。そうなれば全てが水の泡だ」
「……分かってるわよ、そんなこと」
ボスっと枕に顔を埋めたエレノアはふてくされたようにそう言った。そんなこと、皆まで言わなくても分かる。アルフレッドの気持ちを思えばこそ、ではないが。現状自分の精神も芳しいとは言えないことも、全て分かりきっていることだ。
ここにきて、エレノアはなぜネロに苦手意識があるか理解した。どこか父と似ているのだ。髪の色も、瞳の色も、そしてその思想も。理詰めで合理的な思想を持つ父クロノアは、ネロとどこか似ている。しかしホーエンハイム家の息子であることは間違いなく、父の生き別れの兄弟などでもあるはずはない。ましてや父は鬼で、ネロは兎の血筋。あまりにかけ離れている。
ここにきてあまり思い出したくない相手が脳裏に過る。エレノアにとってこれほど面白くないことはない。次に喋れば噛みついてやるとさえ思うほど沸々と八つ当たりに近い怒りが込み上げてきたものの、我慢だ我慢だと自分に言い聞かせた。そのタイミングを見計らったように、規則正しい足音が部屋の前で止まる。きっとアルフレッドだ、とエレノアは思った。エレノアはシーツを深くかぶり、ベッドの上で丸まった。
「お待たせ、食事を持ってき」「寝る」「た、よ?」
「寝るの! もう、出てってよ!」
乱暴に枕を投げつけれて。二人はたまったものではないと、そのまま部屋を後にした。
「最っ悪……!」ギリっと歯が鳴った。
感情任せに人を追い出すなどそれこそ幼子のやることではないか。エレノアは自分を責め立てた。その脳裏にはやはりなと言わんばかりに澄まし顔をした父の姿があった。エレノアの心には眠りにつくまで煮えたぎっていた。
その明くる日の朝。エレノアが顔を洗いに井戸へ向かうと、まだ明け方だと言うのに街中からネロが歩いてきた。さすがに一日経つと心にも余裕が生まれ、エレノアは努めて冷静な声で「おはよう、ネロ」と声をかけた。
「エレノア、よく眠れたか?」
「ええ、お陰様で。ネロはひどいクマね」
「ああ。昨日の倉庫で情報収集をしていたからな」
「ええっ!?」
寝耳に水だ。体力を回復させるために寝ておけなどと言いながら、ちゃっかり自分は行動を起こしているのだから、抜け駆けに等しい行為であった。昨日のエレノアなら間違いなくその場で食ってかかっていただろうが、今日のエレノアは一味違う。言いたい言葉を一呼吸置いて飲み込んでから、肩の力を抜いた。
「それで。収穫は?」
「ツェールドマルクはやはりノワール領にいるらしい。噂ではグランヴァレフへ売り飛ばすから殺しはしないようだ。だがあまり時間に猶予がないのもまた事実だ。支度を済ませたらすぐに出発しよう」
「そう。ありがと、ネロ」
礼には及ばない、と断るネロに、エレノアは漠然となんとかなりそうな気がしていた。
「アルフも起こそう、アイツは朝が弱い」
「そうなの?」「ああ」
意外な一面があるなと思ったエレノアだったが、親友の命運がかかっているとなれば一刻の猶予もありはしない。その足でアルフレッドの部屋へと向かったエレノアは、まさに鬼嫁のようにシーツを捲り上げて、ズボラに寝ていた少年を叩き起こした。
「アルフレッド、行きましょ」
「………………………………はい」
寝起きから目の据わった笑みでそんな暴挙に出られたら、アルフレッドも素直に従うしかなかった。それからすぐに宿のチェックアウトを済ませた。引きずられる少年が奇異の目に晒されど、エレノアの知ったことではない。
急いで乗り込んだ始発列車の窓の外では、忙しなく景色が流れていく。今三人が向かっている先は、囚われたリーリエがいるというノワール領だ。
「ネロは朝に強くて良かったね」
「夜にも強い」
「弱点ないじゃん……」
しょぼくれた目をこするアルフレッドたちは今更窓の外に興味などないようだ。エレノアも見慣れたものではあるが、今回向かう先は初めて訪れる土地なので、すこし不安もあった。
「ねえ、ノワール領ってどんな場所なの?」
「そうだね……とても寒いところだよ、石造りの家に黒煉瓦の屋根が特徴的な街並みかな。春先に街路樹を埋めたらしいけど寒いから夏の終わりには枯れちゃったみたい」
アルフレッドは家柄的に方々へ飛び回ることが多いらしく、つらつらと街の特徴を話してくれた。膨らんだ想像の中の美しい街並みに、エレノアの不安は期待となって膨らんでいた。
「暗殺者の一族が多いらしいな。魔術もそれ専用に特化していて、ランチを食べようと口を開けた貴族がその首を切断されたという話もまだ新しい」
「……」しかしそれもネロの補足が入れば一転した。エレノアは取り出したバゲット入りのバスケットを無言のまましまった。もはやウキウキとした気持ちなどどこにもない。
「早くリーリエを助けて帰りましょ」
「ああ」「そうだね」
ため息混じりの言葉に二人の相槌が重なる。リーリエを助けたらすこしばかり散策でもしてみようか。そんな気持ちは、国境を隔てる山脈の、遙か向こうへと消えて失せていた。




