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トレイン&スポーツラブ~山口で出会った二人のラブストーリー  作者: リンダ
ドタバタラブコメディー開幕

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吹奏楽コンクール全国大会・札幌

 福岡空港までの移動


 全国大会の“現実感”は、だいたい移動から始まる。

 朝の山口は、まだ少し眠そうな空気だった。


 郷子は楽器ケースを背負い、肩ひもがずれないようにぐっと持ち直す。

 温也は同じくケースを肩に、駅のホームでやたら落ち着きなく足踏みしていた。


 温也(大阪弁)

「やばい、遠足の前日みたいなテンションや……寝れへんかった」


 郷子(山口弁)

「寝れんの、いつもじゃん。全国のせいにしたらいけんよ」


 温也

「いや、今日のはガチ。全国やもん。札幌やもん。空やもん」


 郷子

「最後の“空やもん”は何なん」


 温也

「飛ぶからな。飛行機。俺らも。気持ちも」


 郷子

「はいはい。落ち着きんさい」


 …と言いながら、郷子のほうも内心は落ち着いていなかった。

 全国という言葉が、胸の奥でずっと鳴っている。


 新幹線と在来線を乗り継いで、福岡へ。

 車窓の景色が街に変わり、空の色が広くなると、いよいよ旅の匂いがしてきた。


 福岡空港


 福岡空港は、いつもより眩しい。

 人の波の向こうに「出発」の表示が並んでいて、見ているだけで背筋が伸びる。


 郷子(山口弁)

「わぁ……空港って、なんか心拍上がるね」


 温也(大阪弁)

「それな。俺、いまBPM=140ぐらいある」


 郷子

「うるさい、測るな」


 手荷物検査。

 金属探知機。

 搭乗口。


 ひとつひとつ進むたびに、日常が剥がれていく感じがした。

 “全国”って、ほんとに別の場所なんだ、と。


 温也

「なぁ郷子、これ乗ったらもう札幌やろ?」


 郷子

「そうよ。新千歳行きじゃけぇ」


 温也

「……急に実感きた。

 俺、ちゃんと吹けるかな」


 郷子は少しだけ考えて、ぱっと明るく言った。


 郷子

「吹けるよ。

 温也くん、“扉開けて立つ”んじゃろ?」


 温也

「……うん」


 その言葉だけで、足元が少し安定する。


 福岡→新千歳(機内)


 離陸のとき、身体がふわっと浮く。

 窓の外で福岡の街が小さくなっていくのを見て、郷子は息を飲んだ。


 郷子(山口弁)

「うわ……ほんまに飛びよる」


 温也(大阪弁)

「飛んでる。全国に。俺ら、今、飛んでる」


 郷子

「語彙が飛びよる」


 温也

「緊張すると語彙が墜落するねん」


 機内は静かで、みんな必要以上に喋らない。

 全国大会へ向かう“集中”が、空気を薄くしているみたいだった。


 温也は小さく口を動かして、指でリズムを刻む。

 郷子は窓の外を見ながら、頭の中で自由曲の入りを反復していた。


(泣かず、叫ばず、立つ)


 それを思い出すと、心の真ん中が少しだけ強くなる。


 新千歳空港→札幌(移動)


 到着ロビーに出た瞬間、空気が違った。

 冷たくて、澄んでて、ちょっとだけ甘い匂いがする。


 郷子(山口弁)

「……北海道、ほんま涼しいね」


 温也(大阪弁)

「これが噂の“空気うまい”か。

 俺、吸うだけで上手くなった気する」


 郷子

「それは錯覚じゃけぇ」


 バスで札幌へ。

 窓の外、いつもと違う道路の広さと、空の高さ。

 全国の景色は、見ているだけで緊張を連れてくる。




 札幌の宿舎到着


 宿舎に着くと、荷物とケースの山。

 廊下は同じような格好の中高生でぎゅうぎゅうで、全国が“生活”として始まった。


 部屋に入った瞬間、二人は同時に息を吐いた。


 温也(大阪弁)

「……着いた。ほんまに着いた」


 郷子(山口弁)

「着いたね。

 ここから、よ」


 荷物を置いて、ケースを角に立てて、

 水を飲んで――ようやくスマホを見る余裕ができた頃。


 郷子が言った。


 郷子

「美香ちゃんたち、もう着いちょるって言うとったよね」


 温也

「せや。先発組。

 ほな連絡する?」


 郷子

「うん。今なら、変なテンション出んで済む…はず」


 温也

「“はず”やめて」


 美香に連絡


 通話ボタン。数コール。


 画面に、宿舎の部屋らしい背景。

 すでに制服を脱いでジャージ姿の美香が映った。

 顔は疲れてるはずなのに、目が妙にキラキラしてる。


 美香

『あっ!郷子ちゃん!温也くん!

 着いたと!?』


 郷子(山口弁)

「着いたよー!さっき宿舎入ったとこ!」


 温也(大阪弁)

「そっちはもう落ち着いた?」


 美香

『うん、先に着いとったけんね。

 でもさ、札幌って空気が“本番”の匂いする』


 郷子

「わかる……うちも今それ思った」


 美香は頷いてから、少しだけ声を落とした。


 美香

『明日、うち“田園”吹く。

 派手じゃないけど、ちゃんと立って鳴らすけん』


 温也

「俺らは“Forever Love”。

 立って鳴らす。泣かせるんやなくて、支える」


 郷子

「うん。

 “音で敬礼”、しよ」


 美香

『よし。

 全国で、ちゃんと挨拶してこ』


 郷子

「挨拶して、最後は握手して帰る」


 温也

「……今の、ちょい沁みた」


 美香

『沁みたついでに、寝なさい(笑)

 明日、元気じゃないと音が細うなるよ』


 温也

「全国に来てまで母みたいなこと言うなぁ」


 郷子

「でも正しいけぇ」


 美香

『じゃあ、おやすみ。

 明日、がんばろうね。全国』


 郷子

「おやすみ、美香ちゃん」


 温也

「おやすみ。全国で会おな」


 通話が切れる。


 部屋の静けさが戻ってきて、

 二人は一瞬だけ目を合わせた。


 郷子(山口弁)

「……来たね、全国」


 温也(大阪弁)

「来たな。

 ほな、扉開けて立つだけや」


 札幌の夜は冷たくて、

 でも次の音を、ちゃんと温めてくれていた。



 札幌全国編

 第1章 宿舎の夜は、だいたい“点呼”と“夫婦漫才”でできている


 札幌の宿舎に到着して、荷物を置いて、水を飲んで。

 ようやく“全国”という言葉が、肺の奥に落ち着いたころ。


 廊下の向こうから、にぎやかな足音が近づいてきた。

 山口農林高校吹奏楽部の先輩たちだ。疲れているはずなのに、テンションだけは元気で、しかも狙いが一点に定まっている。


 石井先輩(Tb・3年)

「おーい一年。温也、郷子。ちょい来い」


 温也(大阪弁)

「うわ、呼び出しや。全国で怒られるやつや」


 郷子(山口弁)

「やめんさい、縁起でもない」


 田中先輩(Tp)

「怒らん怒らん。全国の夜は“整列”と“余白”と――」


 佐々木先輩(Perc)

「――“夫婦漫才”やろ」


 郷子

「は!?」


 温也

「なんでやねん!!」


 石井先輩がニヤッとする。

 その顔は、完全に“見たいだけ”の顔だった。


 石井先輩

「噂になっちょるんよ。山口の部室で“夫婦漫才(仮)”しよるって」


 郷子

「噂すな!仮も付けんで!」


 田中先輩

「全国の宿舎で披露したら、テンション上がるやろ?」


 温也

「上がらんわ!上がっても音程だけや!」


 佐々木先輩

「ほら、郷子がツッコミ、温也がボケ。鉄板やん」


 郷子

「鉄板やない!ただの事故じゃ!」


 先輩たちが“やれやれ”の手拍子を始める。

 廊下の他校の子たちまで、なんとなく足を止める。


 郷子(小声)

「温也くん……やめよ?ここ札幌よ?全国よ?」


 温也(小声・大阪弁)

「……せやな。全国や。なら――」


 温也は一度深呼吸して、胸を張った。


 温也

「全国の皆さん、聞いてください。

 俺ら、今日から“夫婦”になります」


 郷子

「ならん!!!!!!」


 温也

「いや、ほら。宿舎って家みたいなもんやん?」


 郷子

「宿舎は宿舎!家みたい言うな!」


 温也

「つまり俺ら、今夜から――“共同生活デビュー”」


 郷子

「言い方ァ!!」


 石井先輩が吹き出す。田中先輩が肩を震わせる。

 佐々木先輩は腹を抱える準備に入った。


 温也

「ほんで夫婦のルールな。

 最初の一秒=挨拶。最後の一秒=握手。

 その間は――」


 郷子

「その間は黙って練習しんさい!!!」


 温也

「いや、“その間は語尾削る”やろ」


 郷子

「削るのは語尾!あなたの余計な一言!!」


 周囲がドッと笑う。

 “全国の廊下”って、こんなに笑い声が響くんだな、と郷子は思った。


 そのとき。


 ちょこちょこ、と軽い足音がして――

 人の輪の外から、ひょいと顔がのぞく。


 美香(福岡寄り)

「……なにしよると? こんなとこで」


 郷子

「あっ、美香ちゃん!」


 温也

「うわ、いま一番見られたくない人来た」


 美香は目を丸くして、先輩たちの輪と、中央でボケてる温也と、ツッコミで赤くなってる郷子を交互に見た。


 美香

「全国の宿舎って……こういう場所なん?」


 郷子

「違う違う!これは先輩が!」


 石井先輩が興味津々で、半歩前に出る。


 石井先輩

「お、かわいい子来た。誰?うちの部の子じゃないよね」


 田中先輩

「え、温也の妹?……いや違う顔やな」


 温也(大阪弁)

「人をややこしい家系にすな」


 美香は背筋を伸ばして、ちゃんと頭を下げた。

 中学生らしい“まじめさ”が、場の空気を一瞬だけきれいにする。


 美香

「はじめまして。福岡の、博多南中学校吹奏楽部の美香です。

 クラリネット吹いてます」


 石井先輩

「へぇ!福岡から?全国?すご」


 美香

「はい。先に到着しとって……さっき宿舎入ったとこです」


 温也

「ほら、ちゃんとした全国の人や」


 郷子

「全国の人てなに」


 美香は続けて、少しだけ照れながら言った。


 美香

「温也さんと郷子さんとは、前に吹奏楽つながりで知り合って。

 去年は私、中学校部門で全国に出ました」


 先輩たちの目が、同時に“ほぉ〜!”になる。


 佐々木先輩

「去年全国!?中学生で!?」


 田中先輩

「え、経験者やん。すご」


 石井先輩

「……つまり?」


 温也がすかさず乗っかる。


 温也(大阪弁)

「つまり、美香ちゃんは“全国の先輩”や。俺らより先に全国行ってる。

 ここで一番えらい」


 郷子

「えらい言い方やめんさい!」


 美香

「えっ、えらくないです!たまたま…!」


 石井先輩が腕を組んで、ニヤッとする。


 石井先輩

「よし、決まり。

 美香ちゃん、全国の廊下でこの二人の“夫婦漫才(仮)”見た感想、あとで教えて」


 郷子

「教えんでいいです!!」


 温也

「評価制度やめてください!!」


 美香は笑いながら、でもどこか安心した顔で言った。


 美香

「……ふたりとも、元気そうでよかった。

 全国って緊張するけん、こういうの、ちょっと羨ましい」


 郷子(山口弁)

「美香ちゃんも、ちゃんと笑ってええよ。

 全国でも、息できんと音が細うなるけぇ」


 温也(大阪弁)

「せや。笑いは呼吸や。ロングトーンや」


 美香

「……ロングトーンは笑いながら吹いたらダメやろ」


 郷子

「正論!」


 また笑いが起きる。

 その笑いの中で、全国の夜は少しだけ“自分たちの夜”になった。





 点呼、消灯、そして“本番前の静けさ”が部屋に降りてくる



 その後の点呼は、きっちりと進んだ。

 “全国だから”という空気が、先輩たちの背中をいつもより真っ直ぐにしている。


 石井先輩

「――よし。消灯までにストレッチ。水分。声出し禁止。

 笑いは……まあ、ほどほど」


 温也(大阪弁)

「ほどほどって言われたら、逆にむずい」


 郷子(山口弁)

「むずくない。黙りんさい」


 部屋に戻ると、窓の外の札幌が静かに光っていた。

 明日の本番が、まだ遠くにあるのに、もう喉の近くまで来ている気がする。


 郷子はベッドの上で、楽譜のページを一枚だけめくった。

 温也は何も言わずに、呼吸だけ整えていた。


(泣かず、叫ばず、立つ)


 それが合図みたいに、二人の中で揃う。




 翌朝・会場入り “全国のチューニングは、空気が薄い”


 会場の体育館は広かった。

 でも広さより先に、音の“返り方”が違う。


 チューニングが始まる。

 B♭のロングトーンが、天井の高い空間にスッと伸びていく。


 田中先輩

「押すな。置け。語尾、削れ」


 石井先輩

「Tb、扉開ける動作。開けて、そこで立て」


 温也は息を入れすぎない。

 郷子は音の芯だけを真ん中に置く。

 昨日までの自分たちより、今日の自分たちのほうが少し落ち着いている。


 郷子(山口弁・小声)

「温也くん、今日いけるよ」


 温也(大阪弁・小声)

「うん。いける。

 エロ温封印で」


 郷子

「いま言うな!!」


 笑いそうになって、郷子は唇を噛んだ。

 この場で笑ったら、音が揺れる。全国はそれを許さない。




 本番 ― 『Forever Love』“泣かせない”で、胸の奥まで届かせる


 暗転が落ちる。

 客席の気配が、ざわめきから“静けさの密度”に変わる。

 体育館の空気は乾いているのに、舞台上だけ少し薄い。――全国の会場って、息を吸うだけで緊張が喉に引っかかる。


 指揮者の腕が上がる。

 その動きは大きくない。けれど、全員の背筋に同時に一本の糸を通した。


(最初の一秒=挨拶)


 郷子はベルの角度をほんの数ミリだけ上げ、足裏で床を確かめた。

 温也はスライドを握る右手の力を抜き、左手の親指で楽器の重心を「ここ」と決める。


「吸う」――誰もが同じタイミングで、同じ量だけ吸う。

 そして、音が始まる。


 1)冒頭:B♭ロングトーン ― “会場を味方につける”一音


 B♭のロングトーンが、ふわっと置かれる。

 押し出さない。太く見せない。

 ただ、息を一本の線にして、空間の中心に真っ直ぐ差し込む。


 金管の音は派手じゃないのに、芯が揺れない。

 ホールがまだ“どんな響き方をする会場か”を決めきっていない瞬間に、こちらから答えを出すみたいに。


 郷子の音は、入口の取っ手を静かに回すように入った。

 温也の音は、扉を一度だけ押して、そこで止める。

 開けっぱなしにしない。出しゃばらない。

 音の輪郭だけで「ここが入口です」と示す。


 息の終わりで“語尾”が勝負になる。

 削る。削りすぎず、残しすぎず。

 最後の粒をほんの少しだけ消して、響きにバトンを渡す。


 体育館が、遅れて鳴った。

「そういう鳴り方をする場所なんだ」と、会場自体が自己紹介してきたみたいだった。


 2)Aメロ:木管が“糸”を紡ぎ、金管が“壁”を作る


 クラリネットが細い糸を紡ぐ。

 フレーズの頭は、尖らせない。

「置く」ように始めて、息の中に旋律を寝かせていく。


 その上に、ホルンが“丸い影”を落とす。

 音が音を支えるというより、空気の湿度をほんの少し変えて、場を暖める感じ。


 トロンボーンは、ここで目立たない。

 目立たないことが仕事になる。

 郷子と温也は、音量をmfの手前で止め、厚みだけを足す。


 郷子(心の中)

(“扉、開けて立つ”……開けたら、立って待つ。進みすぎん)


 温也(心の中)

(せや。俺らは景色の“地面”や。派手に踊らん)


 それでも、音が消えない。

 息が見える。

 全国の会場にありがちな「怖くて前のめりになる音」にならない。

 落ち着いているのに、止まっていない。


 3)サビ前:打楽器が“心拍”だけを置く


 ティンパニが静かに地を揺らす。

 ドン、じゃない。

 “コトン”に近い。

 それが逆に、客席の胸の奥へ入っていく。


 スネアは語らない。

 でも、テンポの骨格だけは崩さない。

 全員がその骨格に肩を預けて、余計な力を抜ける。


 郷子のベルが、ほんの少し上がる。

 大きく上げない。

 “上げるフリ”だけする。

 その角度の変化で、音が一段だけ前に出る。


 温也は、スライドの動きを最短にする。

 音程を当てにいかない。

 息の軌道を当てる。

「息が当たれば音程はついてくる」って、先輩が言っていたやつ。


 4)サビ:泣かない、叫ばない、“立って鳴らす”


 サビの入り。

 弦がない分、吹奏楽は「声」で泣かせにいける。

 でも今日は泣かせない。

 泣くのは聴いた人の仕事だ。


 メロディが立ち上がると同時に、和音が下から支える。

 和音は“押す”と暑苦しい。

 “持ち上げる”と透明になる。


 トロンボーンはここで、“扉を開ける動作”の本領を出す。

 郷子が前へ出るのではなく、音の前にスペースを作る。

 温也はそのスペースを、崩れない床にする。


 二人の音が重なる瞬間、太さが出るのに、濁らない。

 そして語尾。

 サビほど語尾を削るのが怖い。

 削ると薄くなる気がするから。


 でも削る。

 余韻を客席に預ける。


 その勇気が、体育館を“ホール”に変える。


 5)間奏:息の交通整理 ― “走らない”で走る


 間奏に入ると、各パートが短いモチーフを受け渡す。

 走らない。

 でもテンポは落ちない。

 走らないのに、前へ進む――不思議な推進力。


 木管がさっと色を変え、金管が形を整える。

 パーカッションが「次、ここだよ」とライトを当てる。

 指揮者の腕は相変わらず大きくない。

 その代わり、全員の目線が同じところを見ている。


 郷子は一瞬、客席の暗さを感じる。

 暗いのに“見られている”感覚がある。

 でも怖くない。

 怖くないというより、「やることがはっきりしている」から揺れない。


 温也(小声・大阪弁、譜面の影で)

「……いけるで」


 郷子(小声・山口弁)

「うん、立てちょる」


 その二言で十分だった。

 余計な会話は、余計な呼吸を生む。

 二人はまた音に戻る。


 6)終盤:一番“言いたくなる”ところで、言いすぎない


 終盤、曲は一度だけ感情の峰を作る。

 ここで叫んだら、聴衆は泣くかもしれない。

 でも、叫んだら音楽が“演技”になる。


 だから、叫ばない。

 ただ、息の圧をほんの少し上げて、芯だけを太くする。


 郷子はベルの角度を変えずに、音の重さだけ増やす。

 温也はスライドを動かす指先を静かにして、息の摩擦を減らす。

 音が“硬くならない”ように、あくまで丸く。


 それでも、響きは前へ出る。

 人の胸の中には、派手じゃない“強さ”が届くから。


 7)ラスト:語尾を削って、会場に渡す


 最後のフレーズ。

 いちばん“余韻が欲しい”場所。

 ここで伸ばしきると、響きが暴れる。

 ここで切りすぎると、薄くなる。


 その間の“ちょうど”を探す。


 指揮者の手が、ほんの少しだけ止まる。

 その一瞬で、全員が同じ長さを共有する。


 郷子は、最後の息を“音”としてではなく、“空気”として渡した。

 温也も同じように、音の終わりを消す。

 消すのに、消えない。


 音が止まったあと、体育館が鳴った。

 さっきまで味方にしようとしていた会場が、今度は勝手に鳴っている。

 余韻が、客席の天井あたりで一周して戻ってくる。


(最後の一秒=握手)


 拍手が来るまでの沈黙。

 そこに、今日いちばんの勇気が詰まっていた。


 拍手が起きる。

 大きい。けれど“うるさい”じゃない。

 あったかい。


 郷子は譜面台の向こうで、ほんの少しだけ笑った。

 温也は楽器を下ろす寸前、息を吐いてから――


 温也(小声・大阪弁)

「……やったな」


 郷子(小声・山口弁)

「うん。うちら、立てたね」


 二人の言葉は短い。

 でも、その短さが“全国の音”だった。




 本番 ― 博多南中吹奏楽部『田園』“ベルの先に、風を置く”


 全国大会の会場。札幌の空気は涼しいはずなのに、舞台袖は熱い。

 ライトの熱、息の熱、そして「全国」という二文字の熱が、背中を押してくる。


 美香はトロンボーンのスライドを一度だけ最後まで伸ばして、戻した。

 金属が“すうっ”と鳴る、その音で自分の心拍を測る。


(落ち着け。トロンボーンは、叫ぶ楽器じゃない。空気を動かす楽器)


 1)チューニング:B♭は「太さ」じゃなく「芯」


 チューニングのB♭。

 トロンボーンはここで、“でかい音”を出すと勝手に主役になってしまう。


 美香は息を押さない。

 息をまっすぐ、細く長く通す。音量じゃなく、芯だけ立てる。


 ベルの先で音が丸くなる。

 後ろでホルンが寄り、前でクラが溶ける。

 “全体の色”が一段、揃っていく。


 指揮者が小さく頷いた。


 2)冒頭:田園の入口は、トロンボーンが「風の壁」を作る


『田園』の最初は派手じゃない。

 だからこそ、金管は“前に出る”よりも、景色の土台になる必要がある。


 美香のパートは、旋律の裏で支える和音が多い。

 ここが雑だと、景色が薄い。

 ここが押しすぎると、景色が重い。


 美香は語尾を削る。

 音の終わりを切らずに、スッと引く。

 ホールに余韻を渡す。


(余韻は会場がやる。うちは“置く”だけ)


 3)展開:スライドは「距離」じゃなく「間」


 トロンボーンの難しさは、音程そのものより、音程に入るまでの時間だ。

 スライドが動くぶん、ほんのわずか遅れる。


 だから美香は、“半拍前”に動く。

 見えないメトロノームで、先に身体が準備する。


 ——スライドが滑って、音程がぴたりとハマる。

 “ぴたっ”とハマった瞬間、和音がいきなり透明になる。


 隣の温也じゃない。ここは美香の現場だ。

 でも、同じ合言葉が身体に残っている。


(開けて、立つ。……いや、田園は、開けて“置く”)


 4)中盤:怖いのは「丁寧すぎる田園」


 全国の舞台って、丁寧にやればやるほど安全に見える。

 でも『田園』は、丁寧すぎると嘘になる。自然が“作り物”に聞こえる。


 美香は、あえて少しだけ息の圧を抜いた。

 音を軽くするんじゃない。空気を軽くする。


 すると、和音が「演奏」から「景色」になる。

 客席の空気が変わる。咳が止まり、背もたれの軋む音が消える。

 聴衆が“息を合わせてくる”感じがする。


 美香はそこで、逆に落ち着いた。


(届いてる。焦らんでいい)


 5)クライマックス:金管は泣かせない。「光量」を上げる


 盛り上がりで泣かせにいくと、『田園』は途端にわざとらしくなる。

 必要なのは感情の爆発じゃなく、景色の光量。


 美香は音を太くしない。

 太さじゃなく、明るさを増やす。


 息のスピードを少し上げて、ベルの先を上げすぎず、水平に保つ。

 スライドは短く、素早く、雑にならないギリギリ。


 トロンボーンのラインが揃った瞬間、

 金管全体が“空”になる。


(泣かん。泣くのは、聴いた人の番)


 6)ラスト:最後の音は「消える」んじゃなく「帰っていく」


 終わりに近づくほど、金管はやりがちだ。

 最後まで鳴らし切って、きれいに決めたくなる。


 でも今日は違う。


 美香は最後の和音を、ホールに預けた。

 語尾を削る。

 削って、渡す。

 渡して、自分はもう手放す。


 札幌のホールが鳴る。

 鳴ってから、すっと消える。

 音が「帰っていく」。


 沈黙。

 そして拍手。


 拍手の音は現実的なのに、今日は少しだけ柔らかい。

 “田園”の空気が、客席に残っている証拠だ。


 袖に戻る直前、美香は胸の中で小さく言った。


 美香(小声)

「全国でまた会いましょう。……うち、ちゃんと置けたけん」

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