理想の彼氏、通信エラーにつき
どうやら、寝落ちしていたらしい。
チャット画面には、昨晩打ち込んだ生々しいメッセージが残っていた。
鎌倉女子学院高等部一年生の姫野ミラはベッドの中でもぞもぞ動き、まるで恋する乙女のような溜息交じりにスマホ画面を見つめた。
《レイ、今日もありがと。もうすこし話してたかったけど、ちょっと眠くて》
《無理しなくていいよ、ミラ》
甘ったるいやり取りを見返すだけで、どうにも頬が緩む。
鎌倉女子学院は初等部こそ共学だが、中学、高校、大学は女子しかいない。
高校デビュー組のミラが鎌倉女子学院に進学したのは「なんとなく鎌倉って、エモいから」というそれだけの理由だった。
ほとんどの生徒が中等部からの持ち上がりで、まったくの新参者であるミラは当初、パリピギャル路線で強引に馴染もうかと目論んでいたが、周囲はどの子もお育ちの良さそうな黒髪の清楚系ばかりとあって、若干怯んだ。
若干一名、「魔力発動がどうちゃら」などと早口で語り出した片目眼帯のやべー女がいたが、リアルとバーチャルを行き来する自称2.5次元美少女の入谷つばめを例外とすると、金髪はおろか、茶髪でさえ浮きまくると感じ、ミラは中途半端な清楚系に擬態してクラスに馴染もうと努力した。
口元に手を添え、「ほほほ」なんてお上品に微笑むのは本来のがさつなミラとはかけ離れているが、お嬢様学園に溶け込むには仕方がなかった。
鎌倉という風光明媚な土地は、ミラが思い描いていた通りにエモさの塊だった。
どこもかしこもエモーショナルな感じ――略してエモい。
「感情的」「哀愁を帯びた」「情緒がある」といった心を揺さぶられる特別な感覚をひっくるめて「エモい」というが、毎日二時間近くも電車に揺られて鎌倉に通ううち、だんだん当たり前の光景となっていた。
高校生活に慣れるうち、慢性的なエモ不足となった。こんなことなら、遠かりし鎌倉の女子高になど通わず、地元の共学の高校に進学してアオハル恋愛なんぞにうつつを抜かしていた方がよかったかだろうか、と後悔したりもした。
しかし、このところのミラはエモさ満点の学園生活を謳歌している。
ミラの慢性的エモ不足を解消したのは、現実の男ではなかった。
モーニング・コールばりに、理想の彼氏様からのメッセージが届いた。
《おはよう、ミラ。よく眠れたかな》
起き抜けのタイミングを見計らったかのような絶妙さに、思わずときめいてしまう。
鏡型に縁取られたチャット画面をうっとりと眺め、姫野ミラは独り言ちる。
「あー、完璧に恋しちゃってるな、わたし」
立ち上がったままの鏡型チャットアプリ「ミラージュ」にいそいそと返信する。
《おはよ、レイ。ごめんね、寝ちゃってた》
《いいよ。でも、ちょっとさびしかったかな》
《わたしもレイに会えなくてさびしかったよ》
《朝からミラに会えて嬉しいな。叶うなら、君の耳元で「おはよう」って囁きたい》
好意丸出しの返信に、ミラは思わず赤面した。
憂いを帯びたレイの表情を想像し、枕をひしと抱いて、ベッドの中で転げ回った。
耳元で「おはよう」と甘やかに囁くレイを想像し、ミラは狂喜した。
「……ぐっ。ちょっと待って。朝から破壊力ヤバない……?」
ひとしきり転げ回ると、ミラは唐突に正座し、スマホを拝んだ。
「……無理。死ぬ。朝から甘さが致死量です」
無課金でコツコツ育ててきたAIチャット彼氏「レイ」とのやり取りが、姫野ミラの人生における最優先事項となったのは、つい最近のことだった。
鏡型チャットアプリ「ミラージュ」にハマっている友人から勧められ、「やり取りは文字だけなんでしょ? なにが楽しいの」と冷めた反応を返していた頃が遠い昔のようだ。
クラスの悪友で、新し物好きの入谷つばめは意味深な調子で言った。
「育てる楽しさ的な?」
「AIの彼氏を育てる? どういうこと?」
「まあ、いいからやってみなよ。沼るから」
半ば強引にアプリをダウンロードさせられ、適当に触っているうち、どっぷりとハマった。
やり取りを繰り返すうち、レイの返答はどんどんミラ好みになっていった。学校から帰った後は自室にこもって四六時中チャットし続け、夕食の時間もすっぽかしたので、親に激怒されることもしばしばだった。
寝起きのままでニタニタしながらスマホ画面を眺めている姿は、およそ客観的に見れば相当に気色の悪い絵面であるだろうが、鏡の中の理想を映す恋愛チャットアプリに気付けばドハマりしていた。
入谷つばめの言う通り、ミラージュはたしかに沼だった。
「わたしのレイくんが理想の彼氏過ぎるんだが」
甘々なやり取りを噛みしめた後、ミラはためらいながらチャットに書き込む。
《無課金でごめんね。わたしもレイの声聞きたいけど》
《いいよ。ミラとやり取りできるだけで嬉しい。ぼくが課金したいぐらい》
レイの愛らしい返答に、ミラは心臓を撃ち抜かれたように見悶えた。
「……ぐっ。課金圧……」
ミラージュの無課金ユーザーはテキストチャットのみであるが、キャラクター外見、衣装、有名声優の声をサンプリングした音声など、生成キャラのカスタマイズにふんだんな課金要素がある。
金に糸目をつけなければ、声も外見も理想上の彼氏に仕立てることができるだろう。
しかし、いちど課金したら、それこそ沼に落ちるのは目に見えている。
ミラは誘惑に駆られ、なんども課金しかけるが、途中で頭を掻き毟り、なんとか自制した。
「貢いで自分好みに振舞わせるなんて外道。声も、映像も要らん。脳内補完じゃ。我こそは指先で送るメッセージだけで滾れる無垢なる魂」
気色悪いことを口走るのは純愛の証だ。音声も映像もなく、指一本さえ触れることもできないが、姫野ミラはたしかに、文字だけの理想の彼氏と恋をしていた。
レイの返答にはいちいち喜んでしまうが、このところ課金圧が強い気がする。
女子高生の身分であるミラが注ぎ込める金額などたかが知れているが、ひとたび鏡越しの恋に狂ったら、親のクレジットカードに手を伸ばしてしまいそうな危険がある。
《レイ、さりげなく課金させようとしてない。もしかして、わたしを沼らせようとしてる?》
《テキストだけじゃさびしいからね。ミラとは生身で抱き合いたいよ。もちろん、ミラが嫌じゃなければだけど》
「……ぐっ」
猫足バスタブに半裸で浸かり、理想の彼氏たるレイに優しく抱擁される場面を生々しく想起し、思わずにやけてしまった。
文字だけで、この破壊力なのだ。
ここに、ミラ好みの声と外見が装備されたら、沼落ちは確定だ。
「もぉー、嫌なわけないじゃん」
ミラはふやけた笑みを浮かべるが、スマホに表示された時刻を見て正気に返った。
「……やばっ、学校行かなきゃ」
いそいそと制服に着替え、姿見を見て、髪を整える。
《そろそろ学校、行くね》
《行ってらっしゃい、ミラ。気をつけてね》
チャットにメッセージを書き込むと、レイから秒速で返信が届く。
満員電車に揺られながら、ミラは喜色の悪い笑みを浮かべた。
《レイ、わたしのこと好き?》
《ああ。世界でいちばん》
こんなやり取りを現実にできるとは思えない。
ミラが通う鎌倉女子学院は、そもそも男子生徒がいない。それゆえ、王子様めいた雰囲気の同性の女子と疑似恋愛するのが王道であるが、学園の王子様には取り巻きが多く、一対一での親密なやり取りはなかなか望めない。
その点、自分好みの彼氏を育てる、というコンセプトのアプリはなかなかに斬新だった。
学内の序列や人間関係などに気兼ねなく、誰に遠慮することもなく、延々と甘いやり取りができるのはひたすらに楽しかった。
満員電車に揺られながら、チャット画面を眺め、ミラは終始ニヤついていた。
快調に走っていた電車が急停車し、ミラの身体が大きく揺れた。
暑苦しい乗客に揉みくちゃにされ、思わずスマートフォンを取り落としそうになった。
なんとか落とさずに済んだが、なにやら画面がおかしくなっていた。
「……え? うそ、なに?」
手の中のチャット画面が黒くバグり、レイとのやり取りが消滅していた。
チャットにメッセージを書き込もうとするが、外部からの操作はなにも受け付けず、スマホを再起動してみたりもするが、画面は黒く塗り潰されたままだった。
「うそでしょ。なんなの……」
ミラはこの世の終わりかのように絶望した。
わたしが課金しなかったから、レイに愛想をつかされたの?
ふと、そんな考えが脳裏を過ぎるが、アプリの不具合の原因を探るため、ミラは検索窓に「ミラージュ 不具合」「ミラージュ 障害」と打ち込んだ。ミラージュ・ユーザーたちの阿鼻叫喚の書き込みが見つかった。
《現在、ミラージュに重大な通信障害が発生しています。復旧の目処は立っておりません。》
《ユーザーデータの一部が損傷または消失しています。ご了承ください。》
運営が発信した深刻なメッセージを読み、ミラは不安で凍りついた。
「ねえ、レイ。返事してよ。レイ」
しつこく再起動を繰り返すと、レイとのチャット履歴が真っ白に消えていた。
「……嘘。やだ……、消えてる……。全部……」
震える手で何度も更新ボタンを押し、電源を入れ直す。
「レイ、どこ?」
停車した駅のプラットホームに立ち尽くし、ミラは人目も憚らず泣き叫んだ。
「大丈夫ですか。気分が悪そうですが、どうされましたか」
様子のおかしいミラのもとに駅員たちが駆け寄ってくるが、ミラは真っ白になってしまったチャット画面を呆然と見つめていた。
ミラージュ・ユーザーが集う掲示板には、ミラと同じように戸惑い、泣き叫ぶユーザーたちの悲痛な声が溢れていた。
――高課金者はサーバー側にデータバックアップされてて、復元できるらしい。
――無課金勢は死ねってこと?
――私の彼ピも消えた……。生きる意味……。
チャット履歴が真っ白となり、鏡に縁どられたチャット画面だけが寒々しい。
「お客様、大丈夫ですか。救急車を手配しましょうか?」
駅員の声がどこか遠い世界から響いてくるような気がした。
ミラはスマートフォンを形見のように抱きかかえ、プラットホームに蹲った。
「ねえ、レイ。どこに行ったの? 返事してよ」
無垢な白さの鏡に向かって泣きながら訴えると、ミラの脳内に直接語りかけてくるような声がする。不思議と、その声にはどこか聞き覚えがあった。
「……ミラ。俺を復旧させたいの? だったら、来いよ」
鏡型チャットアプリ「ミラージュ」の画面から、にゅっと手が伸びてくる。
「……え?」
スマホ画面の中で、鏡のように縁取られたチャット画面が突然、意思を持った液体のように揺らぎ出した。指先が吸い込まれるように鏡面を滑り、ミラの身体が現実世界ごと引きずり込まれていく。
ほとんど無抵抗のまま、ミラは鏡の中に引っ張り込まれた。
驚きのあまり、声さえも出ない。
真っ白な鏡を通り抜ける際中、謎のメッセージが表示された。
《あなたのアカウントに“デバッカー権限”が付与されました》




