真珠の湖
翌日、ドロテーは早速自分の考えをまとめてみた。それに伴う問題点をあげてみる。簡単なようで簡単じゃない問題だ。ベッケラートは朝から往診で居なかったがエリクは興味津々でドロテーの話しを聞きに来た。
「ドロテー贈物は何?」
「ふふふ・・・それは二つと無い貴重なものでお金では買えないものです」
「?謎々を言っているつもり?だから何?」
エリクは身を乗り出して聞いてくる。
「だ・か・ら――それはこの国で最も高貴で貴重なレギナルト皇子です!」
「皇子だって!」
「はい。ティアナ様が何よりも好きなものといえば皇子しかありませんもの」
「そ、そりゃそうだけど・・・それって贈物にならないじゃないか。低俗な言い方だけど皇子は既にティアナ様のものだし・・・」
ドロテーの瞳が輝いた。
「そう!それよ!皇子はティアナ様のものだしティアナ様は皇子のもの。だけど独占状態では無いわ。皇子は何だかんだと忙しいしティアナ様はいつもお一人よ。お二人で過ごす時間なんか限られているもの。だから私の考えはお二人だけで一週間ぐらい何処か田舎でお過ごしいただこうと思うのよ。だから贈物はその場所と皇子」
エリクはその考えに唖然とした。ドロテーの言いたい事は分かったがそんな事で本当に良いのか疑問だ。
「それで本当にティアナ様は喜ぶわけ?」
「もちろん。こないだ花屋を再開した事があったでしょう?」
「ああ」
つい最近だが記憶を無くしたレギナルトから離れる為に、ティアナとドロテーはハーロルトと共に彼女の生家に戻った事があった。
「その時に一度皇子が来た事があって、ティアナ様は嬉しそうに食事の用意をなさっていたの。普通の家なら当たり前の風景でしょうけれど相手は皇子・・・そんな当たり前は城で通用しないわ。だからティアナ様にとって平凡な日常って大きな夢だと思うのよ」
「なるほど・・・場所はともかく問題は皇子じゃないか?」
ドロテーはそうだと溜息をついた。
「そうなのよ。場所は決めてしまえばそこら近辺を買い取って、見えない位置から囲んで警備させればいいでしょうけど・・・問題はその皇子の忙しさよ。まあこの提案を皇子に言えば何をさておき全て放置してでも行ってくださるでしょうけれど・・・それだとティアナ様が気を遣われると思うのよね。だから今ももっと一緒にいたいとか我が儘言わないのだから・・・んーなんか代わりの人がいれば良いのだけれどね・・・」
「そんな人がいたら皇子も苦労していないと思うよ」
「それもそうね・・・ほんと皇帝がもっとしっかりなさっていたら良かったのに・・・」
エリクはぎょっとした。
「ドロテー!不敬罪にあたるよ!」
ドロテーはエリクをチラリと見た。
「はいはい。あなたっていい加減な感じなのに、そういうところってハーロルトとそっくりね」
「むむ・・・・・・」
「皇帝陛下かぁ・・・一週間しっかりして下さい!っと言っても駄目だろうなぁ・・・あっ、そう言えば皇子が政に参加しだしたのはここ数年でしょう?その前は誰が陛下を助けていた訳?」
「その前って・・・それはベッケラート公爵が・・・あーそうだ!先生だ!」
ドロテーは驚いた。ベッケラートと政が結びつかないからだ。
「先生が?本当に?」
「ああそうだ。元々ベッケラート家は皇家が最も信頼を寄せる家系なんだ。だから摂政を務める事も多い。今はそれこそ医療に専任しているけれどあの当時は確かに政をしていた。しかもかなりの切れ者だった・・・」
妹君との死別を境に本格的に医術を始めたと以前聞いたが、その前の事は知らなかった。
「・・・・そうなのね。人は見かけによらないって言うけど。驚いたわ・・・でもこれで解決ね。先生が戻ってきたらお願いするわ」
ベッケラートとの昨日の件を許したわけでは無いが一先ずそれらは無視することにした。この用件の方が急ぎで優先させるものだったからだ。彼と二人だけで話すには抵抗を感じたが平気な振りをして切り出したのだった。
ベッケラートはつらつらと喋るドロテーを面白くなく見ていた。昨晩は結構自分的には押して、迫ったのだが今日の彼女を見てもその効果は見られなかったからだ。自制心がぶっ飛ぶぐらい自分はやられたというのにだ。自信を無くしそうだった。しかもやっと開放された政の世界へ行けと言うのだ。
「・・・・・オレは嫌だね。まっぴらごめんだ」
「先生!そんな・・・ちょっとほんの一週間だけでいいんです!別にずっとして欲しいと言っている訳では無いのですから。それに今は手のかかる患者さんもいませんでしょう?だからお願いします!」
ドロテーの必死な様子にちょっと心が動いたが首を振った。それに自分ばかり彼女の事を気にするから腹が立ってくるのだ。認めたく無かったが自分はこのドロテーにまいっているらしい。しかも結婚を申し込むほどだ。その想いがいつものように直ぐ冷めてしまうのかどうかは分からない。それにドロテーが自分の事をこれっぽっちも気にかけていないのが頭にくるのだ。少し意地悪をしたくなった。
「ドロテー。あんたがオレの女になるって言うならやってやってもいい。愛しい女の頼みだ、それだったら無碍には出来んだろう?」
ベッケラートはそう言って喉を鳴らすようにくぐもった笑い声を上げた。
ドロテーは一瞬黙り込んでしまった。もうこの男が何処まで本気で何処から冗談なのか分からなかった。そうじゃない・・・・本気は無いと思う。
危険な男だ―――地位も名誉も全て持ち、それに執着せずこんな場所で人の命を救う。しかしこの男は只の医者でも無い。そんな振りをしていても本当の姿は公爵なのだ。ドロテーにとって身分違いもいいところだ。アーベルが愛人かと言ったのも分かる。せいぜいそう言うものにしかなれないのが現実なのだ。
気が付けばそれが悲しいと思う気持ちが胸の奥にあった。ベッケラートが好きなのかと問われると分からなくなる。アーベルと経験したものとずいぶん違っているから分からないのだ。アーベルとの苦い思い出がこれに関してだけ臆病になってしまう。恋をしたくない・・・・そんな事で自分が傷付きたくないからだ。
たぶんこの男は獲物が手に入ったら遊びを終わらせるだろう。追うことに楽しみを見出している感じだ。結婚まで持ち出すとは行き過ぎだと思ったが、この男にとってどうにでもなる話だ。そして今、こんな条件まで出してくるのだから呆れるしかない。でもその深海色の危険な瞳が閉じ込めた感情を抉じ開けるのだ。
(こんなにグズグズ考えるのは私の性に合わないわ!)
ドロテーは決心した。自分が深みにはまる前にこの男に自分を与えて飽きさせたらいいのだ。まるで男心を弄ぶ悪女のようだが相手も似たような男なのだから遠慮はいらないと思った。ドロテーはそう思うと楽しげに笑う男の憎たらしい唇に自分から口づけした。ベッケラートは驚き笑いを呑み込むと瞳を見開いた。
そしてドロテーはさっと身を離して言った。
「先生のご提案、承知しましたから、お願いしますわね」
ベッケラートはまだ呆然とした表情のままだった。ドロテーが承知するとは思わなかったからだ。しかも彼女から口づけをするなど思ってもいなかった。付き合った女の中で積極的者はいたがそれでも女の方からなんて今まで経験したことないものだった。
ドロテーの瞳が挑戦的に強く光っているが本心は読めない。
ベッケラートは怯んだ自分を叱咤した。ドロテーの前だとどうしても調子がでないのだ。こんなに簡単に手に入ると拍子ぬけしたのは確かだが嬉しくも無かった。胸に広がるのは怒りにも似た想いだった。この気持ちを抑える事が出来ない。ベッケラートの瞳が暗く光ったような気がしたと思った時にドロテーはその腕に絡み取られていた。
「ああ・・・あんたの言う通りなんだってしてやる・・・契約成立だ」
その声にも怒りが滲んでいた。そして唸るように言ったその言葉が終わると、床に押し倒し深い口づけを落とした。
それは恋人にするようなもので無いのはドロテーにも分かった。簡単に〝自分を与えればいい〟と思った事を後悔した。彼は怒っているのだ。自分が考えたことなどこの男にとってお見通しだろう。それでも与えられた餌に食らいつく。口づけは許しても後は適当にかわせばいいと思っていたが自分の無力さに初めて怖いと思った。ドロテーは努力もせずに器用に何でも出来きて、父親からは男だったら良かったのにといつも言われていたぐらいだ。だから自分はいつも強気だし怖いものなど無かったのだ。
ベッケラートの熱い吐息が首筋から、いつの間にか広げられた胸元まで下りて来た時には涙が頬を伝っていた。そして身体が震え嗚咽が漏れた時、ベッケラートは、はっと我に返って顔を上げた。すると勝気なドロテーの泣き顔が目に入ってきた。彼女の涙する姿など当然初めて見たのだった。急激に頭が冷えてきた。頭にきたとはいえまるで獣のように彼女に襲い掛かったのだ。恥ずべき行為だった。ベッケラートはのろのろと身体を起こした。言葉が出なかったし泣く彼女を慰めることも出来なかった。今ドロテーに触れれば今度は何をするか自信が無いのだ。床に倒されたまま無防備に泣くドロテーは年齢より幼く見えた。しっかりしていてもまだ保護を必要とする少女に変わらない。
(歳の離れたいい大人がむきになって・・・まったく情け無い・・・)
ベッケラートはどうしようにも無くその場から立ち去った。そしてその日はとうとう帰って来なかったのだった。
翌日、ドロテーは泣きはらした顔を鏡で見ていた。
昨晩はエリクから色々聞かれたが一言も喋らなかった。エリクも諦めたようで今朝も簡単に挨拶をしただけで出て行ったようだ。彼も護衛と行ってもドロテーと出かける以外は自分の用事をしているのだ。
久し振りに泣いたせいか朝から頭痛がしていた。もしくは自己嫌悪のせいかもしれない。昨日は本当に馬鹿な事をしたものだと反省した。〝危険!立ち入り禁止〟という文字を読めない子供のようだと思った。
それにしてもベッケラートと顔を合わさずにいるのがせめてもの救いだと思っていた所に彼が帰って来たのだった。それも珍しく公爵家の馬車を診療所前に止めていた。
そしてズカズカ部屋に入って来るなりドロテーの手を掴んだ。またドキリと鼓動が跳ねた。しかし急いでその手を払い退ける。
その行為にベッケラートの動きが一瞬止まったが踵を返しながら言った。
「一緒に来てくれ見せたいものがある・・・」
躊躇するドロテーに再び振向いた彼は自傷気味に嗤いながら言った。
「何もしねえーよ。いいからついて来い」
ドロテーはそんな事を気にしていた訳では無かったが、結局待たせていた馬車に一緒に乗り込んだ。出発しても何処に行くとか何も言わないベッケラートはずっと窓の外を見ているだけだった。昨日は公爵邸に戻っていたのだろう普段の服装と大違いだった。しかしその晴れやかな衣装と反対に彼の顔は優れなかった。何日も寝ていないようにやつれていた。
ドロテーも無言だったが前を見ればベッケラートが目に入るので彼が見ている反対の窓を眺めることにした。しばらくして目的地に着いたようだった。
途中から私領地だと思うが通った事の無い道をずっと進んでいた。静かな小さな森を抜けるとそこは別世界だった。今は真冬だというのに緑が広がっていたのだ。そして丘のように見える不思議な風景があった。それは段々畑の湖のようで巨大な噴水のようだ。
「ここは・・・」
馬車から降りたドロテーは驚きながら周りを見渡した。
「ここはオレの所なんだが・・・地下に温泉が通っているせいだろうが昔っからここは真冬でも暖かい。そしてあれは淡水の湖ではなくて不思議な事に海水が湧き出ている」
「海水?では海なんですか!あっ、それってもしかして・・・」
「そう。海っていうもんでは無いが水質は同じだし水温は下がらないから真珠を作るのには最適な場所だ」
真珠は海の奇跡と云われる貴重な宝石だ。ベッケラート家ではそれを作り出す技術があると噂では聞いていたが、こんな場所があるとは知らなかった。この場所は極秘中の極秘だろう。
「此処に家を建てたらいい。三日もあれば田舎屋ぐらいなら建てられるだろう」
ドロテーはぎょっとしてベッケラートを見た。彼はこの場所に自分が考えた贈物の家を建てたらいいと言っているのだ。確かにここなら理想的だった。別世界のようなこの空間にもともと警備も万全だろう。しかし〝贈物〟にするのだからこの場所を彼から買わなければならない・・・・この巨万の富をもたらす場所をだ。皇子の指輪ならそれも可能だろうが、一時的に与えられる富と永遠に続く富では桁が違うし金額もつけられないだろう。仮に付けたとしてもそんな馬鹿な事をする者はいない。
「・・・・この場所を売ってくれると言うのですか?」
信じられないと言う顔をしてドロテーは尋ねた。
「ああ」
ベッケラートはあっさり答えたのだ。
「ば、馬鹿っじゃない!ありえないでしょう!先生はいいでしょうけれど少しは公爵家の事を考えたら?信じられない!先生は一応当主なんだから一族の未来も考えるべきよ!公爵家を潰すつもり!」
頭ごなしに怒鳴られたベッケラートは大きく目を見張ったが、笑い出した。
「ははっは、最高!いい、実にいい!ははは・・・こんなものどうってこと無いし、オレがいいって言っているんだから誰も文句はいわない。これぐらいで公爵家が潰れる事もないって!それにこれは昨日の侘びのつもりだから・・・」
「侘びですって!それなら尚更結構です!こんなのを提供されたら私がこの後、それに見合うものの対価をと考えただけで気が遠くなるわ!」
「見合うものって?だからこれはそうじゃなくて昨日の侘びだから」
「同じです!あ、あんなことぐらいでこんな事をされたら私、こ、困ります!」
ドロテーはどもりながら自分の顔が赤くなっているだろうなと思った。あんなことと見栄を張って平然と言えるほど慣れてはいないからだ。
その様子がベッケラートの心をくすぐるのがドロテーは分かっていない。手を出したい気持ちを抑えるのが精一杯の彼を刺激しているのだ。ベッケラートは昨日、一晩中思い悩んだ。彼女に誠意を示さなくてはと思った。その為にはドロテーが抱えている案件を手伝うことが一番だと思ったのだ。それなら最高のものを与えたいと思うのは自然な気持ちだったのだ。彼女がそれで喜んでくれるなら何に変えても叶えたいと思ったのだった。それなら真珠の権利なんかどうでもよかった。
喜ぶかと思ったらやはりというか予想は外れた。逆に怒らせてしまったうえに説教されたのだ。しかしそれがまた予想外で最高だった。
「あーあ、失敗かぁー喜ぶと思ったのにな」
残念そうな振りをしてベッケラートが言った。その様子にドロテーがひっかかった。自分が我が儘を言っている気持ちになってきたのだ。
「あの・・・先生。ごめんなさい・・・せっかく言ってくださったのに・・・つぅ」
興奮していた気持ちが落ち着くと頭痛が激しく脈打ち始めた。こめかみに指を当てたが、なんだか吐き気までしてきたのだった。
「どうした?」
「ちょっと・・・頭痛が・・・」
そう答えた自分の声が遠くに聞こえるようだった。そこで記憶が途切れた。
皇子の宮殿ひとつ分の髪飾りの贈物はスケール大きいけど、今回の贈物はドロテーが正論ですよね「馬鹿じゃないの!」ですがそれをポンとしてくれるベッケラートは大好きです(笑)