エセル視点のエリーゼの話「憎しみが生まれるとき」
「お前は……それでいいのか?」
「ええ」
不運なのか、幸運なのか。
海沿いのブリズンを治める領主の部下である下級貴族の一人娘、エリーゼ・キシュンは王に見初められてしまった。
その兄エセルは最後まで、彼女を心配そうに見送る。
「陛下のお姿はとても立派で、それは怖くないって言ったら嘘になるけど。あの方の瞳を見ていたら、大丈夫かなとも思えるの」
アヤーテ第八代目、オレガ・アヤーテ。
瞳は青色で、その髪は獅子の鬣のように黄金の輝きを持つ。立派な体躯で、小柄なエリーゼと並べば、夫婦というよりも親子のようにも見えた。
エリーゼが十六歳、オレガが三十一歳と年齢も十五歳も離れており、親子という表現は間違っていない。
オレガは王妃も側室も持たず、浮いた話もない。
なので、エリーゼの父はまさか自らの娘が見初められるとは思わず、歓迎の宴の際に王の給仕役として仕えさせた。
出世を目指す貴族であれば、王に召し上げられることは名誉なことであり、将来が約束されたようなものだ。だが、彼にはそのような野望もなく、自らの選択を悔いながら、娘を手放すしかなかった。
エリーゼの兄エセルも同様の気持ちであり、両親に妹を連れ隣国へ逃れることを打診したくらいであった。けれども、エリーゼに説得され、渋々ながら同意した。
「お兄様。いえ、エセル。元気そうでなりよりです」
結婚の儀から一ヵ月後、エセルは妹の元を訪ねた。
オレガはエリーゼを大切に扱っていた。それは寂しがる王妃のため、キシュン家を王宮近くに呼び寄せたことなどからうかがいしれた。
エセルにも王宮に仕える道が開かれたが、政治とは無関係でいたい彼はその道を選べないでいた。
「エリーゼ様。あなたもご機嫌麗しく、私も嬉しく存じます」
妹から王妃として挨拶をされ、エセルも改め礼を返す。
しかし、それは一瞬で、二人は顔を合わせると笑いあった。
兄といえども個室で二人きりになることは許されない。したがって、室内には侍女が控えていたが、彼女は兄妹の邪魔をすることなく、微笑ましく二人の様子を眺めているだけだった。
その様子からもエセルはエリーゼが使用人達にも大切に扱われていることを知り、胸を撫で下ろす。
そして目の前の貴婦人を眺めた。
エリーゼはすっかり女性らしくなっており、海辺で走り回っていたのが嘘のような淑女ぶりだった。
「お兄様。父上は風邪だと聞いているけど。大丈夫なの?」
「ああ。薬師を呼んでもらって、ゆっくり休んでいる。陛下は本当に我が家にも気を配ってくださる。お前のことを大切にしてくださっているみたいだな」
「ええ。本当」
少し頬を赤らめてそう答えられ、エセルは複雑な心境になる。
妹はまだ子供のままでいてほしかったと正直なところ、彼は思う。
「ところでお兄様!私、お友達ができたの」
「お友達?」
「ええ。レジーナ・マティス。とても明るくて、一緒に話していると何時も笑ってしまうの」
「マティス様というと、陛下の弟君ではないか?なんでも仲たがいしているという噂を聞いたことがあったが」
「ええ。それは本当よ。でも奥方のレジーナはそういうことないのよ。今回だって、陛下が頼み込んで、レジーナを私の教師にしたみたいなの」
「教師?勉強か?」
「うん。礼儀作法ね。ほら、私突然王妃になったから、色々わからなくて。それを陛下に言ったらレジーナを呼んでくれたの」
エリーゼは本当に嬉しそうに、緑色の瞳を輝かせて彼女の新しい友達について語る。
エセルは彼女の幸せな様子に、自分が抱えていた心配が考えすぎだったと思い直した。
「お兄様。お兄様は王宮に勤められないの?私。お兄様がいらっしゃるととても心強いのだけど」
「今はまだ考えているところだ。私は政治など向かないからな。腹の探り合いなどは好きではない」
「そういうものなの?」
「ああ。すまない。愚痴を言ったらな。お前は気にすることはないからな」
エリーゼがその瞳を曇らせ、エセルは慌てて手を横に振る。王妃はただ一人。側室もいない今、エリーゼが政治に巻き込まれることはないだろう。エセルはそう考えていた。しかし、自分が彼女を利用して王宮で地位を得ることになれば変わっていくのは目に見えていた。
そういう意味でも、エセルは王宮に入ることに戸惑いがあった。
そうして、妹が政治に巻き込まれないようにエセルは配慮して過ごし、二ヵ月後彼女の懐妊が知れ渡る。
「エリーゼ?」
子を授かり、さも幸せであろうとエセルは妹の下を訪ねた。
やはり王宮に勤めることは諦め、エセルは貴族の子息達の教師をしていた。毎日が忙しかったが、懐妊を祝うため、エセルは何度も妹に面会を求めた。けれども、おかしなことにいつも叶うことがなく、結局、彼が会うことができたのは妹の懐妊がわかってから、五ヵ月後であった。しかもそれは、王からの要請でしぶしぶエリーゼが許可したという流れであった。
ブリズンにいた頃は、農民に交じって生活をしていたため、妊婦を見る機会が多かった。なので、エセルは目の前にいる妹の姿に違和感を覚えた。
懐妊して五ヶ月。おなかは目立っている。けれども、その頬は痩せ、ドレスの襟ぐりから覗く鎖骨はくっきりのその形が見えるほどであった。
「どうしたのだ?」
「何でも、何でもありません。エセル」
お兄様と呼ぶこともなく、彼女は冷たくそう答える。
「何があった?」
「何も。だから、私は会いたくないと言ったのに。サフィラ。帰ってもらって。気分が悪いの」
「エリーゼ!」
無礼は承知、エセルは立ち上がると問い正す。
「お兄様。何も聞かないで。お願い。私をそっとしておいて」
そうするとやっとエリーゼは掠れた声でそう答えた。
「エリーゼ」
憔悴しきった様子。
しかもお腹に子供を宿している彼女にそれ以上の負担を帰ることができず、エセルは素直に帰るしかなかった。
それからも心配で何度か面会を試みた。
しかし断われ続け、エセルが次に彼女に会ったのは、臨月に入ってからだった。
「どうして、そんな風に痩せて」
お腹が異常に大きな病人。
まさにそのような風体の女性がベッドに眠っていた。
「どういうことなんだ?」
エセルは侍女に問い詰めたが、彼女が口を割ることはなかった。
「何かあったんだろう?陛下か?陛下が何か!」
見ていられない妹の姿。
エセルは血が逆上し、怒りで我を忘れそうだった。
「こんなこと、許さない!」
エセルは妹に背を向け、止める侍女を振り切った。そして扉に手をかけたとき、微かに聞こえる小さな声が耳に届く。
「お兄様……やめて。これは私が弱いせいなの。王妃なのに。こんなに弱い」
「エリーゼ!何を自分を責める。お前の何が悪いんだ?」
エセルはベッドまで駆け寄り、目を開けた妹の痩せた頬に触れる。
「お兄様。お願い。何もしないで。私のせいなの」
「何がだ?何がお前を苦しめている?」
「お兄様。私、もうすぐ楽になるの。この子が生まれたら。この子はきっと陛下に似た強い王になるわ」
「エリーゼ。どういう意味だ?エリーゼ!」
彼女はそう言ったきり、眠ってしまい、エセルはそれ以上彼女と話をすることができなかった。
このまま傍にいたいと願ったが、叶うわけがなく、エセルはしぶしぶ家にもどった。
それから一週間後の満月の夜。
待望の王子が誕生し、同時に王妃が命を落とした。
「エリーゼ」
国民達は、王妃の死を悲しんでくれない。
エセルにはそう思えた。
キシュン家だけが悲しみにくれ、父も母も泣き崩れ、エセルは嘆き叫んだ。
王妃になんて、なってしまったため、妹は死んでしまった。
彼にはそうとしか思えなかった。
剣を取り、王の寝所に入り込み、問いただしたかった。
――なぜ妹は死ぬ必要があったのか?
だが、そう考える度にエリーゼの声が蘇り、彼を止めた。
次第におかしくなっていく彼を危惧して、両親は彼に隣国行きを勧めた。跡継ぎのいないキシュン家は没落の道を辿る。けれども、両親はそれでかまわないと、息子を憎しみから解放するために、隣国へ出した。