三十九 近づく帆船
「ライベル。私も行きたい」
「だめだ」
二人はベッドの上で、睨み合うように対峙して座っている。
就寝時間近くになって、ライベルはやっと静子の部屋に現れ、明日出立することを伝えた。
静子は、日中パルに探ってもらって、エイゼンが侵攻してきたことを知っていた。それからライベルが戦地に赴くことも。なので、ライベルが出立準備で忙しく部屋になかなか姿を現さない理由もわかっていたが、苛立ちを募らせていた。
静子の脳裏に浮かぶのは、長らく戻ってきていない父の姿。
最後の記憶は母が寝敷きして皺を伸ばした茶色の軍服に、同色の軍帽を被り、勇ましく村を出て行ったもの。
もう3年近く戻ってきていなかった。
時折寄越される手紙、引き続き頂く給金から父親の生存を確認する。
町に広がる勇ましい大日本帝国の戦況。しかし静子は元より母親も心の底から喜ぶことはなかった。早くすべての戦争が終わって、戻ってきてほしいと父親の帰りを待つ。タエ達には気持ちは伝えたことがあったが、こんなこと村の人に言えなかった。
非国民と呼ばれ、疎外される。
それがわかっているため、兵隊である父を褒められる度に静子は笑顔をどうにか作っていた。
ライベルの場合は違う。
この国の頂点に立つ王。
王は守られるもの。
一番の要となる存在。
それにも関わらず、ライベルは国境沿いに自ら赴くことを譲らなかった。
それならば自分もついて行きたいと願う。
「どうして?私は待つのが嫌だ。ライベルの側から離れないから、お願い連れて行って」
「だめだ。俺は、戦地に立つ。お前のことを守ってやれないかもしれない。もしかしたら、俺のせいで、お前が傷つくかもしれない。だから、だめだ」
「嫌だ。離れるなんて」
「俺は絶対に戻ってくる。だから、頼む」
「……だったら行かないで。だって、王様だよね。普通は王宮で戦果を待つだけでいいよね?」
「それは駄目だ。今回は俺自身が行く必要がある。……俺のために。エセルと、エセルへの気持ちと決着をつけたいんだ」
「ライベル……」
「俺は多分余裕がなくなる。だから、そんな時お前がいると、守れる自信がないんだ」
「ライベルはエセルと会ってどうするの?もしかしたら、エセルはライベルを殺す気かもしれないよ!」
言いたくなかったが、静子はその可能性を口にした。
あの冷たい視線。
エセルは別人のような顔をしていた。
「わかってる。それを知りたいんだ。知った上で、俺は自分の気持ちに蹴りをつけたい」
「ライベル。嫌だ。だって、戦争だよ。いっぱい血が流れるって父さんが」
「父さん?そうだ。お前の父親は兵士だったな」
「うん。もう3年も会ってないけど」
「3年か。俺はそんなに待たせない。精々長くても2ヶ月程度だ。それまでには決着をつけて帰ってくる。だから行かせてくれ」
静子の両肩に手を置き、触れるほどの距離まで近づきライベルは懇願する。
緑色の瞳は揺ぎ無い光を帯びており、彼の決心を覆すことが無理なことを悟った。
「わかった。でも絶対に戻ってきて。お願い!」
「ああ。約束する」
ライベルはそのまま、静子を胸に抱きしめた。そしてその唇に口付ける。
「ラ、ライベル!」
口付けなどされたことがない彼女は、驚いて体をよじる。
「愛してる」
ライベルはそれを許さず、彼女を強く抱きしめたまま、再び唇を寄せた。
初めて与えられる感触。静子は訳がわからないまま、されるがままだった。息が詰るほど長く口付けされ、やっと開放される。
「寝るぞ。続きは帰ってきてからだ。この件が片付いたらお前を王妃にする。覚悟しておけ」
「覚悟?」
初めての口付けは、驚きで始まり、唇を合わせているという状況に恥ずかしくなったが、同時に静子に喜びをもたらせた。体の奥から何かがあふれてくるような、とても言葉では言い尽くせない感覚だった。
しかし、ライベルはそんな彼女を置いていくようにベッドにすぐに横になった。
「ライベル!」
説明してほしくて、彼の体を揺するが、彼は微動すらしなかった。
「ね、寝てる?そんなに早く?」
実際狸寝入りだったのだが、静子はライベルが疲れていることを知っているので、諦めてその隣に寝る。
するとライベルが後ろから抱き付いてきたが、すぐに体を起こした。
「シズコ。仕事を思い出した。今日は王室で寝る」
「え?こんな時間に?」
「ああ。明日の朝食は一緒に取るからな」
逃げるようにライベルが部屋を去り、残された静子は首を傾げるしかなかった。
翌朝何事もなかったように静子はライベルと共に朝食を取る。
昨晩のことを聞きたいような、聞きたくないような複雑な心境に駆られる。しかし、今日は出立の日でしばらく会えなくなると思い、静子は普通に振舞った。
時折、ライベルの唇を見ると、妙な気持ちになったりするのは無視して、パンを口の中に詰め込む。
彼も、意識しているのか、いつもより会話が少なく朝食が進んだ。
「陛下。シズコ様」
食事が終わりかけたころ、クリスナが部屋に入ってきた。
彼は王宮に残るため、普通の装いだ。
「そろそろご準備を。シズコ様も」
「え?私?」
「そうか。そうだったな」
フォークとナイフをテーブルに置き、ライベルが少し困った顔をしていた。
「昨日のうちに話すべきだった。出立前に挨拶をする必要がある。そのときにお前に横に立っていてほしいのだ」
「え?」
人から「偶像」的な目で見られるのは慣れてきていた。しかし、あくまでも通りすがりだ。人々の前に立つことには、まだ慣れない。
「シズコ様!」
戸惑っていると今度はレジーナが勢いよく部屋に入ってきた。
「早く準備しましょう。今日も豪勢に飾るつもりなのだから」
「えっと。あの、」
ライベルに返事をしないうちに、レジーナは静子の側にやってくる。彼女の期待交じりの興奮した緑色の瞳に、静子は観念するしかない。
「わかりました。お願いします」
「そうか。ありがとう」
「え?」
二人の言葉にレジーナはやっと状況をつかんだ。
「あら、ごめんなさい」
一人先走ったことに気がつき、彼女は目を丸くすると口を押さえた。
「まあ。よい。あなたのおかげでシズコも納得してくれた。さて、準備をするか。シズコもすまないが、頼む」
「うん。ちがった。はい」
二人っきりのように気軽に返事をした静子は慌てて言い直す。
そうして、ライベルも静子も食事を終え、それぞれの準備にかかった。
☆
「今日で四日目か。そろそろ、アヤーテ側にも動きがあるころだよね」
帆船に設けられた彼の私室で、彼はワイングラスを片手に笑う。
エイゼン軍の一部――シェトラの私兵百名は、三隻の帆船に乗り、アヤーテへ向けて船を走らせていた。
部屋にいるのは、彼ともう一人密偵役の男。
「アヤーテ沿岸に着くまであと三日。それから君の出番だよ」
「はっ」
海上のシェトラには状況はつかめていない。しかし計画通りであれば、エイゼンの国境軍は動き出し、その知らせが王宮へ伝達されているはずだった。
「さあ、ライベル。君はどう動くかな。エセルがいるってわかったら、飛んでいっちゃうかもね。それなら、それでエセルも大変だなあ」
彼は赤い瞳を輝かせ、唇の両端を吊り上げた。
シェトラの顔は整っているが、その色彩により人を遠ざける。
白い肌、白い髪。そして真っ赤な瞳。
白蛇を沸騰させるその容貌は人に恐れを抱かせる。
「あと三日。暇だなあ。作戦でも考えようかな」
密偵の男は無口のまま、シェトラが一人で話し続けている。
これは普通の状態で、彼の周りで余計な口を開けるものはいなかった。
シェトラにとって周りの者たちは置物もしくは駒に過ぎなかった。
行動のすべては彼自身が決め、ただそれを周りに伝える。意見を述べるものなどいない。
たった一人。エセルだけが異端であった。
彼だけが、シェトラに意見を挟み、時折諌めることもした。なので彼がアヤーテに移ってから、シェトラの行動は諌めるものはいなくなり、さらにおかしくなっていった。
現エイゼン国王にシェトラ以外の王子が存在しておらず、彼が唯一の後継者だった。次期王の命令ということで、周りの者たちはその命令に黙って従う。
私兵に関しては更にそれなりの報酬も与えているため、彼は駒に困ることはなかった。