第35話 それは愛憎
息が止まるというのは、比喩ではなく現実として起こるものだった。今の私は、このまま呼吸が出来なくて死んでしまっても構わないとさえ思っている。
「は、え……」
唇からこぼれるのは言葉にならない吐息だけだ。蜃気楼のように揺れる視界の中で、お姉ちゃんに手を伸ばす。足から力が抜けて、手は空を切った。
「あっ……」
「小雪っ! 今は無理に立つな……」
崩れ落ちる体をオールさんが受け止めてくれた。彼は私を無理に立たせずに、一緒にしゃがみ込んでくれている。
「美優っ……何があった。何があったら、お前がそんなことをするんだっ!」
オールさんの声が上手く聞き取れなくなっていく。私はぼんやりと床を見つめ続けていた。不意に、少し離れた所から、キングさんの声が聞こえてくる。
「傍聴席で聞いていたけれど、私からも言いたいことがある。この裁判を開き、小雪を起訴したのはライトオーダーとホープトレイターだね。ならば、覇牢地区長として私も美優さんを起訴させてもらおう。罪状は過去の複数回に及ぶ不法侵入だ」
キングさんの穏やな声に私は顔をあげる。お姉ちゃんの方を見ると、彼女は無表情でキングさんを見つめていた。
「私を起訴しても、小雪の死刑は覆らないよ……」
「そうだね。でも、君も罪に問われないと小雪が可哀想だろう? 複数回の不法侵入……意図的でないとしてもどれほどの罪に問われるのかな。もしかして、小雪と同じように死刑かな」
キングさんの言葉に、お姉ちゃんは唇を噛み締める。
「小雪ばっかり守られるんだね……」
顔を歪めたお姉ちゃんと目が合ってしまった。立ち上がろうとした彼女を、隣に座るホープトレイターさんが優しく手を取って止める。無表情のまま、ホープトレイターさんはお姉ちゃんの手を両手で包み込んだ。
「美優様、ホープはここにおります……」
「そうだね、私のホープ……あなたがいるなら、私の願いは叶う」
お姉ちゃんはホープトレイターさんの方を見て、見たことがないくらいに穏やな微笑みを浮かべていた。その笑顔を見た瞬間に酷い頭痛に襲われる。
「うっ、は、ひゅ……お姉ちゃん、私の前ではあんな笑顔したことないのに……」
「小雪っ、頭が痛いのか!?」
私は頭を押さえて、うずくまる。背中を撫でるオールさんの手を私は振り払った。あんなに優しくて綺麗な笑顔を、私はお姉ちゃんから向けられたことがないことに気づく。
「レディ、小雪を診てくれっ」
回らない頭で必死に考える。オールさんがレディさんを呼ぶ声が聞こえた。
「小雪ちゃんっ、僕の目を見て……」
レディさんが心配そうに私を見つめている。ああ、この目は見覚えがある。
「お姉ちゃん……」
私が見ていたお姉ちゃんは、いつも無理やり笑顔を作っていた。その笑顔を私は都合のいいように、優しい綺麗な笑顔だと思い込んでいたんだ。罪悪感で押し潰されそうになりながら、私は力の入らない足で立ち上がる。
「お姉ちゃん、ごめんなさい……私、お姉ちゃんに守ってもらっていたのに忘れたフリをしていた」
「やっと気づいたの?」
お姉ちゃんは無機質な冷めた目で、私を見下ろしていた。
「自分だけ全部忘れて……自分だけ逃げて、辛いことは全部私に抱えさせた。私があなたを守るために、一人でどれだけ泣いていたと思ってるの」
「ごめんなさい……」
「お父さんに殴られた時も……お母さんに怒鳴られた時も、全部私が代わりに引き受けていた。あなたは私の背中に隠れていただけだった。それでも……それでも、私はお姉ちゃんだからっ、私はっ」
お姉ちゃんは瞳に涙を浮かべていた。瞳が水面みたいに揺れているのに、それでも零れ落ちない。いつもそうだった。お姉ちゃんは私の前で泣いたことは一度もなかった。
「あなたをっ……守りたかった……」
「お姉ちゃん……」
「幸せになって欲しかった。傷ついて欲しくなかった。だから、私は憎らしいと思うほどに、あなたを大切にしていたの……」
声を失って、誰もがお姉ちゃんの言葉に耳を傾けていた。私はお姉ちゃんに何も言えない。ずっと守ってもらっていたのに、私はそれを忘れ続けていた。
「大切にしすぎたせいで、あなたが憎くなってしまった。自分の心を殺して、姉という役割に囚われて、あなたを救うことしか考えなかったから……」
「私を救うために殺したの?」
「あなたは覚えていないでしょ? 私があなたを殺した日……あなたは借金の肩代わりに、お父さんの会社の男に身売りされそうになっていた。生きている限り、私もあなたも自由にはなれなかった。他に方法なんて思いつかなかったの」
私はお姉ちゃんの言葉で少しずつ、記憶を思い出していく。あの日、首を切られたときに、振り返った私が見たのはお姉ちゃんの泣き出しそうな顔だった。黒いパーカーを目深に被って、ナイフを持ったお姉ちゃんの姿が頭の中で鮮明に浮かぶ。
「お姉ちゃん、私はお姉ちゃんが好き。殺されたのは、まだ受け止めきれない。だけど、お姉ちゃんがずっと守ってくれていたから、私は生きていたんだよね」
「小雪……もう何もかも遅いよ」
お姉ちゃんはそう言って、私達を順番に指さす。
「治安部隊、来て」
白い軍服を着た人達が私達の周りを囲う。お姉ちゃんは立ち上がって、私達を見下ろしている。
「ホープ、ライト……彼らを拘束して。この場にいる天守地区と覇牢地区の者達を全員処刑するの」
名指しされたホープトレイターさんは動かない。ライトオーダーさんも、お姉ちゃんとホープトレイターさんを見つめるだけだった。
「ホープ、どうして動かないの?」
「今の命令は、美優様の願いですか?」
ホープさんは優雅に白いマントを翻して立ち上がる。彼女はお姉ちゃんの前に跪いて問いかけた。
「私の願いだよ。だから、早く叶えて」
少し早口で命令するお姉ちゃんは、余裕がないように見える。ホープトレイターさんは目を閉じて、もう一度お姉ちゃんに問いかけた。
「美優様の本心からの願いですか?」
「っ……本心からの願いなの! あの子を処刑して、地獄に落とすの!」
幼くなった口調で、お姉ちゃんはホープトレイターさんの肩を掴む。跪いているホープトレイターさんを、お姉ちゃんは泣きそうな顔で見下ろしている。
「ホープ、私のホープ……叶えてよ」
「ええ、叶えます。あなた様の本心からの願いを叶えます」
お姉ちゃんはホープトレイターさんを抱きしめて崩れ落ちる。泣いている彼女を、ホープトレイターさんは、白いマントで誰にも見せないように隠す。
「まだ迷いがあるのならば、わたくしは動きません。わたくしは、美優様の意思を守る騎士ですから……」
白い軍服の人達が戸惑う中、裁判官のペインメランコリーさんが静かに告げる。
「一時的に休廷とする。各自、解散せよ」
ペインメランコリーさんの宣言により、白い軍服の人達は立ち去っていく。ライトオーダーさんが私達の方へ向かってくると、オールさん達は武器を構えた。
「どうなってるんだよ、ライトオーダー」
「うーん、美優ちゃんは話せる状態じゃないからねぇ。小雪ちゃんの処遇はまだ決められないね。後日、また裁判を開くことになるんじゃない?」
私はライトオーダーさんの話を聞きながらも、お姉ちゃんの事ばかりを考えていた。ホープトレイターさんの白いマントで隠されたお姉ちゃんは、きっと泣いているのだろう。整理しきれない感情を抱えて俯く。背後からキングさんの、やけに甘い声が聞こえてきた。
「正罪地区長と神言地区長に命令できる女性……彼女は何者なのかな?」
「キングくん、余計な詮索はしない方が良いよ。二つの地区を敵に回すのは、君にも荷が重いんじゃないかな」
「なるほど、神に仕える地区長達が守る女性ということだね」
またもや、私の頭上で静かな火花が散らされる。オールさんに支えられながら、私はゆっくりと立ち上がった。お姉ちゃんの方へ歩こうとすれば、片手でライトオーダーさんに制される。
「うちの子に近づかないでくれるかな。パパの可愛い美優ちゃんには、時間が必要なんだから……」
「でもっ……」
「君にはオールくん達がいるでしょ。美優ちゃんには、ホープちゃんが必要なの。これ以上、あの子を傷つけないで」
ライトオーダーさんの言葉に心臓が抉られるような感覚がした。自分の存在がお姉ちゃんを傷つけていたのだと突きつけられたのだ。何も言えない私の代わりに、ウルさんがハンマーをライトオーダーさんに向ける。
「てめぇが小雪の何を知っているんだよ」
「君は美優ちゃんの何を知っているの? 何も知らないよね。俺はあの子がどれだけの痛みを抱えて、今まで生きてきたか知っている。死んでキラーガーデンに来てからも、あの子は苦しみ続けていた」
ライトオーダーさんは私を冷たく見下ろしている。彼の瞳は穏やかなのにどこまでも冷たい。
「天音小雪、俺は君だけが悪いとは思わない。でも、今だけはあの子に近づかないで」
「分かりました……」
私は頷くけれど、素直に納得ができない。どうしても、お姉ちゃんとライトオーダーさんの関係が気になってしまう。
「お姉ちゃんとあなたはどういう関係なんですか……」
彼の目を見れなくて、私は顔を背ける。ライトオーダーさんの言っていることは正しいと思ったけれど、受け入れることが難しかった。つい、生意気な声を出してしまう。ライトオーダーさんは気にした様子もなく、ただ強い意志のある声で話し出した。
「俺は美優ちゃんの父親になるって決めた男だよ。俺はあの子の心を救う為ならば、どんな命令にも逆らう。それが神からの命令だとしても……ね」
彼は背を向けて、迷いのない動きで歩き出す。そして、お姉ちゃんとホープトレイターさんの前で立ち止まった。
「俺は罪人だよ。それで構わないと思っている」
彼の真っ直ぐな瞳と低い声からは、本気だと伝わるほどの気迫が込められていた。




