辺境令嬢は失恋しました
王宮の庭園は、まるで迷路だ。
生垣をぐんぐん歩くと、一瞬、自分がどこにいるかわからなくなる。方向感覚に優れたパトレシアが、本格的な迷子になることはないのだけど。
そんなところが可愛くないから、愛されないのかなあ、なんて、ガラにもなく落ち込んでしまった。
口をギュッと結んで、涙が溢れないように目を見開く。
朝までにはこの顔をなんとかして、笑顔でウェンディに会うんだから。
だって、振られて泣いたなんて知られたら、速攻でフレデリックに攻撃を仕掛けるだろうから。
止血の為だけど、大嫌いな氷を無理やり食べさせられたウラミもあるし。……ムリ。ウェンディが泣く。
あの人、剣の試合ではパトレシアより弱いけど、ノールールならおそらく学園最強だし。多分兄たちより強いし。ひょっとして、辺境軍最強の父に勝てちゃうかもしれないし。
「あれ? パトレシア。今年はまだ帰省しないの?」
めちゃくちゃに歩いていたら、花の王みたいな美男子に遭遇した。
満開の薔薇を剪定していたみたいだ。
こんな夜中に何をしているんだって話だが、おそらくは抜け出してきたのだろう。
「まあ、アーチライン様! こんな夜更けに!!」
パトレシアの涙が、思わず引っ込んだ。
「こんばんは、パトレシア。良い夜だね。ここ区画のバラは今夜が1番香りが良い日だからねえ」
「お久しぶりです。退院なさったのよね?」
「ああ。もう大丈夫だよ。婚約者も決まったし、9月から復学するから。宜しく頼むよ」
「まあ、おめでとうございます! 皆でお待ちしておりましたもの。婚約とは、二重におめでたいですわね。お相手はやはりレティ……」
「今年学園に入学したフルート伯爵家のシンシア嬢だよ」
被せるように発言を打ち消すなんて、穏やかなアーチラインらしくない。
パトレシアは若干青ざめている令息を見上げ、ハンカチを差し出した。
「冷や汗が。病み上がりに無理はいけませんわ。こちらのベンチへ」
「ありがとう」
王太子殿下の従兄弟アーチライン・シェラサード。
一昨年の晩秋に体調を崩し、長患いの末に回復したが、痛々しいほど痩せている。まだ、本調子ではなさそうだ。
「パティこそ。殿下に辺境伯をゴリ押しされたんだろう? 大丈夫かい?」
「はい。謹んで承りました」
「……そうか」
アーチラインは庭園の花たちを見上げると、気怠げに立ち上がってひときわ花びらが厚いクリーム色のバラを手折った。そして丁寧に棘をとり、パトレシアの燃えるような赤毛に挿した。
「うん。パティは華やかだな。こんな見事なバラを引き立て役にするんだから」
そのアーチラインこそ、綺麗な男だ。
褐色の髪に琥珀色の瞳。色こそ地味だが、キラキラしいフレデリックと並んでも、決して引き立て役にならない。
美形だなー、殿下と似てるなー、とは思うが、フレデリックと違って、さっぱりときめかない。
何故だろう。病み上がりで痛々しいからか。似ていても、本人ではないからか。
「…………私など、剪定された花以下ですわ」
呟いた声があまりに気落ちしていて、パトレシアが本人が驚いた。
アーチラインのまなざしは、変わらずに優しい。
「パティは、月華炎花って花、知ってる?」
「南部の火山帯に咲く花ですわよね? 群生を見たことがありますわ」
それは、この世のものとは思えない絶景だった。
燃え盛る炎のような形の白い花が、月の光に照らされ、西風に吹かれて揺れていた。
清廉とした香りもかぐわしい、不思議な花。
その秘境は、翼のある生物にしか辿り着けない断崖絶壁の果てにある。
「さすがワイバーンライダー。君の髪にあの花を髪にさしたら、他の花は全て霞んで見えるだろうね。唯一無二ってくらい、君に似合っている」
「はあ」
植物を愛するアーチラインは、花に例えて女性を褒めるらしい。至極キザだが、美形ゆえに様になる。
首を傾げると、アーチラインはもう一輪、存在感の強い大振りの芍薬をさしてくれた。
可愛らしい系の令嬢がやったらあざとさが勝つだろうが、凛々しい隊服姿のパトレシアには「麗人」という言葉がしっくりくる。
パトレシアは自分が美人の部類であることを知っている。
彫りの深い二重。高い鼻。口角の上がった大きな口。小顔で中のパーツが大きいから、迫力があるというか、まあ目立つ顔だ。
その上、男性の平均身長を上回る長身に、人目を引く豊かな胸と臀部。キュッと引き締まったウエスト。顔も体も、メリハリだらけだ。
肩で風を切って歩けば、10人中8人は振り返る。
下級生の女の子から、やたら手紙をもらう。
まあまあ美人ではあるが、可憐さはない。
それが、パトレシアの自己評価である。
「パティは学園でもマリアベルを立ててきたし、側妃候補って立場を弁えてきた。美人だし、スタイル抜群だし、まさに理想の側妃だ」
「……」
「でも、2番手に甘んじさせるのはもったいない。広い空をワイバーンで駆る女騎士を、狭い後宮に閉じ込めるなんて。月華炎花は王都でも貴重だが、手折れば原生の美しさを失う。貴女は、月下炎花の化身だと、どこかのキラキラした王太子がほざいていたよ」
そんな振られ方ってあるか。
パトレシアは頬を膨らませた。
「はっきり愛せないと言われた方が、スッキリしますわ?」
そう。こんな振られ方したら、嫌いになれないどころか、ますます思いが募ってしまう。
叶わなくても側にいたいと、矜恃をかなぐりすてて訴えたくなるではないか。
「ほんと、酷いよねえ。女たらしだよねえ」
「貴方がおっしゃいます???」
おどけるつもりが、涙が溢れた。一粒、二粒、頬を伝わり、隊服の胸を濡らした。
世の男性たちがうっかり二度見してしまう豊かな双丘を。
アーチラインは、見惚れも驚きも戸惑いも同情もせず、ハンカチを貸してくれた。
「いや、本当の話。2、3発、ぶん殴っていーと思うよ? 努力してきたんだから。甘んじて受ける度量はあるさ。仮にも王太子なんだ」
その王太子の腹心から、そんなことを言われるなんて思わなかった。パトレシアは指先で涙を拭いながら、泣き笑いした。
「いいえ。真実の側妃候補ならば、マリアベル様と王妃教育を受けてきたはずですもの。私が至らなかっただけですわ。お慰めありがとう。アーチライン様」
「正気じゃないのはフレデリックだ。パトレシアに非はないよ。マリアベルのスペアとなり得る側妃を認めないわ、後宮は潰すわ」
アーチラインが見上げた視線の先は、王妃の執務室だ。
あの部屋で、マリアベルが王妃教育を受けているのだろう。
パトレシアの胸がキュッと痛んだ。
ああ、あの人が、あの人だけが、今までもこれからも、殿下に望まれて生きるのか、と。
つい先日までは、「マリアベル様は、学びが多くて大変ですわね」と、同情していたのに。
各国の大使と通訳なしで会談しろとか。
国内の貴族は准男爵の6親等まで、全員名前と年齢が一致させろとか。
所作の美しさで、15歳までに作法の教師を超えろだとか。
20歳までに社交界を牛耳れだとか。
天才型のミネルヴァ王妃は、マリアベルへの無茶ぶりが半端ない。彼女自身は王妃教育に苦労しなかったらしいが、それを嫁に求めるのはどうなのだろう。
マリアベルも優秀だが、天賦の才より努力の人だ。
愚痴はいっさい言わないが、化粧が濃い日は徹夜で学んだんだと察して、バレない程度にフォローしてきた。
「マリアベル本人は、お飾りの王妃になりたいとか、白い結婚希望とか呟いてるけどね。あの逃げ腰がヤツの狩猟本能を刺激してるって悪循環、どうにかならないかね。見ててカユいし」
「そう。……マリアベル様が羨ましゅうございますわ」
パトレシアには真似のできない種類の努力を目の当たりにして、正妃を交代してくれ、なんて戯言は言えないけど。
「もしや、後宮の廃止されたのは、マリアベル様を逃がさないため、ですの? 廃止しなくても、増税すれば辺境伯の立ち上げは可能ですわよね?」
「いや、今のタイミングで増税するのは、景気が低迷する悪手だから。の、ハズ……だけど。……たぶん」
語尾が曖昧になる。
「ま、逃げるから追いたくなるんだろうけど、追われるから逃げたくなるんだよ」と、バッサリ。
そう言われてみれば、マリアベルは、さりげにフレデリックを遠ざけているような節がある。
嫌っているわけではなく、距離が近くなりすぎないよう慎みを持って行動しているというか。
ぶっちゃけ、びびっているというか。
銀の巻毛が美しい、高貴で優雅な公爵令嬢。目尻の上がったすみれ色の瞳に、雪のように白い肌、凛とした声を持ち、気が強そうにも冷酷そうにも見える。
だが、その心根はたいそう優しく、むしろ少々気弱な令嬢だ。人気者のフレデリックが令嬢たちに囲まれると、スーッと身を引いてしまう。
そんな時のフレデリックはーーー笑顔で不機嫌かもしれない。
そういえば、フレデリックが髪を束ねている組紐は、あざやかなすみれ色だ。マリアベルの瞳の色。
「切れそうだから、同じの編んで。明日までに」とか無茶振りをした次の日には、満面の笑みで受け取っていた。夜更かしさせられたマリアベルは、げんなりしていたけど。
なんだ。気がついてしまえば、けっこうあからさまじゃないか。白いハンカチに涙の滴が染みた。
マリアベルを、生まれて初めて本気で僻んだ。
せっかくの寵から、何で逃げるんだと。
でも、嫌いにはなれない。
だって、課せられた役目からは逃げてないから。
努力家を重ね、弱音を吐かず、睡眠時間を削り、貴族としての役目を果たそうと、がんばってきた子だから……。
「私ったら、まるで道化ね。親子で熱望して、お恥ずかしい」
「道化はフレデリックだろ。後宮をつぶしたのに『ただの婚約者』のままで、恋人に格上げしてもらえないって。相当じゃない?」
アーチラインは事実を言っているだけだが、パトレシアの心は幾分なぐさめられた。
数多の女たちを悩ませ、自らは求めるものを全て手に入れてきたように見えるフレデリックにも、ままならぬ想いがあったのか、と。
「でもね。辺境の増強とフレデリックの後宮、国益に直結するのは、間違いなく前者だ。君を側妃に召した方が国益が上がるなら、迷わずそうしている。どんなにマリアベルに執着してるとしても、だ。彼、そーゆーとこはシビアから」
「……でしょうね」
そういう人だから、多くの人に信用されるのだ。
無茶ぶりを叶えたくなるのだ。
目の前の男も、自分も、夏季休暇を返上して正妃にしごかれているマリアベルも。
「辺境の強化は、サンドライトの益になる。フレデリックは、その筆頭に君を指名した。臣下としてその期待に応えるか、女として要求を蹴るか。選ぶのは君だよ。パトレシア」
いささか退廃的に見えた少年は、為政者の眼をしていた。この男も、ゆくゆくは宰相を継いでフレデリックの治世を支えるのだろう。
パトレシアは、故意に唇を尖らせた。
「その言い草も大概ですわ? いっそう断れなくてよ?」
「だからこそ、ぶん殴るべきなんだよ」
確信犯的なウインク。
なぜだろう。なぜか、イラッとくる。
「では、王太子のスペア殿。貴方が身代わりになってくださいます?」
ポキポキと子気味よく関節を鳴らすと、アーチラインはパチパチと瞬きをした。
「うーん。君のパンチは、かなり効くだろうなあ。……ま、いいよ。花たちが潰れるのはいたたまれないから、回廊に移動しようか」
宰相令息は、あっさり納得した。
1年以上も、ベッドから起き上がれなかったくせに。
誰の味方かっていったら、絶対的に王太子の味方なくせに。
日和見に見せかけた大忠臣なくせに。
何で、恋に敗れた乙女の味方までするかな。
「……冗談ですわ」
パトレシアは、一旦は握り締めた拳を緩めた。
「せっかく健康を取り戻されたのですから。御身、大切になさい。それこそ、殿下も婚約者も悲しみますわよ」
髪に飾られた花を、アーチラインの耳のあたりに飾り返した。うん、やはり美形だ。
美形には、アザより花が似合う。
パトレシアは笑った。やっと笑えた。
右の頬を殴ったら左の頬を差し出しかねない忠臣のお陰で、笑うことができた。
いつかこの人やマリアベルと、フレデリックの治世を支える人間になれたらいいなと、少しだけ思えた。
ほんの少しだけ。
今はまだ、叶わなかった恋心が痛いだけだけど。